610 「昭和13年度予算編成(3)」
「ああ。『九五式』でも、重戦車の方を重点的にね。ソ連の脅威は年々高まっているから、合わせて新しい戦車師団の増設も前倒しに動く予定だ。新型の開発も人と予算を増やして急がせる」
私の質問にお兄様、もとい龍也叔父様が頷いてから答えてくれた。
それに「新型の開発」の言葉が出た時は、視界の隅で虎三郎が肩を竦めていた。昨年度から開発が本格的にスタートしているけど、まだ色々と問題があると聞いている。早くても今年中に試作、来年から配備くらいだろうとも聞いていた。
「そうなんですね。では、大陸向けは? 確か河川を渡る手間の関係で、日本国内以上に重い戦車は運用が難しいと聞きましたが?」
「それ以前に、蒋介石が持ち出したドイツの戦車は、スペイン内戦でも見られた『I号戦車』という、『九四式重装甲車』にも劣る軽量級の実質的には訓練用戦車が殆どだった。
数両だけ『II号戦車』という軽戦車もあったが、訓練の行き届いていない国民革命軍の運用では、対戦車砲で十分対処可能だという報告が届いている。正直不要だね」
「張作霖は戦車をくれって話なのでは?」
「彼らは訓練もこれからだし、見栄で欲しいというのが実情だ。無駄になるから、単なる供与や売却はないだろう。渡すにしても、装甲車で十分だ。一方で、蒋介石らに倒れてもらっては困るソ連が、大量の支援を送り、その中には重装備の軍事顧問団を送り込むという話もある。既に航空機は、どう考えても蒋介石らの軍隊ではない機体も見られている。
そこで陸軍でも、『軍事顧問団』の一環として旅団程度の臨時編成の機械化部隊に、自動化した輜重部隊、渡河機材を含めた機械化した重工兵隊を付けて送り込もうという話が内々であるんだ」
「戦訓獲得が目的だな。航空隊もか?」
「はい、ご当主。海軍も出したがっているので、航空隊は確定でしょう。機械化部隊の方は大きな損害を出すと問題なので、現地の状況を見定めてからという事なので、もう少し先になるでしょうね」
「『軍事顧問団』であって、義勇兵や満州臨時政府軍としてではないのですね」
「予算も内閣の予備費で既に盛り込む手筈だし、日本の『軍事顧問団』になる予定だよ。実戦経験は何よりも貴重だから、送り込む事自体は確定と思って良いだろうね」
「……次の戦争の準備ですか?」
少し慎重気味に聞いてみたけど、曖昧な笑みが返ってきた。
「あくまで実戦経験の獲得だ。勿論表向きは、中華民国政府の支援になるだろうけどね。それと場合によっては、英米仏との合同になるかもしれない」
「合同? やめとけ、やめとけ。言葉や暗号や、その他諸々が違うんだぞ。混乱するだけだ。それとも政府や陸軍の上は、既にそこまで考えているのか?」
お爺様の言った「そこまで」は、近い将来英米仏と共に戦う事を言っているのは間違いないだろう。
今までは、前の世界大戦でも観戦武官止まりで、別の国の軍隊と肩を並べて戦うというのは、上海租界で限定的に見られるくらいだ。
そして上海租界は海軍陸戦隊であり、陸軍としては合同の『軍事顧問団』を出せれば、教訓が得られるまたとない機会、予行演習となるだろう。
「そうなのですか?」
「永田さん、というか俺達はまだそこまで考えてない。正直、ソ連だけで手一杯だ。だが宇垣さんと吉田外相辺りは、有事の際の欧州派兵を考えているのは間違いない。それに海軍は、もう研究を始めている。欧州まで兵隊を運ぶのは彼らになるし、ドイツが仮想敵となったので潜水艦に異常なほど警戒感を示し始めているみたいだ」
「それじゃあ海軍は、予測より増えた予算で潜水艦に対抗する船を作るんですか?」
「航空母艦をもう1隻作るという噂だね」
「その話なら、俺も聞いているぞ。去年決めた大型の巡洋艦のうち1隻を別の小さい建造施設に回して、大型艦を作る準備をもう始めている。その話から考えれば、大型の航空母艦で確定だろう」
虎三郎の言葉に、内心首を傾けてしまう。
(大型の航空母艦? 体の主に一度聞いた、この世界の鶴姉妹の3人目かな? けど前世にしたゲームだと、大きな空母は潜水艦を攻撃しなかったような……)
「……空母を潜水艦対策に使うのですか?」
「専用の機体や既存の攻撃機の装備を変えれば、十分にいけるんじゃないかな。航空機は、柔軟性の高さが魅力の一つだ。それに航空母艦は、大型ともなれば大量の航空機を運用する。ただ俺が聞いた噂では、潜水艦対策には小型の専門艦艇を追加で何隻か試験的に建造するという話なんだけどね」
「そうなんですね。話を空母に戻しますが、来年度は船舶助成で大型の客船は作らないんですよね。有事に空母に改装するという前提の客船は?」
その言葉に、誰もが首を横に振る。
前世のオタク知識で、客船から改装した空母が潜水艦に強かったのを思い出したので聞いてみた。けど、作らないらしい。
ただ、うちの豪州航路の大型高速貨客船は、有事に空母に改装すると海軍からほぼ一方的に言われていた。けど、そういった船は、他には既に建造された大型の船に少し見られる程度だ。
日本郵船と大阪商船は大型客船を作りたがってはいるけど、海軍が客船に強い興味を示さなかった。
それでも海軍から有事に空母に改装する前提で、2万トン以上の高速客船なら金を出すと言われたけど、大きすぎて各社が尻込みしてしまった。
そこまで大きいと会社を代表するフラッグ・シップにはなるけど、採算割れ確定な上に、有事には空母にされたらたまらないからだ。
そんな状態なので、両者話が折り合わなかった。
もっとも、それとは別に昨年度計画で既に大型客船の計画は動いている。東京万博合わせで、海軍ではなく政府と商工省が助成金を出した形で、有事にも空母には改装しないと海軍に一筆書かせていた。
北米航路用の大型2隻と欧州航路用の中型3隻の建造が既に開始されていて、1940年春までに全船が就航予定だ。
有事の際は、空母どころか仮装巡洋艦にするのも禁止され、人員や貨物輸送以外に病院船とする事になっている。
そしてそれに、海軍も文句は言わなかったと聞いている。
有事に空母に改装できる船を相当数自前で確保出来たことと、何よりアメリカへの対抗をあまり考えなくなったのが大きな理由だった。
代わりに欧州への派兵という新たな課題が出てきたので、陸軍兵を運ぶのは自分達じゃないから、他が金を出すなら何も言わないのだ。
それでも、輸送の際の危険を多少でも考えているのだから、満足するべき状況だろう。
「で、玲子は、いつもの海軍への文句はないのか?」
「もう、大きな軍艦を作らないといけない時期だからね。条約を相応に守ってくれれば十分よ。そもそも私が怒るのは、海軍が条約に対して子供の言い訳みたいな事ばかりするからよ。私、悪くないし」
「海軍にも思うところは色々あるんだ。そう言ってやるな。じゃあ、具体的に見ておこうか」
その後も、しばらく軍事予算に関する話が続いたけど、その終わり頃だった。
話したのはハルト。私と話していた内容の確認だった。
「玲子の話だと、秋には大規模な軍備拡張に舵を切るって話だけど、うちはその備えをするのでしょうか、ご当主?」
「ドイツが無茶して、ついに英仏が腹を括るってやつだな。どうなんだ玲子?」
「オーストリアを併合したし、次はチェコスロバキアのズデーテン地方。もしくは、ポーランドのダンツィヒの回廊部分。どっちにしろ、話がまとまらなければ戦争よ。
けど、そのまま英仏が宣戦布告して一気にナチス政権を叩き潰す方が、ドイツっていうソ連への防波堤が無くなったとしても、最終的な損失は少なく済むかもしれないんだけどね」
「英仏にそんな度胸あるか」
せっかく私が、現状で最良かもしれない答えを言ったのに、お爺様が鼻で笑った。そしてその通りになるだろうと、去年の夏の欧州旅行で実感させられたので苦笑いしかない。
「でしょうね。けどね、話がまとまっても、ナチスは英仏の弱腰を見て対外膨張の動きを加速するのは、もう疑いようがないでしょうね。あんまりにも夢の通りに事が進むから、乾いた笑いが漏れそうよ」
「日本と極東は随分違ったのにな」
「アメリカ国内もね。私としては、そろそろ準備を本腰入れて進めるべきだと思う。半ばその為に、製鉄所は勇み足で拡張してもらっているし、重工業分野も全部、強気の姿勢って見た目で前のめりの拡張をして欲しいわね」
「だそうだぞ、虎三郎」
「うちの大抵の会社は、何年も前から後のことを考えてない拡張に入っとるよ。10年後には鳳は過剰な設備投資が祟って傾くとか言っとる連中も、内にも外にも両手で数えきれんくらいだ。
だがな、前の大戦の欧米の資料を見る限りだと、うちのやっとる拡大はどれもまだ足りとらん。金さえ出してくれれば、もっとするぞ」
「虎三郎にしては強気だな。善吉、どうする?」
「玲子ちゃん、いや玲子さんに聞いてくれ。流石に私では判断がつかないよ。ただ、2年先に大きな戦が始まるというのなら、やるべきだろうね。それに鳳グループ全体で見れば、今後10年平和が続いて経営が多少傾いても、四半世紀で見れば帳尻は合うよ。鳳には、耐えるだけの資産がある。そして日本には、まだまだ重工業は足りてないからね」
「お爺様はいいのね?」
答える前に念のため確認すると、昼行灯を引っ込めた表情が私を見返した。
「俺は、その腹の中の子供がでてきたら、爵位や議員はともかく隠居する。財閥もその後しばらくは、多頭体制って奴になるだろう。だが鳳一族としての旗振りは、玲子、お前だ。鳳の金は、お前が好きに使え。俺の許しはいらん。
それにだ、錆びついた年寄りの経験から見ても、大戦が近いのは間違い無いだろう。そして玲子、お前は小さい頃から、これから起きる大戦の為の全部を準備してきたんだろ。派手に行け、派手に。今更、他に遠慮するな」
真剣な話の最後にけしかけられてしまったけど、私としては苦笑しかない。
何人かに言われたけど、一国の命運を背負うとか、日本を何とかするのは傲慢でしかない。
だから返す言葉は、いつも通りの言葉でしかない。
「散財は私の趣味みたいなものだから、お金がある以上は使わせてもらうけど、私自身、鳳の一族、鳳グループ、この順番で少しでも幸せになれればそれで十分よ。国家の命運を懸けた戦争なんて、私の手には余るわ」
その場の全員が、信じてはくれなかったけど、それもいつも通りだ。
そして私が子供の出産・育児で第一線を離れている間に、鳳グループは大規模な事業拡張計画を発表。
それは政府の昭和13年度予算や、かなりお大尽となった陸海軍の予算よりも世間の目を集めた。
そして後に誰かが言った。
「鳳財閥は、真っ先に戦時体制の準備に入っていた」と。




