609 「昭和13年度予算編成(2)」
私が株主の事を思い出しつつ話を聞いていると、ちょうど言葉が途切れたあたりで手が挙がった。
紅家のテーブルの女性。となると、一人しかいない。瑞穂大叔母さんだ。相変わらず着物の上に白衣を羽織っているのは、ある意味この人の勝負服に思える。
そして相変わらず元気も良かった。
「グループ全体の話なら、少し良いかい?」
「ああ、遠慮しなくていいぞ」
一族全体のトップでもあるお爺様の許可も降りたので、瑞穂大叔母さんも少し改まって話始める。
「まずはお礼を。いつも言っているけど、1930年からこっちの莫大な投資と拡大事業によって、鳳製薬は業界内で日本有数の規模に膨れ上がった。しかもさらに拡大中だ。
大学は大きくするには限界があるけど、人材、金、機材、全て申し分ない。総合大と医大、工科大に分ける段取りも進んでいる。病院の方も、昔は1つきりだったのに、今や日本各地に大きな支部を持つ大病院の集団だ」
何が言いたいのか、いまひとつ掴めない言葉だった。
単にお礼を言いたいだけなら、この場ではなく、鳳のパーティーや社長会でも十分だろう。実際、そういう場面は毎回見ている。
そして言っている事もそのまんま。新薬販売と事業拡大、さらに中小の吸収、併合により、鳳製薬は日本有数の製薬会社に躍進した。
大学は、国の許しも必要だから、勝手に支部や分校を作るわけにもいかない。けど、大拡張以後は一気に拡大し、幼稚園から始まる学園全体も私学では一流と言われるようになりつつある。それに大学は、医学・薬学など専門分野で分ける動きがある。
そして病院だけど、鳳の製鉄会社や自動車工場の隣接部で1から街ごと作られるのに合わせて、総合病院を建てて回っている。他の大工場の周りでも似た感じだ。
けど、瑞穂大叔母さんの本題はここからだった。
「つまり鳳は、日本の医療、製薬を支える大黒柱の一つとなった。そしてそこで、一つだけ資料に欠けている点を追加させてもらう」
「叔母上、別に言わずとも構わんでしょう」
ちょうど言葉が途切れたところで、瑞穂大叔母さんの近くで小声。紅龍先生だ。そして「煩いね!」と邪険に扱われるまでがセットだった。
今や別の家を立てた公爵様で、陛下のマブダチで、陛下の周りの重臣の方々とも懇意なのに、やっぱり魂の格とかが違うんだろうと思わせる情景だ。
「鳳が普及させた新薬により、日本の人口はさらに上昇している。これは無かった場合の試算も合わせての研究結果なので間違いない。新薬が出た10年ほど前の日本の内地での総人口は、6000万人を超えた程度だったが、1937年度の概算統計では7400万人を超える」
「そして新薬が無かったら、人口はもう少し少なく、国民所得も少し低くなるという事か? ちなみに薬がない場合の総人口の推計は?」
「ざっと200万人少ない。されど200万人だ。それに死なないまでも、結核患者なんかも随分減った。日本各地のサナトリウムも随分減った。こいつらが健康に働けるって点も大きいよ。そしてこれが近代医学の力だ」
「なるほどな。よく分かった。他の事でも、何かあれば発言くらいしてくれ。それとも、まだ何か言いたい事があるのか?」
たまに見かけるけど、お爺様は瑞穂大叔母さんの扱い方をそれなりに心得ているので、この辺りは任せて問題ない。
もっとも私が感じたように、自分達の存在感を誇示したというより、見ているだけじゃあ退屈だからだろうという印象を受けた。
そして瑞穂大叔母さんは言うだけ言ったら満足したらしく、話が再開される雰囲気となった。
そこですかさず、小さく挙手する。
私も口を挟みたくなったからだ。
「話を戻すけど、臨時利得税をやめて国債発行とかは大丈夫なのよね?」
「はい。三土忠造は、なんだかんだ言って高橋是清の声を受けて動いています。あのダルマさんが大丈夫と言っている以上、誰も文句は言えません」
「龍也叔父様、軍の方は?」
「情勢が不穏だからね、もっと欲しがってはいる。でも、政府の方が上手だね。予算全体の比率で見ると、世界情勢を鑑みという事で一気に3パーセントも去年より比率を引き上げたから、安易に文句も言えない。海軍はおこぼれをもらったも同然で、喜んで追加の軍艦の計画を進めるようだ」
「流石は宇垣様ですね」
「ああ。正直、頭が上がらないよ。永田さんも、有難い事だと苦笑いしていた」
予算比率の拡大は、大陸の内戦が飛び火した場合に備える為、ソ連の軍拡に対抗する為、不穏な雰囲気が増している世界情勢に対応する為、政府としても様々な理由はある。
軍としても、もっと増やせと言う声はある筈だ。
だから先手を打って上手く抑えたと言うことになる。
「使い道など分かりますか? 前見た情報だと、張作霖からの要請と需要増に乗じて、量産効果で単価の下がる武器の調達、弾薬の備蓄を増やすとか?」
「陸軍はその通り。だが、近場で調達が早く済む日本への、張作霖からの発注は多い。拳銃に始まり、小銃、機関短銃、各種機関銃、手榴弾、擲弾筒、軽砲、対戦車砲、高射砲、野砲、なんでもありだ。鳳だと、トラック、牽引用トラクターだね。戦車も寄越せとも言ってきているが、陸軍上層部や政府の判断待ちだ」
「そして、それらの弾薬ですか?」
「ああ。平時と戦時では弾薬の消費、生産量は桁が大きく違う。だから平時でも弾薬の原料の生産力自体を引き上げる事に、今回金を使う。近代化して各師団の火力を上げたが弾の数は昔のまま、では話にならないからね。
一方で、平時での生産拡大は難しいのが実情だ。そこで火薬の原料にもなる人工肥料の生産力が頼りとなる。だから、その手の企業に生産力拡大を事前に出来ないかという動きも強める」
「硫安に代表される人工肥料は、化学大国ドイツが世界市場でも強いし、近年まで日本も多く輸入していた。だが、昨今ドイツとの関係が薄まっているから、日窒などの各社は設備投資を増やしてはいる。鳳も例外ではないよ。作る為に必要な電気も随分と増えたしね」
グループの言葉としての善吉大叔父さんに、龍也叔父様が強く頷く。
「はい。心強く思っております。ですが、大陸で行われている戦闘での弾薬消費量を調べてみると、我々の判断が大きく誤っていたと分かってきたのです」
「多少増産したくらいでは足りないと?」
「正直言うと、そうなります。鉄鋼生産は大きく伸びているので心配していないのですが、それですら平時は民需に取られてしまい、自分達の分が確保できないと陸軍内では危惧している状態です。弾薬の原料となると、さらに深刻なんですよ」
「そうなのか。だがそう言われても、鳳グループの硫安生産量は限られている。陸軍の声に応えるとしたら、鉄の方だろうね」
「はい。陸軍全体で各社に声をかける事になっています。鳳には、俺からも言っておいてくれと頼まれました」
「鉄なら任せてくれ。君津の拡張が決まったし、水島の埋め立て拡張が済めば、そこにも1つデカイのを作る。もっとも水島の方は、1941年まで待ってもらわんといかんがな」
虎三郎が力強く言い切る。
鳳の重工業のボスとしての自負を感じる力強さだ。
「君津は?」
「去年、アメリカにすぐに輸入できるものがないか打診したが、すぐには無理と分かり自力で組み上げを始めたばかりだ。もう1年待って欲しい」
「どの程度の生産力を? 現状では、今年中に加古川が稼働すれば、総量で800万トンと聞いていますが」
「千葉の君津は追加で100万トン、水島は時間と資材さえあれば、5年以内に300万トンいけるが、100万トン以上は期待しないで欲しい」
それに龍也叔父様が強めに頷き返す。
水島の製鉄所が稼働し始める1941年だと、ほぼ確実に大戦争の真っ只中だろうと、既にこの場の誰もが認識しているからだ。
「他はどうなんだ?」
違う資料を手にとりつつ、「それは私が」と貪狼司令が応える。
「日本製鐵と浅野財閥系、それに満州の昭和製鋼所、あと半島に若干。それら全てを合わせれば、粗鋼生産量は現時点で約700万トン。日本製鐵が2つほど大型高炉を作る計画しておりますので、他と合わせれば3年以内にもう100万トン程度は上積み出来るでしょう。
ただし、鳳以外の鉄の生産は、あくまで粗鋼の数字。平炉を使っているところもあり、銑鉄での数字となると他国に比べて比率で劣るのが現状です」
「質を言い出したらキリがなかろう。合わせて1800万トン。有事だと採算度外視の増産で1割増しとして、ざっと2000万トン。これで、他の国と喧嘩出来るのか?」
そう言って、私と龍也叔父様を見る。そして私は、龍也叔父様に一度視線を向けてから先に話す事にした。
「ちょくちょく話しているけど、粗鋼生産量なら現時点でも英仏は超えているわよ。今はドイツと、生産量激増中のソ連との競走中って感じね。
ドイツは戦時生産の数字がまだ見えないけど、周りを国ごと飲み込むから多分勝てない。ソ連の5カ年計画通り進んでいるだけなら、1941年時点で日本が少し上回りそうね」
「おーっ、露助を超えるのか。頼もしいな。となると、問題はやっぱり火薬の方か」
「はい。日窒など関係各社には、設備投資を促すとともに生産効率の向上を進めさせています。これは、鳳グループが10年以上行ってきた上野陽一氏らによる能率化で、かなり改善されると見られています」
「陸軍工廠の方は? 海軍も?」
「海軍工廠は一歩遅れだけど、陸軍工廠の能率化は導入して5年以上になる。数字の上でも、大きく変化しているよ。そうしないと、鳳が作る戦車に載せる大砲の生産が間に合わないからね」
「つまり、戦車も増産ですか?」
「ああ。予想以上に予算が増えたからね。特に3カ年計画は、経済成長率を高くは見積らずに立てるから、1930年代に入ってからは計画を立てても上方修正ばかりだよ」
「『九五式』の増産ですよね」
口にして、数年前に見た戦車を思い浮かべる。
1937年度の概算統計では7400万人:
史実の1937年の総人口は、日本本土で約7063万人。
この世界で増えている要因は各種新薬だけでない。1931年以後の徴兵数が、史実より低い事(相対的に出生率が高くなる)も若干だが影響している。さらに景気動向も影響している。また、景気が良いのと満州国が成立していないことから、日本から出て行く人(プラス移民)も大きく減少している。
新薬だけが理由ではない。
なおこの世界では、1941年に8000万人超えるかもしれない。
(史実は1941年に7160万人)
粗鋼生産量:
史実日本は、朝鮮、満州を足した最大数値で1943年に884万トンを記録(※統計資料によって違いあり。)。ただし銑鉄生産量が少なく、屑鉄が必要な平炉が多いなど、質の面で弱かった。しかも民間から金属の拠出までさせている。
また戦争中なので、経済原則まるで無視で、設備を含め諸々に無理をかけた生産による数字になる。
そこまですれば、この世界の生産量ももう1割くらい上乗せできる。




