606 「1938年春先」
1938年も3月に入ると、国会は来年度の予算審議も大詰めに入る。
本年度も、かなり派手な経済成長だったので、一昔前から考えたらお大尽な予算が組まれつつある。
その予算を組む宇垣内閣は、『二・二六事件』事件の後に成立したので、この春先がくれば丸2年。政権運営、外交、軍事、そして経済、全て順調なので国民からの人気も高く、まだ交代という声は出ていない。
次の椅子取り合戦は水面下で始まっているけど、大陸での大規模な内戦とそれに伴う特需発生による景気刺激で、その話も少し遠のいたと聞いている。
あっても内閣改造止まりだろう、というのが下馬評。
そして日本国内は、いまだ好景気が続いている。1931年からなので、7年続いた事もあり息切れするだろうという予測が覆されたので、世論も市場も強気だ。
鳳グループでも、次の戦争に備えた拡張を行ったり、次の準備している。
当然だけど、日本国内に戦争の気配はない。政府も陸軍も、戦争に向けた動きなど一切していない。
ただし、世界情勢を鑑みて軍備増強はもう少し積極的に行うべきだという雰囲気が強まり、来年度予算に反映されそうだった。
そして日本が平時なのにやや軍拡傾向なので、軍人、国士様、総力戦論者もそれなりにご機嫌らしい。
ついでに言えば、強硬な精神論者が表面上は少なくなったので、国内はさらに安定している。
一方の世界情勢は、大陸の内戦では、張作霖の中華民国軍が揚子江上流の武漢地域を攻める為の作戦準備中。分析では、夏頃か遅くとも秋に動くだろうとの事。
一方の蒋介石側は、共産党がマイペースにゲリラ戦主体の徹底抗戦の準備に余念がないらしい。共産党にしてみれば、最初期の賭けに失敗した以上、既定路線に近い。
そして汪精衛らの広州政府は腰砕けで、蒋介石側からの離脱も有り得るのではないかと言われている。
けど蒋介石は、徹底抗戦の為に武漢からさらに疎開準備中。その場所は、内陸奥地の雲南軍閥や広州政府に属している広西軍閥に近い貴陽。
貴陽は内陸というより山岳地域なので、ここまで下がり徹底抗戦されると攻めるのはかなり面倒だ。
そこで張作霖ら中華民国政府は、山を挟んで貴陽の北側に位置する四川軍閥への肩入れを深めて脇を固め、さらに奥地に当たる雲南軍閥の懐柔をしている。
さらにイギリス、フランスに働きかけて、インド(ビルマ)、インドシナからの物資の流れを止めようとしていた。雲南軍閥が逆らえば、雲南軍閥も貿易と物資の流れが止まるという策だ。
そんな情勢なので、張作霖が武漢を落としたら内戦は一応の終結に向かうだろうというのが楽観的な分析の結論。武漢陥落で、蒋介石はまともな足場の大半を失うからだ。
その一方で、共産党は徹底抗戦を宣言しているし、ソ連、コミンテルンの命令があるので、内戦は別の形になるという見方だ。
そして何にせよ内戦は続くという事で、一定程度の戦争特需は続くだろうと見られていた。
大陸以外の世界情勢では、2月からドイツが強引に進めていた『アンシュルス』、ドイツによるオーストリアの一方的な併合が進んでいた。
そして3月12日に、ドイツ軍は第2装甲師団を始めとする軍隊をオーストリアに迅速に進駐させてしまう。
翌13日にはアドルフ・ヒトラーもウィーンに入り、オーストリアのナチス信奉者や併合賛成派の熱烈な歓迎を受け、オーストリアを併合した。
侵略行為と言えるけど、大ドイツ主義と小ドイツ主義の頃から一つになる、ならない、という議論があるし、併合の議論自体も第一次世界大戦後からあるし、同じドイツ民族だという事もあってか、諸外国はドイツの動きを非難したりはしなかった。
行った事と言えば、オーストリア大使館を領事館に格下げし、ドイツのオーストリア併合を認めた事くらいだった。
ただ私は、一つの報告を受けていた。
「やっぱりか」
「何がやっぱりなの?」
「ドイツが真っ先にオーストリア中央銀行の金庫に手をつけたんでしょ?」
いつもの仕事部屋で、私同様お腹が随分と大きくなったマイさんの質問に、お芳ちゃんが私の代わりに答えた。
そしてそれ以上言うべき事もないので、頷くにとどめる。
「それでお芳ちゃん、ドイツの財政はそれで一服つくの?」
「全然。この2月にメフォ手形はようやく止めたけど、実情は見せかけの好景気。舞さんも知っている通り、ドイツ国内経済は軍需と公共投資がいびつに膨れ上がって、そのおこぼれでドイツ全体が見た目の上では好景気になってはいる。だけど、産業別の賃金格差は酷いし、全部砂上の楼閣ですからね」
「お芳ちゃん辛辣だなあ」
「じゃあお嬢の意見は?」
「雇用も、軍隊が吸収してユダヤ人の職を奪っただけ。そしてそれも、もう限界。今年秋までに、ドイツ国債がどれだけ売れるか見ものね。事実上の、ドイツ財政への死刑宣告になるんじゃない?」
「余計酷いじゃない」
「つまり、オーストリアを併合しても、焼け石に水って事ね」
そう結んだマイさんが、軽くため息をついた。
「はい。総研の割り出した数字だと、オーストリアの金と外貨準備など諸々合わせて、最大で8億ライヒマルク相当。日本円だと11億円くらい。一方で未償還のメフォ手形が、最低でも120億ライヒマルクあります。それ以外にも、通常の積極財政政策で政府の債務はてんこ盛り。大増税をしないなら、お札を刷って大規模インフレを容認するしかありませんね」
お芳ちゃんの解説に私も強く頷く。
「インフレになったら、今まで政権を支持していた国民がどう思うか」
「玲子ちゃん、他人事ね」
「うん、他人事です。それに一応ですけど、メフォ手形が危険だと、うちの新聞でも何度か取り上げさせたし、欧米各国にも情報回して危険の喚起はしてもらったじゃないですか。ドイツにすら。全部鼻で笑って無視したのは、当のドイツ国民ですから」
「確かにしたわね。あれ、随分ドイツ政府やナチ党から怒られたっけ?」
「私達にまで話が来ないところでは、かなり強い脅しまであったそうです。それにドイツ外務省の人間が、鳳の人間を監視していたという話もあります。あのゾルゲも、鳳が気になるみたいですよ」
「怖いわね」
「もう何もないから、大丈夫だそうですけどね。ただ、ユダヤ人の関連の事で色々と目は付けられているし、ドイツでの商売はあがったりです。だから、フランクフルトの支社はジュネーブに移す事になりました」
「ついにか」
マイさんがため息を吐くように答えたけど、鳳商事、銀行のフランクフルト撤退は、表向きですら2年ほど前から決まっていた事だ。内々だと、ナチス政権成立時点で決めていたし、私としては当然の動きでしかなかった。
「はい。オーストリアも併合されたし、ヨーロッパ大陸中央で安全な場所はスイスくらいですから」
「ますます厳しい情勢になりそうだものね」
「ほんと、そうだね」
一見マイさんへの相槌だけど、何か含まれている。
長年付き合ったから感じ取れるってやつだ。
「何、お芳ちゃん?」
「こんな時期まで、厳しい情勢に目を向けなくても良いんじゃないかなってね。関わる気もないんでしょ?」
「うん。欧州には手の出しようがないからね。それでお芳ちゃんは、私とマイさんはベッドの上でゴロゴロしてろって?」
「そこまでは言わないけど、そのお腹だからやる事は別にあるんじゃない?」
「世の中の大半の妊婦は出産ギリまで働いているから、家事一つしないで座ったままの私は楽なものよ」
「でも、お芳ちゃんの言いたい事も分からなくはないわね。お腹の子に、あんまり暗い話は聞かせたくないものね」
「ですよね。それに母親の精神状態が悪いと、お産に響きかねないでしょ」
「私にとっては、この程度そよ風みたいなものよ。この中の二人も、さっきも元気に揃ってお腹を蹴飛ばしてたわよ。一人用に二人入っているから、狭いんでしょうね」
「ほんと、大きくなったね。大丈夫?」
一転して心配そうに私のお腹を見る。まだ臨月入る前だというのに、私のお腹はマイさんより一回りくらい大きく思える。ぱっと見だと、お産のカウントダウン直前って感じだろう。
「予定日は4月上旬から半ば。お医者さんは、双子は早く出てきやすいから覚悟と準備しとけって、回りくどい言葉で言ってるけどね」
「まだ臨月じゃないんだね。まあ、そうか」
「うん。最短で新婚旅行中にスタートだから、来週くらいから臨月。だから、激しく動いたりしないようにしているわよ。それなのに、シズ達が私に過保護すぎて困っているくらい」
「危ないからね」
「危ないのもあるけど、できる限り予定日に近い方が、健康な子供になりやすいし、親から渡せる免疫とかも増えるでしょ」
「そこまで考えているんだ」
「うん。今出来る事はそれくらいだし。それに調べてもらったら、双子出産の2人に1人は臨月以前に出産だって。最新最高の医療を受けられるとはいえ、未熟児で生まれたら危険もあるからね」
「ほんと、そうだね。でも、とにかく仕事は私達が出来る限りしておくから、お嬢と舞さんは体を大事にしてね。鳳にとって、母子ともに大切なんだから」
「「ハーイ」」
私に優しいお芳ちゃんも珍しいけど、ここは素直に従う事にした。
アンシュルス:
ナチス・ドイツがオーストリアを併合した出来事を指す言葉。
まだ臨月じゃない:
36週から臨月。40週がゴールライン。




