604 「1938年始」
1938年が明けた。
今年の正月は私の留袖デビューの筈だったけど、思ったよりお腹が大きいので諦めるしかなかった。
なにせ二人エントリー済みで、既に全行程の約3分の2を消化。恐らく早産になるだろうから、4月初旬じゃなくて3月か、下手をすれば2月の出産予定だ。
(そういえば早産の可能性が高いから、誕生日が私と重なる可能性は低いのか。来年、もう一回チャレンジしてみようかな)
元旦の朝に、自分のお腹と隣で眠るハルトを見つつ、そんな事を思う。
そして今年からは、毎年していた私の元旦恒例行事の一つが出来ない事にも気づいた。自分で作った前世の歴史の資料などを見つつ、今年に何が起きるのかを簡単に復習し、決意を新たにするってやつだ。
世界情勢はますます厳しさを増しているので、何か別の方法を考えないといけない。
もっとも、事が戦争になってくると、私に出来る事は無くなっていく。所詮は商人だから、見ているしかない。
(この1月って何があったかな? 前世の歴史だと確か近衛文麿が外交の基本を知らないようなバカな事を言って、大陸との戦争を完全に泥沼化させるんだっけ?)
世相や情勢について考えるのを止めようと思ったのに、染み付いているのか、ボーッとしているとついつい考えてしまう。
隣では、ハルトが気持ちよさそうに寝息を立てているけど、時間はまだ6時より少し前。こうして少し早く目覚めるのも習慣化したけど、こんな幸せな状態で考えるべきじゃないと、頭を振り考えを止める。
そうすると、私の動きが激しかったのか、隣でハルトが目を覚まし始めた。
「おはよう、ハルト」
「……うん。おはよう。もう朝?」
「もうすぐ6時。まだ寝てて良いわよ。昨日は日付が変わってからも、随分起きていたんでしょう?」
「うん。玲子もゆっくりね……」
そう言って再び眠りに落ちていった。
こっちは目が覚めてしまい、二度寝はできなさそうなのでゆっくり静かに身を起こす。そしてしばらく、旦那の寝顔を見る。
お互いを呼ぶときに「さん」付けをやめたのは、新婚旅行の時だった。
それまでは、世の中を見ても互いをさん付けなど敬称を付けるのは結構普通の事なので、気にしていなかった。
けど、入り婿だろうと結婚すれば二人の間だけでも対等にしようと、公的な場以外では呼び捨てにしようと決め合った。
そんな呼び捨てしあうようになった旦那のほおに軽く手を触れてから、ベッドを離れ部屋の外へ。
元旦は特に人がいないし、今朝は朝8時に起こしに来る事になっているから、部屋の外に人が控えていたりはしない。それに、屋敷の警備も中までするのは特別な場合だけだから、だだっ広い屋敷の中は静まり返っている。
それに元旦の日の出は7時くらいらしいから、窓の外もまだ少し明るくなり始めた程度。それでも屋敷の中は各所に常夜灯が灯っているから、手元に灯りがなくても歩く程度は支障はない。
そんな中を少し歩いて、仕事部屋へと入る。
部屋の中はいつも通り。前と少し違うのは、一角にクソでか金庫が追加された事くらい。
こいつは私版のパンドラの箱と言えるもので、私が書き溜めた前世の記憶の断片が放り込まれている。
(パンドラっていうより、未来予知だからラプラスの悪魔? けど金庫だから箱よねえ。ラプラスの箱って確か何かのアニメで出てきたよなあ。けど、私がラプラスの悪魔くらい頭が良ければ、もっと楽なのになあ)
相変わらず下らない事を思いつつ、小さめの灯りをつけて机の上の資料を見る。
年始から見る予定だったもの。一つは、去年末に情報が入ったもの。もう一つは、正月早々に動き出す計画のものだ。
(近衛文麿の事を思い出したのはこのせいか)
手に取ったのは去年の方。
張作霖の中華民国政府が、蒋介石ら敵対勢力に提示した第2次和平案というやつだ。
南京を落として調子乗った感が半端ない内容で、最初の穏当な案に比べるとかなり酷かった。
突き詰めてしまえば、『お前ら全員併合。共産党は皆殺し』という事になる。
(なんだか、前世の歴史の『トラウトマン工作』と重なるのよねえ。人も同じだし。けど、内戦だから和平案を提示するだけ、北伐の時の蒋介石より温情ね。
ただなあ、和平案を提示するって事は、皆殺しや全土蹂躙する力がないか、したくないかのどっちか。南の方は中華ソビエトみたいに隠れる場所が多いから、攻め込みたくないんだろうなあ)
そう思いつつ、別紙をめくる。
こちらは南京臨時政府、広州臨時政府、中華ソビエトの動きと反応。広州臨時政府の汪精衛は、国をこれ以上乱すのは深い禍根を残すという理由で、手を上げる気満々らしい。
蒋介石は、初期案の段階では幹部と共々受け入れる姿勢があったけど、内乱で敵対し、しかも戦いを仕掛けて負けた以上、自分達が許されるとは思っていなかった。
中華ソビエトは、覚悟完了、ガンギマリの徹底抗戦。なにせこの人達、勝つまで戦う以外、戦って死ぬか、裏切って死ぬか、サボタージュして死ぬか、などなど死ぬしか選択肢がない。
本当にタチの悪い宗教みたいだ。
そして命じた総本山のソ連としては、今回の大陸での内戦に勝って以後の行動予定が、日本の目を大陸に向けさせてソ連の安全を少しでも確保する事にある。
その為、支援や援助は惜しまないと伝えているらしいけど、身代わりどころか生贄もいいところだ。そしてソ連以外に頼るところがない共産党は、命令に従うより他なかった。
(前世の歴史とは違うけど、早々に交渉決裂して戦乱は泥沼化だろうなあ。共産党の主戦法のゲリラ戦とテロ活動は、注意してもらわないと)
そんな風に、私が思うのはこの程度になる。
そしてこの程度で済んでいる事が、本当に有り難かった。
これで、日中戦争からのアメリカとの全面戦争フラグは、まだ完全ではないにしてもへし折れた筈だからだ。
けど、アメリカというよりも、ルーズベルト政権の日本への不信は、低空飛行ながら相変わらずだ。表向きは友好国同士だけど、日本の満州、華北部への進出に文句タラタラだし、この次の報告でもさらに不信を高めているという。
あれだけアカ狩りしたのに、まだ政権内、高級官僚内のアカの消毒が足りないのかもしれない。
その次の報告というのが、年始から始まる日本海軍の新造艦建造開始を伝えるものだった。
既に表向きの計画は、世界に公表されてはいた。そしてその計画は、仕事始めの1月4日から動き出す予定。
去年4月にイタリアが条約に調印しなかった為、海軍軍縮条約のエスカレーター条項が今年に入ると自動的に発動されるのが理由だ。
その条項で戦艦の制限が緩和され、さらに戦艦、空母等の保有枠を増やす事ができる。しかも保有数の方は、関係各国に申告すれば後は自由といった曖昧なものだ。
そして、そもそもイギリスが既にフライング状態なので、アメリカも日本に文句を言いにくい。
イギリスは去年の1月1日に、新造戦艦2隻を建造開始し、イタリアが条約に調印しなかった4月を待つように、追加計画を発動。年内にさらに3隻の戦艦を建造開始した。航空母艦も、合わせて2隻ずつ、合計4隻の建造が開始されている。
これに対して日本の新計画は、去年の春に戦艦2隻を建造開始。そしてこの1月からは、時勢を鑑みという上っ面の理由を付けて、さらに戦艦と空母を2隻ずつ建造開始する。
そして4日には、4箇所同時に起工式が行われる予定になっていた。
ただしイギリスが建造期間を惜しんで追加の計画を早くしたのと違い、日本の追加計画はエスカレーター条項を反映させたものだった。
基準排水量4万5000トンの戦艦2隻、基準排水量2万3000トンの航空母艦2隻が、建造開始されるという事だ。
もっとも、設計や資材収集などの準備の速さを考えると、前から実質的に一部予算が出ていて準備していたのがバレバレ。
さらに日本海軍は、お行儀が良くない。今までも、駆逐艦以上の船で条約を完全に守った船が皆無なくらいだから、今回も守る気はゼロだった。
鳳総研が掴んだ情報、分析した情報からの推測では、最低でも基準排水量は1割程度の条約超過をしていた。しかも漏れ伝わってくる話だと、それ以上超過している可能性が高かった。
そうなると、戦艦は5万トン、空母は2万5000トン以上の大型艦となりそうだ。
ただし戦艦の主砲は16インチ(40・6センチ)と公表されていて、そこだけは条約を守るらしい。それでも4万5000トンというだけで、詳細な情報についてはソ連に対する防諜の観点から非公開としていた。
そして新たに大型艦を計画するのも、軍拡著しいソ連に対抗する為だと諸外国には説明されていた。
当然、ソ連はブチ切れて嫌味なくらい大量の抗議文を送りつけてきたけど、イギリスはともかく、アメリカがこれに警戒感を増していた。
(はぁ。今年も問題多そうだなあ……)
少し資料を見ただけでも、漏れるのはため息ばかりだった。
大陸との戦争を完全に泥沼化:
「国民政府を対手とせず」の声明で有名。当時の首相近衛文麿による声明の中の一言。
去年の秋から動いていたドイツの駐華大使のトラウトマンによる和平工作も、完全にご破算となる。
トラウトマン工作:
日中戦争初期のオスカー・トラウトマン駐華ドイツ大使を介した和平交渉。
色々あってご破算。
ラプラスの箱って確か:
アニメ「機動戦士ガンダムUC」のキーアイテム。
ラプラスの悪魔は、適当にネットの海で探せばすぐに見つかります。




