603 「1937年・年の瀬(2)」
「『鳳健康保険』を?」
「そうだ。しかも鳳グループは、給与も良い、福利厚生も良い、待遇がしっかりしているって、すこぶる評判だそうだ。だから離職率も格段に低い。善吉が前にそんな事を話してた」
「その手の話は、幾らでも聞いているわよ。けど、給与、福利厚生、待遇は、良い人材を集める為よ。それと健康保険は、鳳が病院と製薬会社、それに医大を経営しているのも大きいわね。鳳の城下町には必ず鳳の総合病院があって、社員と家族を診察できる体制を整えているもの。これが出来る財閥が他にある?」
「三菱が頑張っていたな。他も真似し始めていると聞くぞ。景気が良いから、そういう余裕があるし、何もしないと鳳に人を取られてしまうからな。今や、追う側じゃなくて追われる側だ」
鳳グループが始めた、財閥による社員への福利厚生の一環としての医療体制は、確かに少しずつ広まりつつある。
けれども、この時代には医療法人のような制度はなく、企業経営の大規模な私立病院というものは少ない。公立のものを除けば、普通は町医者レベルだ。
それを財閥や企業が支援して、大規模に展開している。特に鳳グループは、創業時から病院と医療学校、それに製薬事業を持つ財閥だったので、拡大、展開は容易だった。足りない医者も、給与や待遇で幾らでも集まった。
鳳学園の鳳大学にある医学部も、薬学部と共に大きく拡大された。また、ドイツなどから多くの優れた教授、医者を招き入れたため、短期間のうちに日本有数の質と規模を誇るようになった。
加えて、故北里柴三郎と紅龍先生のこだわりもあり、慶應義塾大学との連携も強めている。逆に、東京帝国大学との関係は、相変わらず疎遠なままだ。
製薬会社の方も、新薬の製造販売、そして開発で大きく躍進した。多くの工場を持ち、薬草を育てる農園を持った研究施設なども作られた。さらに小さな会社、薬屋を吸収、併合して、今では日本有数の製薬会社に成長している。
病院の方は1930年以後に急拡大し、今や鳳の大きな工場のある工場城下町には、必ず鳳の総合病院があった。
私が数ヶ月後にお世話になるであろう病院も、鳳グループの六本木再開発により大きな総合病院として生まれ変わっている。
私が紅龍先生に教えた未来の知識のヒントによる教えも、そうした鳳病院から広められる事が多い。
ただ普及には、日本全体の経済的な問題もあって苦戦している場合が多い。出産時の呼吸法など一部は、珍しい例外と言える。
「うちにねえ。けどうちって、帝大様からの受けが悪い事で有名じゃない」
「そうだな。多少例外は、前から支援している東北帝大くらいか? 最近は京都帝大も気にしてないって聞くぞ。ただ、東京帝大は紅龍の件もあって最悪だな。だがまあ、あそこは中央官僚になるための専門学校みたいなもんだから、うちに来ても肌が合わない奴が多いだろうがな」
「うちは学閥否定、官僚的な年功序列否定、外人沢山、成果主義強め、あとなんだっけ? あの人達が嫌う要素?」
「女子が多い、だな。そう言えば、舞はずっとお前の秘書なのか?」
「もうすぐ出産準備で休職予定よ。その後3年くらいは、子作りと子育てに専念してもらってから、私共々復帰予定」
「そうか。ん? お前も3年間も休むのか?」
「子作りと子育てくらいさせてよ。一族の為でしょう。だいたい、子作りと子育てが終わったら私の役目も終わるから、その3年後もどうするか分からないわよ」
「まあ、普通に奥方なり奥様に収まってくれるなら、それはそれで構わないが、お前、無理だろ」
「うーん、なるべく何もしないようにはするつもり。大陸の内戦で日本が当事者になるのは避けられそうだし、私に出来る事はだいたい終わったと思うから」
「……そうか」
少し安心するように言った。けどすぐに、表情を改める。
「だが、まだ露助がいるだろ。あいつらが戦争ふっかけてきたらどうするんだ。それに玲子の言う最悪の筋書きだと、日ソ戦争の途中で英仏と戦争しているドイツがソ連に攻め込んで、無理やり日本は英仏の敵になっちまうんだろ。
まず有り得んとは思うが、有り得ない事が起こるのが世界情勢って奴だ」
(『あり得ない』なんて事は『あり得ない』か。何かの漫画かアニメで聞いたセリフよね)
「そういうのは、お爺様に任せるわ。私は、アメリカとさえ全面戦争にならなければ、それで十分」
「それ毎回のように聞くが、酷い戦争が起きるって言っているようなもんだぞ。あんまり、他の奴には言うなよ。それとだ」
「うん。それで?」
「傍観できる性格じゃあないとは思うが、当面はお腹の子供の事を一番に考えろ。これは、当主、祖父両方の命令であり願いだ。それともう一つ」
「えーっ、まだ何かあるの。体は大事にするわよ」
「だったら、私の役目も終わるなどと口にするな。お前が子を産んだら、俺は議員以外なるべく隠居に専念する。なんせ曾祖父さんだ」
「爵位は?」
「取り敢えず議員をしている間は、俺が持っとく。だが、次は龍也だ。晴虎はまだ若すぎる」
「うん。それは分かってる。血縁も書類上は変えるのよね?」
「まあ、そうなるな。家督を龍也の家にするわけにもいかん。ただまあ、虎三郎の家とも半分重なるし、これで鳳宗家は大家族だな」
そう言って軽く笑うけど、軍務が忙しいお兄様なので爵位の継承はギリギリになりそうだ。
そんな事を思ったけど、何かを見透かされたらしい。
「念の為言っとくが、俺は実質隠居するから、長子のお前が一族の中心になるんだぞ」
「善吉大叔父さんや龍也叔父様じゃなくて?」
「表向きは、俺に晴虎と虎三郎を含めた5人が当面の中心だが、一族としては長子が中心だ。今更これを動かすと、一族の頭数も増えたから面倒になる。
それにだ、国内と上海や満州はともかく、海外での鳳の繋がりは玲子、お前に繋がっている。お前が真ん中に座るしかないんだよ。自分で縁を結びに行ったんだから、そこは諦めろ」
破滅はずいぶん遠のいた気がするけど、平穏な生活からもずいぶん離れてしまっているらしかった。
自覚はあるけど、いざ言われると実感してしまう。
だからだろう、同じ境遇の人に聞いてみたい事があった。
「お爺様は、いつ諦めたの?」
「俺か? そうだなあ、日露戦争が済んだ頃だな。それでな、大震災で弟と長男が呆気なく逝って、その後しばらくは気が遠くなりそうになったよ。お前がいてくれて、本当に助かった。ありがとう。そして、これからも一族を頼む。身重な今、言う事じゃないがな」
「本当そうね。まあ、子供の為にも、もう一踏ん張りくらいするわ」
そう言って、また大きくなったお腹をポンポンと軽く叩いた。
それを見るお爺様の目は、相応のお爺ちゃんになっていた。
『あり得ない』なんて事は『あり得ない』:
『鋼の錬金術師』(著:荒川弘)に出てくるセリフ。




