600 「南京陥落」
南京臨時政府の首都である南京を巡る攻防戦は、12月に入った時点で事実上発生した。
中華民国軍の揚子江渡河と、それを阻止する戦いがその始まりだ。
けど、軍事力の差、数の差、士気の差、その他諸々で南京臨時政府側の軍にやる気がない。
最初から逃げ腰の彼らが阻止できる筈もなかった。
ましてや、逃げ腰の大陸の軍隊ほど弱い軍隊はない。
それでも、南京から遠いところで揚子江を渡ったり、渡った後で集結したり、後方の物資や重装備の運搬を待ったりで、中華民国軍は数日を使った。
そしてその間は、先遣隊が予備的な攻撃をしたり、橋頭堡を広げたりしつつ過ごす。
戦力差20万対100万だから、最初から勝負はついていたと言えばそれまで。だから徐州での戦いと違って、戦闘は短期間で進んでいった。
そして12月7日に蒋介石らが完全に南京から逃げ出し、街は無政府状態に陥る。
それより前の6日には、南京市は大きく包囲された形になり、周りから孤立した。
この時までに南京を脱出した市民の数は、約40万人と推定されている。残っているのは、概算で10万人程度。把握できていないだけで、もっと少ない可能性もある。
それに加えて、南京を死守する為の守備隊がいる。ただし、南京臨時政府というか国民党の軍隊の国民革命軍も、死守部隊以外のかなりが南京を離脱、というか逃げ出していた。さらに、南京を巡る前哨戦でもかなりの戦力を失っていた。
包囲の輪の中には、市の外を含めて最大でも6万人の兵士が残されていると見られていた。
合わせると最大で16万人という事になる。
そして包囲されて以後、南京の外に漏れる情報は極端に減った。
私の前世の記憶だと、南京市内に残っていた外国人が色々と記録を残していた。けど現状は、調べてみると南京の外国人の数は限られていた。
何しろ南京臨時政府は、主権国家じゃない。当然、南京は首都じゃないから、大使館とかもない。あっても領事館。それに南京には租界がない。租界があるのは上海と上流の漢口。それに北京の近くの天津だ。
当然、滞在する外国人の数は少なくなる。
それでも上海にいた能天気、もとい慈愛に溢れたアメリカ人宣教師らが南京に向かおうとした。けどその前に、南京から流れてくる膨大な数の難民の救援、支援が優先した。
この南京から上海の流れは、私の前世の歴史に全くない動きだった。なにせ前世の歴史では、日本軍が上海方面から南京へと攻め上がった。
これに対して現状は、南京の敵は北から川を越えて押し寄せるし、その敵は中華民国政府の軍隊だから、違っていて当たり前だ。
私達の大陸の兄弟達や現地特派員も、危険が多いので南京からは全て脱出した。こうなると主な情報源は、ギリギリで逃げ出すことに成功した難民、そして中華民国軍と中華民国軍に観戦武官として出向いている各国陸軍関係者になる。
私に出来ることはなく、周りも戦争に関わるなと気遣い、南京での戦いが迫るにつれて、簡単な報告を後で聞くだけとなっていった。
そして私が遠ざけられた理由は、徐州での戦い以上に凄惨な状況が予想出来たからだった。
そうして9日には、降伏勧告のビラが飛行機で撒かれ、中華民国軍も約1日総攻撃を待つ。
軍事的に市街戦は面倒だし、歴史ある街を戦場とするのは、為政者側である中華民国政府としては避けたかったからだ。勿論、国際面でのアピール目的もあっただろう。
けれど降伏の受諾も拒絶もなく、10日を迎える。
そして12月10日に南京攻略が開始された。けど、既に包囲した軍隊が、南京に迫るだけの戦いとなった。
それを私は、事後報告で内容を簡単に聞いた。詳しく知ったのは、かなり後になってからだった。
南京が戦場になるとは想定していなかったので、陣地も慌てて作ったものばかり。しかも簡易陣地が殆どだから、敵を阻止する能力は無かった。
また、南京臨時政府側の軍隊は、南京を死守する部隊も南京から退却する部隊も、とにかく退く時に焦土戦術を実施した。
大陸の軍隊は、補給を現地での徴発に頼る傾向がとても強い組織だから、意外という以上に効果は大きい。
ただこの焦土戦術は、単に家や村を焼くだけじゃなくて、略奪と暴行がセットなのが大陸の特徴だった。
敵に何も渡さない点は同じだけど、兵隊の大半が野盗やゴロツキと大差ないから、一度この手の事を始めると歯止めが効かない。外野から見るとそれは凄惨で壮絶で残酷だった。
私も、報告や写真については、一部見せてもらえなかったほどだ。
また、無政府状態になってから、残された市民が食料や水を求めた暴動を起こしたりしたけど、残った治安維持部隊も殺気立っていた。さらに漢奸、要するに裏切り者は皆殺し的な命令も受けていたので、市民に容赦なかった。
しかも南京市内には、周辺部の焦土戦術で焼き出された難民が溢れていた。この難民だけで、数万とも推定された。
攻防戦が始まる以前から、南京市内は悲惨な状態だったと言える。
戦闘自体は10日の昼から開始され、包囲した中華民国軍が一方的に攻撃する展開となる。一種の陣地戦、城攻めの筈だけど、そうした面はあまり見られなかったそうだ。
南京臨時政府の軍隊は準備不足、兵力不足だし、何より士気が低い。南京の中心部の市街は古い城壁があるけど、近代戦には用を成さなかった。
そして12日に、中華民国軍の一部が南京市街の古い城壁に取り付く。つまり、市の中心部に入った事になる。
そしてその夕方には、死守部隊の瓦解と逃亡が始まった。南京に残った外国人記者が見た景色としては、兵士達は軍服を脱ぎ捨て、中には裸の者がいて、市民から衣服を奪っていたという。
南京の守備隊長の唐生智大将が逃亡したのは、その日の夜だった。
しかも独断での逃亡で、誰も逃げ出したのを知らなかったという。死守を志願したくせに無責任極まりない行動で、当然のように軍の指揮統制は消滅。
それよりも重要なのは、次の指揮官を決めていないので、南京臨時政府軍が司令官不在となり、軍として降伏出来なくなった事だった。
そしてこの段階で南京は陥落したと言え、あとは残敵掃討、敗残兵狩りへと移行した。
そして地獄の蓋が開く事になる。
もっとも、被害者以外は誰もが特に気にしていなかった。大陸では数千年続いてきた事が行われるだけで、ある意味で日常的な景色が再現されただけだったからだ。
中華民国軍の南京攻略軍司令官の張宗昌は、13日に南京の占領を宣言。
14日からは掃討戦が開始されるのと並行して、占領した市内では軍政を開始。17日には南京入城式が行われた。
そして南京全市の治安が回復したのは、23日だとされている。
両軍の損害は、中華民国軍が1万人程度だったのに対して、南京臨時政府軍は兵士の大半が戦死するか、その後捕まって処刑されたとされる。その総数は、概算で4万人程度。
守備隊が6万人いたという説を信じるなら、2万人は何らかの形で逃亡した事になる。
そしてかなりの期間、脱走兵士によるものと見られる犯罪が数多くあったので、かなりの数が逃亡したのは間違いなかった。
なお、苛烈で残忍な「狗肉将軍」と言われた張宗昌だったけど、南京の占領と統治は意外に穏当だったと言われる。けどこれは、大陸の常識に当てはめての事で、他の国から見ればかなり酷かった。
そして、包囲下に取り残された市民は10万人いたと言われるけど、その数は軍政開始直後でもあまり変化はなかった。
むしろ南京臨時政府軍により、漢奸として殺害された市民の方が多いのではないかと言われる。
ただしこれは中華民国政府の発表であり、市内に残った宣教師や外国人記者、それに鳳の息のかかった者達からの報告や証言をまとめると、中華民国軍もかなりの虐殺を行なっているのは間違いなかった。
ただ、中華民国軍は、歯向かわなければ略奪と強姦で済むので、南京臨時政府軍が殺害した数が多いのも確かだろうと言われる。
もっとも南京での悲劇は、今回の大陸で起きた悲劇から見れば、取るに足らないものでしかなかった。
戦場となった徐州から南京にかけて、似たような悲劇は大なり小なり無数にあった。
内戦は敗れた側の徹底抗戦により泥沼化に向かい、南京が陥落しても戦争は続いたからだ。
戦争は続く。
また誰も喋らずに終わってしまった・・・。
お嬢様「だって、こんなパートで誰も喋りたくないって」
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南京市:
史実では、1927年から中華民国の首都となっていたので賑わい、総人口は100万人を超えていた。
1937年12月の陥落時には、20万人程度と言われている。
この世界では南京臨時政府の首都止まりなので、あまり繁栄していない。
唐生智大将が逃亡:
この辺りは、史実をなぞりました。
漢奸:
日中戦争のような外国軍との戦争じゃないから、この言葉は使わない可能性がある。
ですが、分かり易くする為同じとしました。




