599 「和平決裂」
12月11日、今更感があるけど、イタリア王国が国際連盟を脱退した。
犬養毅とその一派が祝杯を挙げたと聞いたけど、既に既定路線だったから誰も驚かなかった。
何せこの11月6日には、ついに英米を説得できなかったドイツが、イタリアとの間に自分達だけで「独伊防共協定」を締結した。
私の前世の歴史の上だと、その前に日本とドイツが締結した条約が、ここで登場した事になる。
そしてこの世界では、日英米による防共協定が既に存在している。ドイツとイタリアのものは内容まで似通っているけど、連携や連帯は全くしていなかった。互いに、あいつらとは違うと言い合うくらいだ。
ただ、ドイツとイタリアのものはヨーロッパでの決め事も多く、私の前世の記憶にはないけど少し違ったものの可能性が高かった。
もっとも、そんなヨーロッパの事は、世界はあまり注目していなかった。ヨーロッパだと、スペイン内戦の戦況により注目が集まっていた。
そして極東でも、旧清朝の領域の中央部で、戦いの一つの結果が出ようとしていた。
張作霖が主席である中華民国政府は、11月に入った時点で南京臨時政府、広州臨時政府に対して和平条件を提示した。
主な内容は、広州で彼らが交わした約束の破棄、共産党勢力との決別、法幣(通貨)の受け入れ、そして段階的な自らの政府への合流。
以上を主な和平の条件とした。
なお、中華ソビエトは最初から相手にしていないので、今回も交渉相手にもならないし、要求を出す対象にもしていなかった。
中華ソビエトは、共産主義自体が非合法とされているから、凶悪な武装テロリストの集団でしかない。
そして交渉自体は、中華民国政府の王寵恵外相ではなく、オスカー・トラウトマン駐華ドイツ大使を介して行われた。
外交ではなく内政問題であり、主席や総理が最初から出ても問題が大きくなり過ぎるからだ。
和平提案の内容自体は、和平提案を出しただけ、前世の歴史での「北伐」を知っているだけ私には穏便に思えた。
しかも、勝ちが進んだという理由で条件を厳しくしたりもしなかった。
この点、前世の歴史上での日本より真っ当だ。勝者の余裕の演出の為もあるだろうけど、実に良い事だ。
そして内戦だから、日本をはじめ諸外国は表面上は傍観状態。蒋介石は、国際連盟に何もできないので動く事もなし。ただソ連だけが、もっと援助するから死んでも戦えと言うだけ。
普通なら、蒋介石は和平受け入れしかないだろう。実際、大した損害を受けていない広州臨時政府の汪精衛は、和平の受け入れを打診している。トラウトマンも、受け入れるべきだと蒋介石を強く説得したという。
そもそも、数千年の歴史とやらを誇る大陸の歴史を見れば、潮時だった。これを断れば、一族郎党皆殺しコースだ。
けど蒋介石は、共産党に喉元にナイフを突きつけられた状態。そして表向きは、張作霖が信頼できないとして受け入れを拒んだ。
そしてこの段階が11月の半ば。
以後しばらく状況は停滞するけど、戦況の方は中華民国軍が南進を続けた。蒋介石は和平を即座に受け入れるか、南京を放棄するか、もしくは徹底抗戦するかの選択を迫られるまでに事態は推移した事になる。
そして戦いつつも和平交渉継続という道があるので、次の選択は南京の放棄か徹底抗戦になる。
そして蒋介石は、徹底抗戦を選んでしまう。
さらに数日後には、遷都と言える武漢への政府後退も発表され、徹底抗戦の姿勢を強く示した。南京での徹底抗戦は、戦略的には南京死守以外に他の戦力を退却させる為とされた。
そして退却した兵力は持久戦を行うとされ、共産党の紅軍と同じくゲリラ戦で相手を消耗する戦いを決めていた。
なお、専門家に聞けば、南京は揚子江を挟んで南側にあるかるから容易には攻められない、と考えたのではないかと推定。
けど揚子江を渡るなら、他の守りの薄いところから渡れば問題なく、中華民国政府は方々から大軍に揚子江を越えさせる為の船を集めていた。
これで使う船は全体としての運べる量だけが問題で、戦闘を前提としていないので、船であれば良かった。
そして広い大陸で、単なる船を集めるだけなら特に問題もなかった。渡れるのなら、小さな川船でもいい。
そして揚子江以外の要素で軍事的に守れるかという話に移るけど、敗残兵で訓練、装備、兵糧、士気、すべての面で大きく劣っていた。逃亡兵も後を絶たない。
つまり、南京防衛など夢物語という事だった。
ただし、蒋介石が和平を受け入れなかったのは、自分の鏡を見ていたからだろうと思えた。
張作霖は勝者の余裕を見せているけど、蒋介石が勝者なら徹底的に攻め滅ぼす気だったに違いない。だから両手を上げたところで、その後で徹底的に滅ぼされると考えたのだろう。
そう考えれば、蒋介石とその側近達の一部行動にも納得がいく。
それでも周りに説得されて、徐々に和平を受け入れるという流れになったみたいだ。けど、長々と和平への返事を先延ばしした形なので、結果として悪手となった。
張作霖の軍隊は返事がないのでどんどん南に進み、蒋介石の軍隊はそのほとんどが戦わずに下がる一方だった。
12月入ると、事態はさらに悪化。蒋介石らの疑心暗鬼はさらに強まり、さらに戦況は悪化するという悪循環を繰り返すだけで、和平への道は閉ざされていった。
そして中華民国軍は、南京を包囲するように少し離れた場所から揚子江を渡り始めた。当然阻止するべきだけど、現地からの情報では寝返って手引きする者の方が多かったという。
もはや、和平交渉をしつつ圧力をかける段階を超えていた。
しかも蒋介石は、張作霖を激怒させる一手を打って、失敗していた。
秘密裏に動いていたので、判明したのはかなり後になってからだったけど、蒋介石はソ連に対して自分達を支援するくらいなら、ソ連が直接参戦するように求めていた。
けどソ連が中華民国に攻め込むということは、東トルキスタンからでは遠過ぎる。
つまりルート的に、満州か内蒙古を通ることになる。それを日本が許す筈もなく、日本との全面戦争まで唆した事になる。
当然スターリンは拒否。一応は外交的にそれらしい言葉で断ったそうだけど、蒋介石が手段を選ばなくなっていた証拠と言えるだろう。
そして、ソ連が蒋介石の要求を正式に断ったのは12月1日だけど、何らかの手段で張作霖はこの情報を入手。それが7日くらいではないかとの推測だった。
一方でソ連は、義勇軍の派遣は進めた。
大陸情勢を少しでも長く不安定にして、日本の目をソ連極東地域に向けさせない為だ。
だから義勇軍の方は、むしろ積極的だった。
そして早くも12月の頭、南京上空でソ連空軍が保有する戦闘機の姿が見られた。さらにソ連空軍が保有する爆撃機により、爆撃を受けた地上部隊も出た。
当然、中華民国空軍との間に空中戦が発生し、双方で撃墜される機体が出ていた。
そして張作霖は、ソ連義勇軍の参戦に焦りを見せ、南京に迫る中華民国軍に進撃を命じる。
上手くいけば、これで内戦も終わるからだ。
一方で、12月7日に蒋介石、宋美齢、ファルケンハウゼンらドイツ軍事顧問、南京臨時政府高官及び南京市長らが、中華民国軍がまだ完全に包囲していない南京市から脱出していた。
そしてもぬけの殻となった南京の防衛司令官は、死守を志願したという唐生智大将。
徐州で総司令官をしていた現地軍閥出身の孫伝芳は、退却の最中に姿を消していた。逃亡したとの説がもっぱらだけど、暗殺説も飛び交っていた。しかも物騒な噂ばかり。
寝込みを襲われ部下に殺された。部下から後ろから撃たれた。無理やり戦わせられて戦死した兵士の遺族に殺された。娼婦に変装したスパイに殺された。などなど。
まさに因果応報。けど、「笑虎将軍」などと言われた危険な一面を持つので、この人が消えたのは良い事と言えるだろう。
もっとも、中華民国軍の総司令官も問題ありだった。
何しろあだ名が「狗肉将軍」。苛烈で残忍だという評判の、張宗昌将軍。
ただし中華民国政府は、現地軍に対して略奪や破壊を禁止していた。何しろこれからは、自分達の領土になる場所を荒らしても良い事はない。
けど、世紀末ムーブな大陸の兵隊と、それを率いる野獣のような将軍に、どこまで通じるのかは大いに疑問だった。
事実、徐州を守って以後の追撃戦では、予想通りの行動をしている事が報告されていた。
一方で、徐州方面で紅軍を率いていた毛沢東、朱徳らは、下がりに下がって南京を守る気は全くなかった。上海からすら、犠牲ばかりが多かった工作員達は姿を消していた。
既に瑞金の方に下がったり、得意とする場所でのゲリラ戦の準備に入っているという情報だった。
広州臨時政府の軍隊は、鄭州方面の南側に軍を置くも、主力は武漢防衛に移りつつあった。これは北からの攻撃を警戒するだけでなく、既に南京が陥落した場合の東側からの攻撃にも備えた動きだった。
そんな状態で、中華民国軍は10日に南京攻略を開始した。
戦争になると、どうしても解説だけで終わってしまうなあ。




