597 「クリスマスまでに……」
11月中旬、ドイツのトラウトマン駐華ドイツ大使による和平工作が行われている中、大陸中原では中華民国軍による、南京臨時政府軍、というより国民党の国民革命軍に対する追撃戦が、徐州南部を中心にして行われた。
もちろん徐州での戦いは、中華民国軍の勝利。
広州事件で事実上の合作、つまり同盟関係を結んだ、南京臨時政府、広州臨時政府、中華ソビエトの連合軍は敗北した。
もっとも、似たような質の軍隊で二倍かそれ以上の戦力差があるのだから、最初の戦略的な奇襲攻撃に失敗した以上、勝負は見えていたと言う者が多かった。
そして欧米の多くの人々が、どこかで聞いた言葉を言った。
「クリスマスまでに内戦は終わるだろう」。
そしてさらに言った。
「チャイナは統一に向かうだろう」。
「これで少しは平和に向かうだろう」。
そうなれば本当に良いのにという願いではなく、楽観的に人々はそう言った。
ただその感情は、欧州での2度目の世界大戦を潜在的な感情で恐れているからだろう。
なお、徐州とその周辺にいた南京臨時政府軍約50万人のうち、南京方面に秩序立って後退できたのは約20万人。
中心になって戦った、南京臨時政府軍の精鋭部隊、ドイツ式の装備と訓練を受けた精鋭は、日本式の訓練と列強の装備を持った倍の数の軍隊に揉み潰された。
戦死者の数は推定で12、3万人。他の17、8万人は、軍服を捨てて逃げ出したか捕虜になったか。もしくは、少なくない数が戦闘の途中で寝返っていた。こういう所が、実に大陸の戦闘って気がする。
対する中華民国軍の損害は、3万人とも5万人とも言われる。
そしてその後の中華民国軍の追撃は、内陸の鄭州方面と南部の南京方面に対して主に行われた。
鄭州方面はずっと両軍睨み合い状態だったけど、この地域の司令官だった広州臨時政府の将軍が優秀だった。ゆっくりと後退しつつ、しかも敗残兵を収容しつつ、さらに2方向からの敵の追撃を防いだ。
このため鄭州方面では、南京臨時政府軍というより広州臨時政府軍は、大きな損害も出さずに武漢方面に秩序を保ったまま後退する事に成功した。
鄭州方面の司令官が徐州で戦っていたら、戦況も変わっていたんじゃないかと思えるほどだったと、後でお兄様から聞いた。
流石は悠久の歴史を誇る大陸。戦上手がいるものだと、お爺様も感心していた。
一方で南の方は、背中を見せて逃げる敵を追いかける形で推移した。南京臨時政府軍がなんとか態勢を立て直したのは、100キロ以上南に下った蚌埠という街だった。
当然というべきか鉄道があり、その鉄道の先、約100キロ南には南京臨時政府の首都と言える南京がある。
そして現状では、蚌埠で押しとどめるどころか、南京で徹底抗戦しても無理じゃねって感じだった。
蒋介石が絶対防衛線と設定していた淮河も、簡単に渡河されるだろうと見られていた。
しかも、蒋介石が首都としている南京という都市は、意外と周辺から孤立している都市だった。街が揚子江の南岸にあるのが救いだけど、どこかで河を渡られたらおしまいだ。
だから、徐州で総崩れになった段階で、首都機能を内陸の武漢、南昌、長沙のどれかに移す算段が始まっていた。
私の前世の歴史と違って重慶の街が選択肢に入っていないのは、重慶のある四川盆地には独自の軍閥がいて、しかも張作霖の影響下にあるからだ。
揚子江の四川盆地の入口辺りも、厳重に封鎖していると伝えられている。
また南京の南の福建省は、内陸部に瑞金があるように共産党のテリトリーだった。
そして南の海に面した広東省は広州臨時政府のテリトリー。西隣の広西省も一応は広州臨時政府に属している。
蒋介石が自立を保つには、あまり南に後退できないという事だった。
そして早くも、それまで中華民国と南京臨時政府を天秤にかけていた、黄河と揚子江の間にある安徽省、河南省の軍閥は、張作霖に尻尾を振る算段を進めていた。南京や上海のある江蘇省の軍閥も、北部は似た感じになっていた。
そうした大陸の様子を、世界中は傍観していた。
短期戦になるなら、最悪の尻拭いはドイツと日本にでも任せれば良い。泥沼化するなら、小さいながらも戦争特需の夏を楽しもう。それが欧米社会の意思だった。
そして中華民国内での内戦だから、国際連盟はピクリとも動いていない。
そんな中、南京臨時政府の都である南京は、騒然としていた。というより、早くも逃げ出す人が溢れ始めていた。
そして一番近くで安全な大都市が上海だった。
だから徒歩、船、その他諸々の手段で、主に上海目指して逃げ始めた。それ以外にも、逃げ場がある者は自らの才覚によって各地に逃げ始めていた。
蒋介石は最初は止めようとしたけど、それもしばらくしたら止めた。なぜなら11月20日には、自らも逃げ出し始めたからだ。
11月20日、中華民国軍が蚌埠を占領、もとい解放した日、武漢への疎開という名目での首都移転を決定。
しかもさらに、内陸の長沙か雲南の手前にある奥地の貴陽まで逃げるのではないかという噂があった。現時点では武漢で踏みとどまるも、最終的にはそこまで逃げると予測されていた。
ただこれで、南京から逃げ出す人の波は一層大きくなった。そして南京臨時政府は、疎開が完了するまでの遅滞防御戦、さらには南京での徹底抗戦に移行していく事になる。
一方で上海には、既に2万人に達する日本を中心とする列強の海軍陸戦隊と海兵隊が溢れていた。近隣河川には、多くの艦艇も集結していた。
沖合には、日本艦隊も常駐を始めていた。この艦隊には空母が含まれていて、何かあれば空母艦載機で支援する予定になっていた。
そして列強の兵力が増えたのもあり、蒋介石の色を消す作業に入った。
保安隊という租界以外の警察について、実質的な排除が始まっていた。地理的に、蒋介石の息がかかった連中が多かったからだ。しかも年々、蒋介石は自分の直接の兵隊を水増ししていたので、それを排除しなければならなかった。
この為、上海の一部では衝突も起きていた。
けど列強は、様々な場所で祝杯を掲げている。
ソ連の指令を受けた中国共産党と同盟を組んだ蒋介石は、降伏や和平ではなく徹底抗戦を選択したからだ。
これで世界中の列強は、小さいながらも戦争特需の恩恵に与れる事になった。
クリスマスまでに内戦が終わる事はないのだ。
列強の中で例外は、日本とソ連。
日本は一番戦争特需の恩恵を受けられる立地にある反面、不安定化した大陸に対する軍事的な緊張を強いられる事になる。
特に自らが戦争に巻き込まれないようにする為、細心の注意が必要となり、軍事的にはむしろ動き辛くなった。
結果、ソ連の目論見通り、日本はソ連極東、シベリアに軍事的挑戦は難しくなった。
もっとも、日本がソ連極東、シベリアに攻め込む事など一部の馬鹿の妄想以外にないので、ソ連というかロシア人特有の被害妄想の発露と言えるだろう。
大陸国家は、図体が大きいくせに周辺国への警戒感が半端ない。
そしてそのソ連だけど、大陸での内戦を泥沼化させたは良いけど、ドイツは商売以外に手を広げる気がないのがはっきりしたので、ソ連が蒋介石らを支えなくてはいけなくなった。
しかも相手は独立国でもないから、国際条約を結ぶ事も出来ないので、借款とかではなく援助、支援になる。
さらに、義勇軍を派遣しないと既にパイロットなどが足りてないので、これをスペイン内戦のフランコ側と似た感じの立ち位置で派遣せざるを得なくなった。
そしてスペイン内戦での動きに似ているのがドイツ。
しかも義勇軍を送り込んでいない分、タチが悪い。武器売買で儲ける以外考えていないからだ。
しかも現地軍事顧問は、大陸を統一した後は日本をターゲットにして戦争を仕掛けるべきだと以前から色々言っていた。
その辺は、スパイや賄賂など様々なルートで情報を仕入れて、日本の皆様には細大漏らさずご報告もしてある。
おかげで日本でのドイツの評判は、内戦勃発もあって下がる一方だ。
ただ、張作霖を助けろという声にもなってしまい、日本が余計な出費をする事態にも発展しつつあった。
「どうした玲子、何を見ている?」
気分転換に居間で資料を手にしていたら、部屋に入ってきたお爺様に指摘された。
だから、考えている事とは別の速報を記した紙を渡してあげる。
「おっ、そういえば今日からだったな。やっぱ、沢村はすげーなあ」
渡した速報は、職業野球東西対抗戦、要するにプロ野球オールスター戦。その第一回が開催され、有名なピッチャーの沢村栄治の活躍もあり、東軍が勝利したと記されていた。
阪神甲子園球場でしているから、ラジオで実況中継を聞く以外だと明日の新聞を見るしかない資料という事になる。
「しかし意外だな。玲子が野球に興味あるとは」
「戦争に注意を向けているより良いでしょう」
「まったくだ。それで、野球より気になる大陸の南北戦はどうなる? やっぱり夢と似た感じか?」
「蒋介石が手を挙げずに逃げ出したから、対戦相手が違うだけで夢と似た感じになりそうね」
「まあ、そうだよな。向こうには注意を促してある」
「うん。次は南京だから、上海は特に注意して」
「分かっている」
明るい話題をと思ったのに、お爺様と話すと結局きな臭い話になるみたいだ。
職業野球東西対抗戦:
後にプロ野球オールスター戦に変化。
1937年11月20日に第一回が開催。
沢村栄治:
戦前の日本の野球界を代表する投手。不滅の大投手。
戦争がなければ、もっと活躍しただろう。
これ以上は、ネットの海を彷徨ってください。いくらでも逸話は出てきます。




