596 「総退却。そして(2)」
「お待ちください」
お爺様に、こんな初歩的な脅しや見せかけの利害の一致が通じる筈もないので傍観していたけど、目の前の男にまだ焦りはない。
もっとも私は、同席するのが今回のお役目なので無表情で相手を見るだけ。
そうしていると、相当威圧感があるらしい。修行の成果と思いたいけど、心は色々複雑だ。
(それにしても、こっちが三下の雑魚かどうかを確かめたいのなら、下策だなあ。心を開いて誠実にした方がマシじゃないかなあ)
「フンッ。素直にもう駄目だと言った分だけ聞こうか」
「ありがとうございます。正直に申し上げると、我々には味方がいません」
「駐華ドイツ大使が、南京によく行っていたのにか?」
「確かに、トラウトマン駐華ドイツ大使は、中華民国と南京臨時政府の和平交渉を画策しております。ですが、北京にて向こうの要求を取りまとめた和平条件は、我々が飲めるものではありません」
「念の為こっちの札を確認させてやるが、中華民国にもドイツにも、相手を動かせるようなツテは持ってないぞ」
「勿論、存じております。お願いしたいのは二つ。一つは、満州臨時政府から、中華民国政府への働きかけ。こちらは、条件が厳しいと懸念を伝えていただければ……」
「それはできん。満州臨時政府の声は、日本政府の声だ。仮に満州独自であったとしても、周りがそう見る。その話は日本政府に持って行くんだな」
「もう一つ」。相手はめげずに続ける。雰囲気から見て、こっちが本命だろう。
「蒋介石へ、一筆したためて頂けないでしょうか。鉾を収めるべきだと。叶うなら、何かもう一言添えて」
「……お前さん、本当に蒋介石の手下じゃないのか?」
少し訝しむようなお爺様の言葉に、強めに頷き返す。
「はい。そして蒋介石は、宋美齢に和平案がもう少しまともでなければダメだと。ですが先に手を出した以上、もはや相手の条件を飲むしかありません。このまま戦い続けても、長江一帯の覇権を全て失います。あとは、共産主義者と広州の者達の言いなりとならざるを得ません。それは、我らとしては断固として受け入れ難い事です」
「宋美齢の代理と言ったな。蒋介石には言わずに来たのか」
その問いに強く頷き返す。
どうにもこの人は、諫言する忠臣だけど、聞いてもらえなかったって事になるみたいだ。事実かどうかはともかく。
「宋美齢は、上海は現状のままが好ましいと考えております」
「このままだと、張作霖に全部奪われるだろうからな」
「そして民族資本の後ろ盾が弱まれば、蒋介石の巻き返しの機会は大きく減少します」
「戦うにしてもソ連の援助頼みになって、共産党がますます大きい顔をする、か。だがお前らには、お有難いドイツ様がいるだろ。世界最強の兵器を恵んでくださいと、おだてたらどうだ?」
軽く煽ったけど、逆に首を左右に振る。
「ドイツは、無償支援には否定的です。また、軍事顧問のファルケンハウゼンは、10月半ばの時点で和平するべきだと蒋介石に強く進言しました」
「だが無視したのか、お前さんの一応の主人は」
そして首肯。というより、うなだれた感じがする。
どうやら、藁にもすがる思いでうちに来たのかもしれない。うちの上海支店長の時点で、相当無理をしている筈だ。
「ですが蒋介石は、今の和平案には否定的ですが、和平自体は結ぶべきだとは考えています。また、汪精衛はもっと和平寄りです。ですが、共産党は既に色々と公式に発表している事もあって、頑なに徹底抗戦を訴えております」
「スターリンから、勝てないなら内戦を泥沼化しろって言われているだけでしょう」
分かっているくせに上っ面しか言わないから、思わず口から出てしまった。
ただ私が思った以上に、目の前の人、北斗七星の星の名前を持つ人の心に響いたらしい。
私に視線を向けると、軽く息を吐く。
「我々の言えない事をおっしゃられる。そう、その通りです。そして広州事件の取り決めがあり、お互い色々と握り合っているので、共産主義者を無視できないのです。
ですが、もはや大勢は決しました。そして共産主義者は、既にゲリラ戦による徹底抗戦の準備に入っています。奴らは決して降伏する気がありません。
ですがこれ以上戦えば、国は荒れ果て、経済は崩壊し、最終的に共産主義が大陸を赤く染める。わが政府が倒され、張作霖の政府もいずれ倒され、共産主義政権が誕生するのです!」
そう言い切って沈黙した。私の言葉が多少の呼び水になったみたいだけど、演説は終わった。
そして言葉が終わるのを待って、視線で私に釘を刺してからお爺様が口を開いた。
「言いたい事は分かった。さっさと張作霖に降れば、上海での利権が少しは残るように働きかけると一筆入れよう。戦争やめるなら、多少の金を貸しても良いともな。だが、全部大きな貸しにするし、出来るのはそこまでだ。
俺達は、色んな面でお前らは支持できない。俺個人としてもだ。督戦隊だったか? 組織だって味方の背中を撃つような奴らは、軍人として絶対に認められん。それに漢奸だったか? 内通者や売国奴なんざ、お前らの中にごまんといるだろ。なのに、関係ない奴まで殺しすぎだ。挙句に、堅壁清野だったか? 民を蔑ろにする奴を、認められるわけないだろ。常識で考えろ。
それにお前らは、古代の昔からなんも変わってない。だから、近代世界は誰もまともに相手をしないんだ。いい加減、その事をお前の大将に理解させろ」
こちらも長口上だけど、その横顔は珍しくマジもんだった。軍人をして、満州の野でロシア軍とも戦った人だけあって、大陸での平常運転な悪逆非道は受け入れられないんだろう。
そして言葉も重い。
それを正面から受けた交渉相手も、重く頷いた。
「ごもっともかと存じます。また、一筆頂けること深く感謝いたします。例え結果がどうなろうと、私が生きている限り、必ずご恩はお返しさせて頂きます」
チャイニーズ・ドゲザしそうな程、深く頭をさげる。
そしてそれを見つつ直感した。
この人とは、二度と会えないだろうと。
何しろ、色々と歴史を捻じ曲げたのに、必ずと言って良い程、歴史の修正力や因果を感じる事が起きている。
今回の大陸の内戦も、私が前世で記憶している限り、ほぼ同じタイム・スケジュールで動いている。
それは不気味な程だ。
だから、内戦は確実に泥沼化するだろう。
私には、その確信と言える予感のようなものがあった。
堅壁清野:
焦土作戦の一種。 清野作戦ともいう。
大陸の焦土戦術は、掠奪と破壊が付いて回る。十字軍も鎌倉武士も真っ青だ。




