579 「内戦激発直前」
8月に入っても、大陸情勢は表向き不気味な沈黙を保っていた。
けれども、大陸中央の各勢力は軍の動員と移動を続けており、大陸中原に続々と軍事力が集まりつつあった。
そして現状での情報収集と予測では、以前から水面下で準備を進めていたであろう蒋介石らの準備が整ったら戦闘開始で、張作霖側は少なくとも当初は劣勢は避けられないという。
ただ、双方大軍な上に、鉄道以外は徒歩で移動。その上、軍閥の軍隊は統制が取れていない。
だから移動が遅い。イライラするくらい遅い。大陸の軍閥や兵隊の移動が早い時は、本当に命の懸かった時、つまり逃げる時だけだ。勝ち馬に乗っている時よりも、逃げ足が速い。
一方で、日本人や外国人がテロに遭っていないので、その点だけは私を安堵させてくれた。
前世の歴史では、第二次上海事変までに酷い事件が起きたので、似たような事件が起きないか色々と調べさせていたけど、その兆候も見られない。
色々と歴史を捻じ曲げ、そして私のあずかり知らないところで捻じ曲がった影響なのだろう。
ただ、気を抜く気は無い。
幸い日本政府も大陸情勢に神経を尖らせていて、7月28日に在留邦人の退避を命令した。
戦闘が起きる可能性がある場所、すぐに軍を派遣して救援がしにくい場所から、日本人は引き上げるように通達したのだ。
これにより、武漢というより、そこの漢口の租界にいる日本人の撤退が、すぐにも動き出した。南京も似た感じで、上海へと移動する人が大勢でた。
二つの地域では、他国も似た動きをしている。
一方で日本政府は、上海への海軍陸戦隊の増強準備を進めさせて、何かあれば即時に移動できるよう待機に入っていた。さらに、陸軍1個師団の移動準備も始まったし、関東軍も警戒態勢が引き上げられた。
連動して、満州自治政府でも軍の動員が強化され、警戒態勢はほぼ最大にまで引き上げられていた。
日本以外も、イギリス、アメリカ、フランスは、近在の植民地警備軍の準備を始めており、運ぶための軍艦のいる港に移動していた。イギリス、アメリカは、軍艦自体の極東増強もはじめていた。
そして外野がそんな有様なので、大陸中原はもはや一触即発だった。
中華民国に対する、南京政府、広州政府、それに中国共産党によるテロ、襲撃事件が各所で発生した。
けど襲撃は、中華民国に対してだけではなかった。
上海の方では、表向きは特に大きな事件は起きていない。
けど、上海を流れる黄浦江にはドザエモンがよく流れていたり、川岸に打ち上げられたりしている。
当然というべきか、うちが関わっている場合もあった。
魔都上海は、今や暗闘のメッカだ。
また、満州自治政府、内蒙古自治政府内でも、テロ未遂事件や襲撃未遂事件は起きていた。
日本、満州、内蒙古を巻き込む動きがある以上、後ろにコミンテルン、ソ連がいるのは確定だ。
また27日から中原内陸の方の鄭州で、中華民国軍が挑発やテロを繰り返していた蒋介石側の軍に対し、全面的な攻勢を行う為の動きを開始。
そうすると、やはり牽制だったらしく蒋介石らの軍隊は鄭州方面から一旦は退いた。そして一定程度の距離を取っただけなので、張作霖の軍隊が他に動く事も出来ない。
そして後は、沿岸部の方で本格的な激突を待つばかりだ。
「以上が、現状と私どもの分析になります。ミスタ・スミス」
「いつもながらお見事です。こうして同じ場所に来ても、我々ではそうはいきません」
8月に入り、日本での観光を終えた人達を前に、大陸情勢の会議というか説明会をしていた。
場所は鳳ホテルの会議室の一つ。専門家には資料を渡せば事足りるから、説明会に参加しているのは王様に近いけど、専門じゃない人達。アメリカでの影響力は強いけど、極東の事に疎い人達だ。
その中でミスタ・スミスは、私の相手を長年してきたので極東情勢には詳しい。私との間合いも分かっている。だから、王様達側の代表だけど進行役の一人と言える。
こちら側は、私と時田。セバスチャンでもいいけど、時田は若い頃から大陸情勢にも関わっているので、単に詳しいと言うだけでない凄みが違う。
それに、人種差別どうこうは無視できるだけの人達相手だから、こっちが有色人種でも気にしないのは助かる。
あとは私達の後ろの小さなテーブルに、秘書のマイさんとお芳ちゃんを座らせている。
そうして、ミスタ・スミスのオーバーリアクション付きな言葉が終わると一人が挙手する。
いかにも、エリート秘書って感じ。王様の誰かから派遣されてきた人だ。
「チャイナ情勢は理解できました。そこで質問なのですが、我々が帰国するまでに事態は次の段階、いや、こんな言葉はよしましょう。大規模な内戦が勃発すると、あなた方はお考えなのですね?」
「その通りです。8月半ば、できれば20日頃まで滞在いただければ、間近で歴史の一ページを体験できるでしょう」
「確信を持たれている、と。それは鳳の分析によるものでしょうか、それとも」
「その答えには、総合的に分析、判断した結果とだけお答えしておきましょう」
そこで一旦一人の相手が終わると、また別の挙手。
「大規模な内戦が起きると仮定して、彼ら、蒋介石や共産党の目的は、やはり中華民国の主権を手に入れる事と考えて宜しいでしょうか?」
「第一目的が、中華民国の主権を手に入れる事なのは間違いないでしょう。でないと彼らは国際的な立場を得られず、やりたい事が中途半端にしか出来ません」
少し踏み込んだ言葉を返すと、かなりの人間が興味を示した。ここからが本番だ。
「第二、第三の目的があるという事ですね。彼らが主権を得たら何をするのか? 我々も、そこにこそ関心があります。鳳の優れた分析結果の一端なり、お教えいただけないものでしょうか?」
「はい。ですが、あくまで推論、分析結果に過ぎません。それに我々も少しばかり困惑しているのです」
「困惑? 彼らの行動理由が分からない、と言ったところでしょうか?」
「まさに。彼らは、なぜ今動いたのか? 単純な国力と軍事力では、南京、広州、中華ソビエトを合わせても、中華民国政府の半分にも達しません。軍事力に至っては30パーセント程度です。
大規模な奇襲攻撃を成功させれば勝算もあるでしょうが、大軍同士がぶつかる大陸での戦闘では、多少早く動いても非常に難しいのが実状です。そこで彼らは、徐州方面への大軍集中による一点突破を図ろうとしているようです」
「既に戦闘の起きた鄭州は?」
「彼らの持つ軍事力では、牽制が精一杯。事実、軍事衝突が起きた途端に引きました。
勿論、中華民国側が手を抜いた場合を想定していると考えられます。ですが中華民国も、西への道、四川への道へと繋がる場所の防衛に力を入れています。そして戦闘が起きた以上、迂闊に兵力を他に回す事も出来なくなりました。
だからこそ、蒋介石らの一点突破にも、かなりの価値はあると考えられます」
「かなり、と言うことは決定的ではないのですね」
「はい。そもそも中華民国の軍事力は、相手の3倍以上。しかも主力は徐州方面に進めつつあるので、徐州だけでも蒋介石らは数の上でも不利です。
勝機があるとするなら、中華民国側が迎撃準備を整えるまででしょう。また、中華民国軍の数は多いとはいえ、軍閥の兵が少なくありません。当然、統制が取りづらく、不利になるとすぐに退却する可能性が高い、という辺りでしょうか」
「だがそれは、蒋介石の軍も似たようなものでしょう。互いの直属部隊同士の戦いが、勝敗を決すると我々は分析しています。そして広州政府、中華ソビエトの精鋭も加えた蒋介石の方が、局所的には有利になるのではと。違うのですか?」
意外によく調べていると、感心はする。けど、国と自治政府の違いという決定的な違いが、彼らの分析には入っていないように見える。
「短期戦なら、あるいはそうかもしれません。また地上戦だけなら、そうかもしれません。ですが中華民国は主権を持つだけに、彼らには無い物を有しています。巨大な財力と、豊富な空軍力です」
「空軍力なら、ドイツが肩入れした蒋介石も、かなりの戦力を持つという情報だが? 装備もかなり新しいものが輸入されたとも聞く。さらにソ連が大規模に援助しているとの情報もあります」
「それなら、中華民国もステイツは勿論、連合王国、日本も援助や支援、それに大量に輸出もしている。しかも蒋介石の軍隊は、軍隊の体をなしてまだ数年だ。ドイツ人が鍛えていると聞くが、正規軍と地方軍では話にならんだろう」
私が答えるより先に、他の人が乱入。説明会なのに、そこからしばらくは参加者同士の議論になった。
わざわざ極東までやって来るだけあって、みんな相応に知識や情報を持っていた。
その情景を見つつ、私は少し考えに耽る。
(本当に、蒋介石おじさんの目的って何だろう? 内戦に勝ったら、速攻日本排除の史実ルート。これは間違いないよね。けど、日本と英米との関係をどうするんだろ? 現状で切り崩すのは、相当難しいと思うんだけどなあ)
(そもそも何を急いでるの? 長期戦をするお金がないとか? 何か、連中が焦る要素を見落としているのかなあ? ソ連は大粛清で軍事力低下したから、日本の目を逸らしたいってのはあるだろうけど……。
状況が違うのに、同じ日時に似たような事件が起きることそのものに、歴史の強引な強制力を感じるなあ)
「(どうかされましたか、玲子お嬢様?)」
「(何故今なのか、それが読めないのよね)」
「(確かにそうですな)」
横に座る時田も退屈しているらしく、私が考え事をしているのを見て小声で雑談してきた。
アメリカ人ってのは、個人主義とか言いつつ自分の主張を通そうとして頑張りすぎる。根回しでなんとかする日本人としては、こういう状態になると置いてけぼりにされがちだ。
そうして少し小声で話していると、議論には加わっていないミスタ・スミスと目があった。処置なしって感情が目にこもっている。
説明会に戻るには、まだもう少しかかりそうだった。
襲撃事件が各所で発生:
史実では、盧溝橋事件から第二次上海事件にかけて、無数の日本軍もしくは日本人襲撃事件が発生。
盧溝橋事件からの全てが、偶発的事件ではなく戦争を誘発する為の計画的犯行もしくは犯罪と言われる。




