576 「結婚後の祖父との会話」
1937年の夏は熱い。暑いじゃなくて熱い。何が熱いかといえば、大陸情勢が熱かった。全然熱くなくていいのに、熱い。もう、一日も目が離せない状態だ。
もっとも、私の考える熱いと、日本国内の熱いは違っていた。
私は日本が戦争当事者になるんじゃないかと、気が気でなかった。大陸の日本向けテロリストは、疑わしき時点で滅殺を命じているくらいだ。この点、お爺様も大賛成しているくらいだ。
そんな私達をよそに、日本国内、特に軍需関連は大陸での大規模な内戦勃発に一種の戦争特需を熱く期待していた。
なお、私がしばらく俗世から離れ、そして戻った7月12日月曜日、7日に大陸中原の徐州で起きた『彭城事件』は一旦は沈静化した。
11日の時点で、現地で停戦協定が成立した為だった。
けど、偶発的な戦闘に対する停戦が成立しただけで、両者は動き続けていた。日本をはじめ、列強も動いていた。
それに、攻撃側の蒋介石の南京政府軍とその他諸々、張作霖の中華民国軍の双方の主力部隊が、続々と中原に向けて動いていた。
停戦したのは、まだ準備が整っていないからに過ぎない。
満州自治政府は日本を介した張作霖側で、援軍は出していないけど、武器弾薬を大量に売却または供与する協定が秘密裏に結ばれ、そして直ちに実行されつつあった。
日本政府も、両者の密約に従い日本にある在庫の武器弾薬を供与する事が決まった。増産体制も動き出した。
これに対して蒋介石側は、ドイツは船で1月半かかる。
ソ連が何かをしようにも、船便は主要な港は列強により事実上封じられている。陸路にしても、満州、内蒙古、チベット、雲南の全ての通り道が塞がれている。
残るは東トルキスタンルートのみ。確か、前世の歴史でソ連と中国共産党が使ったルートだ。鉄道はまだ敷かれていない、シルクロードをなぞる長いルートなので、送り込むにしても相当苦労する事だろう。しかも中華世界の玄関口と言える内陸の蘭州の街は、張作霖が一応押さえている。
正直なところ、なぜ今、この段階で、蒋介石が動いたのか疑問が多い。
「広州事件」の影響なのは間違いないし、大陸の主権が欲しいのも間違いないだろう。南京政府と何より共産党が抑えられなくなったのも理解できる。
大陸中原で多少有利になったという理由も理解できる。
けど、国力差、兵力差は歴然だ。
寝返った軍閥は金と武器を求めるだけで当てにならず、中華民国と蒋介石らの諸派3つとの国力差はおおよそ3倍。国内通貨・法幣が、日英米などにより安定させているのが決定的だ。
けれども逆に、追い詰められたから動いたとも考えられる。
現状では、時間が経てば経つほど、短期的には張作霖が有利になる。
そうした状態で、蒋介石らが勢力を盛り返したところで、大陸中原の軍閥が蒋介石側に寝返った。これは確かに好機だ。
だから、押しつぶされる前に賭けに出た、と考えるのが妥当なところなのだろう。
それに大陸情勢は、勢いが大切だ。「天の時」「地の利」「人の和」ってやつだ。
今回の場合は、要するに勝って勢いに乗れば、意外に簡単に天下が取れてしまう、かもしれないという事になるだろう。
実際、私の前世の歴史の蒋介石がそんな感じだし、この世界の張作霖に至っては漁夫の利を得ただけに等しい。
ただ今回は、そうした諸々を考慮に入れても腑に落ちない。
そこで別の仮説が出てくる。
コミンテルンの命令だ。
コミンテルンは、1935年夏にドイツ、ポーランド、そして日本を敵と認定してくれた。
そして極東では、龍也叔父様が指摘されたように『第三に、日本を中心とする共産主義化の為、中華民国の同志達を重用する』に従って、日本の周り、つまり中華民国での具体的な行動に出たと見るべきなのかもしれない。
彼らとしては、動きたくなくても動かざるを得ない、という事だ。
(けど、日本を直接叩くっていう方法を取らないのはなんで? って、そりゃあ中華民国の主権を張作霖が持っているからか。しかも各地に政府が乱立状態で、独立宣言したところで誰も相手にせず。日本軍を攻撃するより先に大陸の覇権を握らないと、国際的にはどうにもならないって事ね)
「なあ、玲子よ。新婚旅行から帰って早々に、居間で資料やら新聞広げるのは何とかしてくれんか? 見ていて、何というか、こう、晴虎に申し訳ない」
「仕方ないでしょう。今週は午前中暇なのよ。マイさんは研修中で、アメリカから来たお客さん達は、7月いっぱいは日本各地をご旅行中。私の執事達は他のお仕事。側近の護衛以外は今日は学校。手足をもがれた私は、何もできないって事」
「親としては、その空いた時間で晴虎の為に何かしてやったらと思うんだが?」
「お爺ちゃんには、早くひ孫の顔を見せてあげるから、それで我慢してちょうだい」
そう、お爺様は私がハルトをお婿さんに貰ったので、関係はお父様が取れて祖父に戻っていた。
それでも私はまだ未成年だけど、その辺はハルトが背負っている形になる。
ただし私が鳳の長子なのは変わらないので、鳳一族内では私の方が立場が上で、私が正統になる。この辺りが、面倒くさいところだ。
「それは俺に対してだろ、晴虎に、だ」
「それは、昨日だいたいしちゃったのよ」
「そうなのか? だが、貪狼のところにも行ってただろ。例えば何をしてた?」
「好みとか聞いて、部屋の調度とかレイアウトとかをみんなで変えたり、お花を飾ってみたりね。あと外に出たついでに、ちょっとしたお買い物とか」
「おーっ、それらしいな。他には?」
「服とか身の回りの物は、付き合っている時に色々と二人で買ったから、すぐに買い足すものはなし。他に世の新妻がする事って、掃除、洗濯、料理、お風呂、床の用意でしょ。私がさせてもらえるとでも?」
「無理だな。うちの女中達は優秀だ。それでも何かあるだろ。手作りで編み物を作ってやるとか……いや、お前に聞いたのが悪かった」
「分かればよろしい。それにね、そんな事は、マイさん達からも散々言われたし、聞いたし、何が出来るかも考えたの」
「そうか。まあ、欠陥人生の俺がとやかく言うより、その方が良いだろうな。それで、うまくやっていけそうか? 喧嘩とかしてないか?」
「さあ? けど、一応安心しておいて。二人で相談して、その為の策は色々と練ったから」
「ほう。例えば?」
「毎日話す。毎日スキンシップする。我慢しすぎない。喧嘩しても即日解決する。週に1日は1人の時間を持つ。互いに譲り合う。月に一度はデートする。あと、自分の価値観を押し付けない。……取り敢えずは、これくらいかな?」
「お、多いんだな。それに半分くらいは、社会的に必要な決め事みたいに聞こえるぞ」
指折りしながら答えてあげたら、地味に引いていた。まあ、我が祖父の苦手な事だろうと、簡単に想像がつく反応だ。
「新婚だろうと、人と人よ。私達の場合は遠い血縁だけど、それでも違う人同士。私も不勉強だったから、先達からの助言は大いに参考になったわ」
「舞達に感謝だな」
「うん。他にも、紅龍先生、龍也叔父様達、アメリカでトリアにも、聞ける限り聞いて回ったのよ。雑誌なんかも読み込んだし」
「私生活まで徹底した情報収集と分析ってのは、何か言いたくなりそうだが、それで上手くいくなら構わんよ。だが、まあ、その、何だ、無理はするなよ」
「気遣いありがとう。けど、今のところはラブラブよ」
「らぶらぶ? 今はそういう言葉が流行っているのか?」
「主に私の中でだけね」
「あっそ。それより、新婚の分析ではない方は、居間でするな。自分の部屋でしろ」
「えーっ、一人は寂しいじゃない」
「シズ達が付いているだろ」
「そうだけど……。はいはい、分かりました。部屋に引き籠もります。あ、その前に、いくつか教えといて」
「何だ? 資料にだいたい書いてあるだろ」
「うん。けど、張作霖が日本に船貸してくれって言ったの本当?」
「ああ、その事か。まだ箝口令だが、本当だ」
その会話で、急に祖父の口調が真面目になった。これはマジもんだ。
「張作霖が、上海防衛の為の軍を派遣したいんだとよ。その為の許可と、天津から兵を運ぶ船を求めてきた」
「そんな事認めたら、蒋介石が南京の防衛放っぽり出してでも、上海に攻め込んでくるわよ……それが目的?」
「そこまでいかなくとも、情報を相手に掴ませ、怒らせるのが目的だな。それで、兵隊の一部でも大陸中原から引き揚げたら儲けもの。それに列強は、上海で荒事は避けてほしい。代わりに何か寄越せってのが、本当に欲しいもんだろう」
「そんなところか。日本政府も、英米仏あたりも軍事援助、支援の増加を約束するでしょうね。そうなると、蒋介石の動きが早まるのか。警報出しとかないとね」
そこまで聞いて、私の披露宴にやって来た事になっている人達の事を思い出した。
私達の結婚式で大量に来た客の中には、多数の報道関係者が含まれていた。多くはハーストさん系列だけど、他の王様達に属する記者も少なくなかった。
ぶっちゃけ、この人達を極東に呼ぶために、この時期の結婚を決めたと言っても良い。少なくとも私としては、アメリカの夏休みに合わせたのは口実でしかなかった。
そして要職にある一部の人は私の披露宴に招待したけど、大半の人はワンさん、八神のおっちゃん達と一緒に、太平洋を横断した船でそのまま大陸へと渡っていた。
そして上海、南京、北京、天津、大連、それぞれの目的地へと散った。中には、戦場写真を求めて中原に向かった人もいる筈だ。
既に多くが現地入りしている、鳳グループの人間と合流した者も少なくない。
そして彼らこそが、私が出せる大陸情勢を動かすためのカードの1枚だ。蒋介石や共産党の口を封じるだけではダメなので、プロパガンダを圧倒してしまわないといけない。
少なくともその姿勢を強く見せないと、連中が日本を貶めたり戦争に引きずり込もうとするのは間違いない。
この夏は、日本が戦争の泥沼に一足早く突撃するか、戦争前にちょっとした特需で湧きかえり、軍需の準備運動とできるかの、運命の分かれ道になるだろう。
「広州事件」
517話、518話参照。
デート:
19世紀末から20世紀初頭のアメリカ発祥。
日本だと、芥川龍之介が作品内で「デエト」と使ったのが初めてとも言われる。




