574 「彭城事件(2)」
事が起きたのは、私があまり聞いた事のない場所。
中華民国政府と南京政府の、1937年夏時点で境界線となっている山東省と淮河の中間あたりの、徐州という町。
北京と南京を結ぶ鉄道の、だいたい真ん中あたり。
そして両者の勢力境界線にある街。「省」という単位でなら蒋介石の縄張りだけど、実力で張作霖が保持していた。
蒋介石の勢力が減退していた頃は、境界線はもっと南だった。けど、蒋介石と共産党などが勢力を盛り返した結果、この南部の辺りの軍閥が蒋介石側について、張作霖の勢力は徐州まで押し戻されていた。
日英米仏がバックに付いているとはいえ、現地軍閥が勢いのある蒋介石に乗り換えたという事になる。
前世のアラフォー的な感想として、張作霖もついに賞味期限が切れ、オワコン化したといったところだろう。
当然、両者にとって睨み合いの場となっていて、両者の軍隊が常に近くに陣取っていた。
そしてその徐州で、銃撃事件が起こるべくして起きた。場所は全く違うけど、この世界の盧溝橋事件という事になりそうだ。
けど、盧溝橋のような目立つ建造物はない。
今のところは「徐州事件」、または古い地名から「彭城事件」と言われている。
撃たれたのは、徐州を統治している張作霖の中華民国軍。撃ったのは、今のところ不明。
けど、順当に考えれば、かなり離れているとはいえ、対峙している蒋介石の南京臨時政府軍。
もしくは、互いを争わせたい中国共産党だ。
「それで上海では、お約束で中国共産党が外国人を銃撃とかしているんじゃないの?」
「現地からの報告では、かなりの数が武装した上で潜入しているようです。ですが蒋介石軍の主力は、徐州と内陸の鄭州方面にいます。かなり前から準備していたと見られます」
そう言って地図を示す。どちらの街も鉄道が南北に走っていて、鄭州から南に伸びる線は武漢に通じている。
それに張作霖側が鄭州が抜かれると、西安方面に鉄道で進撃できるようになって徐州よりやばい。
そして、その北の先には首都北京があった。
「張作霖は?」
「以前から蒋介石を警戒して、徐州と鄭州方面に主力部隊が配備されております。この中には、日本の軍事顧問団が訓練した装備の良い精鋭部隊も含まれます。
互いの戦力は、頭数では張作霖が、一部の部隊の強さでは蒋介石が上回ると見られております」
「その辺りの報告は、前に聞いたわね。変わりなしって事?」
「戦力に関しては、どちらも短期間で大幅に増強されております。張作霖は短期間で中原の勢力を奪われ、精神的に相当追い詰められていますな」
「もともと、互いの軍備増強で一触即発に向かっていたものね。それじゃあ、上海の共産党の動きは牽制? それとも漁夫の利を狙ってる?」
「『広州事件』で国民党と共産党が手を結んだと言っても、蒋介石が共産党に上海を好きにさせるとは到底考えられません。上海は、奴の勢力基盤の一つである浙江財閥の一大拠点でもありますからな」
「それじゃあ、列強の目を上海に向けさせている間に、両者大陸中原で勝負を付けましょうって感じ?」
「蒋介石らとしては、恐らくは」
「張作霖は違うのね」
「はい。列強に援助を求める声を、早くも出しています。そして壊れた警報装置のように、先に手を出したのは蒋介石だ。蒋介石は悪い奴だと言い触らし始めました。これ以上は退けないのでしょう」
宣伝合戦で張作霖が上回るとは正直予想外だから、軽く笑ってしまう。
けど、多少不利だろうとも、張作霖が大陸での唯一の国家主権を持つ政府だからだと思い直す。主権を持っているだけで、色々と出来る事があるからだ。
そしてこの点が、私の前世の歴史と違い蒋介石の致命的弱点だとも思いつつ口にする。
「蒋介石と共産党は、口で反撃していないの?」
「それを玲子様がおっしゃいますか?」
そう返した貪狼司令は、悪い笑みを浮かべている。悪相なので、本当によく似合う。
「ハイハイ。アメリカの方のあの人達のスピーカーは、全部私が潰しました。結婚する前にも、念入りに虱潰しにしてもらっています。英米で告げ口もしてきました。これで満足?」
「恐ろしいほどで」
「嘘ばっかり。それで、上海に蒋介石の大軍が押し寄せる可能性はないのね」
「はい。広州軍閥ではなく、広州臨時政府の軍も既に北上しています。共産党も、軍と呼べるほどではありませんが北に加勢しています。
もっとも、加勢というより、勝った場合の分け前が欲しいだけですな。それと上手くいった場合、各地で略奪がしたいんでしょう」
そう言って示した紙面には、北に向かった人の名も記されていた。
共産党軍の中には、毛沢東、朱徳の名も見える。毛沢東は、いまだに共産党の支配権は手に出来ていない。
「共産党は、勢力拡大の為の宣伝活動するんじゃないの? 軍隊が強くて多少勢力広げたって言っても、規模は知れているでしょう」
そう言いつつ、「長征」というキーワードが頭をよぎる。
「はい。それにどちらも補給は蒋介石頼りですので、大した軍は北上させておりません」
「それじゃあ、張作霖側の四川盆地の辺りは大丈夫?」
「今のところは。揚子江を封鎖すれば、蒋介石は攻め込めませんし、そちらに向かわせる戦力は蒋介石にはないでしょう。広州や共産党が雲南から入り込むには、雲南で半ば自立している連中を、まずは何とかしないといけません。
また、張作霖側が鄭州を落とされない限り、西安方面からの連絡路も維持できます」
「となると、やっぱり中原での決戦次第か。蒋介石に付いてるドイツ軍事顧問団の戦略ってやつは?」
「団長のファルケンハウゼンは積極的ですが、所詮は前の世界大戦の頭しか持っていない、というのが戦略研での分析です。正攻法で押してくるだけだろうと。龍也様も同意見でした」
何がしハウゼン。確か、前世の歴史の「第二次上海事変」で聞いた名前だった。
こいつが北京に目を向けているという事は、上海を包囲して日本軍を攻撃するって可能性は低そうだ。
「上海は大丈夫なのね。上海支店長の張さんは? それに黄先生は何も言ってないのね?」
一度しか会ってないけど、上海支店長は北斗七星の廉貞の名を持つ紳士。黄先生とは、知り合って以後は何度か手紙をやりとりしている。そして今では、上海マフィアの大ボスの一人であると私も知っている。
この二人が大丈夫と太鼓判を押してくれるなら、日本のバッドエンド一直線の盧溝橋事件と並ぶ出発点である第二次上海事変も、今の所は回避できるという事になる。
だから自然と、言葉と視線に力が入る。
そして貪狼司令が強めに頷いた。
「はい。小さいものは、内々に対処すると。また、何かあったとしても、何年か前に玲子様が上海に行かれた時の暴動程度ではないか、とも。それに我々も八神殿達が、既に活発に活動中です」
「上海の周りに、陣地とかは作ってなかったのよね」
「はい。むしろ徐州、鄭州で、ドイツ軍仕込みの塹壕やトーチカなどの陣地構築が見られます」
そこまで聞いて、こちらもようやく頷き返し、肩の力も少し抜く為、軽く体もほぐす。
「ハァ、良かった。お父様の姿を見ないし、龍也叔父様も忙しそうだからちょっと焦ったわ」
「お二人とも、常に動きが早うございますからな。私どもの方にも、情報収集の連絡が何度かありました」
「龍也叔父様が貪狼司令に聞くって事は、陸軍はそんなに確度の高い情報を掴んでないの?」
「裏の事となると、陸軍では難しいでしょう。ですが一部は、答え合わせでもあったようです」
「流石は龍也叔父様。いつも抜かりないわね。で、あとは、今後の情勢待ち?」
「そうなりますな。玲子様が以前お話しされた内容とは違いますが、そうした状況が出現するとなると、今回の戦いの結果次第でしょうな」
「そうならないように願うわね。ていうか、張作霖に軍事支援しないと」
ホッとして忘れるところだった。
けど、貪狼司令は薄く笑う。ノープロブレムらしい。しかも悪い笑みだ。
そしてそれで、大体察せてしまった。
「昨日政府の閣議で決まった陸戦隊増強も、上海への増強と中華民国政府への軍事支援、武器輸出の拡大に関してだと見られております」
「自分たちが戦争当事者にならないように予防線を張って、大陸の皆様には存分に血を流してもらおうって? 宇垣様も悪どくなったものね」
「かもしれません。ですが、イギリス、フランス、アメリカ、それにドイツ、イタリアまでが、既に同じような事を考えているという未確認情報も御座います」
さらに悪い笑みで言葉を重ねられたので、思わずため息が漏れてしまう。
「次の自分たちの戦争の前に、精々儲けようって? 俗世に戻って来ずに、もっと新婚を満喫すれば良かったわ」
「心中お察し致します。ですが、日本は皮算用になる恐れも、まだ皆無ではありません」
「そうね、引き続き情報収集と分析よろしく。お父様や時田達が準備万端だろうけど、私も何かあった時に備えて算段を進めておくわ」
「はい、玲子様におかれても、引き続き宜しくお願い致します」
地下の主人は、そう言って私に恭しく一礼した。
結婚しようが、私の前にはロクでもない道しかないらしい。
徐州:
古代からの要衝。古くは彭城と呼ばれた。
近代だと、鉄道も敷かれている。北京、南京間の中間。内陸の西安に向かう出発点。
1930年の中原大戦、1938年の日中戦争、戦後の国共内戦のどれも、徐州一帯が決戦場の一つとなった。




