557 「大西洋横断」
「なんで、ココが居るのよ?!」
「細かい事は気にしないで。やっと見つけたんだから。さあ、こっちにいらっしゃい。ニューヨークに着くまで、時間はないのよ!」
「せ、せめて、ご飯くらいゆっくり食べさせて」
就航して間のない世界最大の豪華客船クイーン・メリー号に乗って優雅な船旅だと思っていたのに、乗り込んだ初日の夕食のレストランでココ・シャネルに見つかってしまった。
この船、最新鋭だけあってめっちゃ速くて、4泊5日で大西洋を横断してしまえる。たった数年で旅程が1日短くなるとか、船なのに頑張りすぎだ。
しかも以前乗ったオリンピック号を超える豪華さを誇り、色々な施設もあるからかなり楽しみにしていた。
けど、全部パーになった。
豪華な1等船室も、あっという間に縫製の作業場になり、船内の各施設を回る事も殆ど出来なかった。
ギリギリ、食事はちゃんと取るという譲歩は引き出したけど、これは絶対譲歩じゃない。
そして私を人身御供として、みんなには最小限の警護以外は船を楽しんでもらったけど、もう一人犠牲者がいた。マイさんだ。
「あなたね。写真と体の寸法だけしか分からなくて、困っていたのよ。……それにしても、大したものを持っているわね。さあ、全部脱いで! 完全に採寸して、あなたにしか似合わない服を作ってあげるから!」
そう言いつつ、目だけで採寸してそうな視線ビームが、遠慮なくマイさんの体に照射される。
当然、拒否権なしだった。
マイさんも、シャネルの早口を前に口をパクパクさせるだけ。一度私の方へ視線を向けたけど、私は目を閉じて静かに首を横に振るしかなかった。
この人には、何か魂の格とかそういうところで絶対に勝てる気がしなかった。
そして私も、その遠慮ない視線と口と態度から逃れる事は出来なかった。
「レーコ。大人になってから来なさいって言ったでしょう。けれど、今の時期も悪くはないわね。この娘の次に採寸するから、その間にこないだの手紙の気になる点をまとめた紙面があるから、それに目を通して。返答か指示を文字でも絵でもいいから記入しておいて。レーコのアイデアは斬新なんだけど、いつも肝心なところが足りてないのよ」
しかも相変わらずの無茶振りだ。
そして示された紙面を見て、苦笑しかなかった。元気付けようとロンドンから送った私の前世の記憶にある21世紀のデザインの絵の複写に、びっしりと色々書いてある。
元気がないから刺激にでもなればと思ったけど、元気になりすぎたらしかった。
そして大西洋を横断する5日間の大半の時間は、ココ・シャネルと過ごす事になった。
そして色々と作業する間、超真剣な時以外は雑談に興じた。もっとも、その半分以上は、シャネルの愚痴だった。美の巨人も色々大変らしい。
「ココも大変なのね。そんなに大変だったら、日本に場所を用意するわよ。欧米と違って高級ブランドの市場は狭いから、満足させてあげられないとは思うけど」
「お気遣いありがと、レーコ。あなたの家、前は全然名前を聞かなかったけど、今や大財閥だそうね。日本も景気が良いって噂に聞くし、ヨーロッパで身動きが取れなくなったら、その時はお願いするわね。けど、いいのかしら?」
ココにしては、曖昧な聞き方。
鳳、というか私がナチスのユダヤ人政策に対して動いているからだろうと簡単に推測がつく。
けど彼女とはファッションの事しかお互い関わらない暗黙の了解みたいなものが、手紙のやり取りの中で既にあった。
そして私は、20世紀前半のこの時代で、女性が自由と権利を獲得する戦いの先駆者だとシャネルを尊敬している。
だから気にせずに笑顔を向ける。
「うん。それより、ココが鳳の名前を聞くくらい、うちって有名になってるのね」
「そうよ。こないだも、私のお客の一人が、日本の金持ちが解体する豪華客船のオークションに大金を投じて、色々と競り落としていたって」
「ああ、オリンピック号ね。約束があるのよ。今度あの船の調度品を使ったホテルを開くから、日本に来たら寄ってみて。この船と違って年季が入っているけど、逆に趣が出ていて良いわよ」
「あの船のどこを買ったの? ブリテンのご婦人と競り合っていたって聞いたけど?」
「あれ? そんなに競り合ってないって聞いたんだけどなあ。うちが欲しいのは、ホテルに使う客室とかで、あちらはダイニングルームだったって。まあ、1つしかない調度とか飾りは競り合ったとは思うけど」
そうしてそのまま少し思い出す。
競り合った相手は、ステンドグラス、暖炉、彫刻、天井、階段、壁板、ダイニングの内装を競り落としていた筈だ。それを自身の屋敷に使ったとも聞いている。
うちは一等船室、階段ホールとその天井、喫煙室、一等ラウンジ、それに同じくダイニングの内装、競わなかったカフェテラスの諸々辺り。
最初は、『二・二六事件』で兵隊どもに荒らされた鳳ホテルに使おうと思っていた。けど、落とせるだけ落としてこいと代理人に言ったら、予想よりずっと沢山競り落としたので、小さなホテルが丸々1つ出来るくらいになった。
だから、海辺に小ぶりなリゾートホテルを作り、そこに丸ごと使うべく工事が進んでいるところだった。
そんなことを、シャネルにも軽く説明で加えておく。
「それにしても、約束ねえ。お金持ちの道楽ってわけじゃないのね。あの船のオーナーか誰かと?」
そこで大きめに首を横に振る。
私にとっての約束相手は、夢の彼方、もしくは海の底、はたまた冥府の入り口か、天の彼方だ。
「タイタニック号に関わる人。だからホテルの一角に、タイタニック号の慰霊碑と簡単な記念室を置くの。あっ、そうだ」
「何?」
「この船がタイタニック号が沈んだ近くを通る時に献花するんだけど、ココも一緒にしない?」
「タイタニック号には縁はないけど、随分と亡くなられたのよね。昔、新聞や雑誌で色々と読んだわ。良いわね。私もご一緒しましょう。けど花は?」
「豪華客船だし、花くらいあるでしょう。と言いたいところだけど、準備して積ませてあるわ」
「流石はお金持ち。あー、ちょっと動かないでね。それ以上動くと、仮止めのピンが刺さるわよー」
そうして船の上での数日間は、全然休めないまま過ぎていき、あと一日と少しという行程のところで、望んでいた場所を通過する事になる。
「なあ、姫よ。俺たちも付き合うのか?」
「八神のおっちゃんは、前一緒にオリンピック号に乗ったでしょう。これくらい付き合ってよ」
「性に合わんのだがな」
「まあ八神よ、これも何かの縁だ。それに我らとて、いつ海の藻屑になるとも限らんのだからな」
「騎馬民族が船と共に死んだら、死にきれんな」
「それもまた定めというやつよ。だが今は生者だ。死者への礼を示すくらいの度量を見せても良かろう」
「俺としては、関わりのない人など死ねばただの物なんだがな。だがまあ、誰かが損する訳でもないか」
いざ献花となると、一番ゴネたのが意外にも八神のおっちゃんだった。独特の死生観だとは分かったけど、夢の中でこの下に眠る人たちに会った私としては、共感できかねる考え方だ。
けどそれも人それぞれと思い、私は私の気持ちで悲劇で命を落とした人達に向かい合った。
(もう逃げたい思いはないから、そちらにお伺いはしないと思います。……それと頂いたネックレス、お返ししようかとも思いましたが、このままお預かりさせて頂きます)
これが映画なら、オカルト的に手に入れた大きく赤い宝石のネックレスを海に返すシーンでも入れるべきだろうけど、私には似つかわしくないだろう。
この献花自体も、私達が準備をしていると一等船室の他の客達にも広がり、多くの人が献花する事態に発展していた。
だから、海の底で眠る人達も、私の事など気づいてすらいないかもしれない。
そして私には、夢の中ではなく現実でこそ、まだやるべきことがあった。
ココ・シャネル:
反ユダヤ主義者と言われ、ドイツのフランス占領中にナチスの協力者で、スパイ活動をしていたと言われる。
戦争前からナチスと関係があったかは不確かな点が多い。
反ユダヤ主義は、当時の欧米世界では一般的なので普通といえば普通でしかない。
クイーン・メリー号:
1936年5月就航の北大西洋航路用の豪華客船。300メートル以上の全長と8万トン以上の総トン数を誇る、戦前最大の民間船。
しかも最高速力は28・5ノットと軍艦もびっくりの高速。
さらに2000以上の乗客を乗せるし、内装は豪華の一言。
姉妹船にクイーン・エリザベス、ライバルにフランスのノルマンディーがいるが、現存するのはクイーン・メリーのみ。
西海岸のロング・ビーチで静態保存されている。
オリンピック号:
タイタニック号姉妹船。1935年に引退。36年にオークション。36年から37年にかけて解体。
作中の通り、内装の一部が現存している。




