554 「戴冠式の英国(2)」
1937年5月12日、ジョージ6世の戴冠式がウェストミンスター寺院で行われた。
イギリス国教会の教会で、英王室の行事は多くがここで行われる。
国会議事堂が隣にあるなど、ロンドンの中心部に位置している。当然ビッグ・ベンもすぐ近くだし、すぐ近くにテムズ川が流れている。バッキンガム宮殿だって、ほど近い場所にある。
(強引に東京に当てはめたら、増上寺それとも明治神宮? どっちだろ? 色んな歴史上の人のお墓もあるし青山霊園もあり?)
歴史的と言えるイベントに参加しているというのに、思ったのはその程度。と言うのも、私達の位置が隅っこの方で、何をしているのかよく見えないし、よく分からなかったからだった。
歴史上の人物、ネームドが掃いて捨てるほどこの場にいるけど、式典に関わる人以外はモブでしかない。私もその一人。
だから久しぶりにモブの感覚を楽しむ。
なお、この戴冠式、本来は兄のエドワード8世の戴冠式として準備が進められていた。
ところがこの王様、戯曲でもないのに「王冠を賭けた恋」を実践してしまい、玉座を放っぽり出してしまった。
二回も離婚歴があるくせに、愛も何もないだろう。
けど、ナチスかぶれなエドワード8世が退位したのは、天の采配と思いたいところだ。
そしてエドワード8世は、「薔薇戦争」の頃以来の450年振りくらいの、未戴冠のまま退位した国王となってしまったそうだ。
その代わり急遽弟のジョージ6世が即位して、本来は即位から戴冠式まで1年以上は時間を開けるところを、準備や招待が色々進んでしまっていたので、そのまま戴冠式を行う事になった。
なんかこう、グダグダ感満載だ。
そして前世でこの一連の話の映画を見ていたので、周囲の声や言葉を聞きつつ、それを思い出し、そしてたまに隣の紅龍先生に教えてあげたりした。
そして驚いたと言うべきか、当たり前と言うべきか、戴冠式は前世の記録映像や映画で見たシーンが何度も登場した。いや、私的には再現された。いや、現実のものとなったと表現するべきだろうか。とにかく、同じ事が起きた。
この戴冠式、トラブル続きでグダグダだったけど、それが私が映画で覚えている限り全部再現されていた。
こうした歴史の現場に出くわすのは流石に珍しいけど、この世界が私の前世の世界の並行世界の一種なのだと実感させてくれる。
ただ、前世の歴史と同じだけあってか、戴冠式の式典自体は長々と続いた。
数百年前から続く厳かで神秘的な儀式だけど、こういうのは記録映像とか再現映画で十分だった。
「それでは姫、私はこれで」
「パートナーありがとう、ワンさん」
「とんでもありません。望外の役目をさせていただき、感謝の念に堪えません。一族の者にも、良い土産話が出来ました。ですがこれよりは、護衛の任に戻らせて頂きます」
「はい。いつもご苦労おかけします、侯爵様」
「それは言わんで下さい。本当にむず痒くなります」
ワンさんがかなり本気で苦笑しつつ側を離れ、他の護衛達と仕事の話を始める。チラリと見れば、八神のおっちゃんに脇を肘で突かれたり、弄られている。
侯爵様をしているより、確かによっぽどワンさんらしい。
そしてそんなやり取りをしているように、私達は周りを護衛や側近に囲まれつつ歩いて寺院から少し離れていた。
なにせ世界中から集まった重要人物だらけの式典だから、車を持ってくる順番も後ろの方になる。
だから、まどろっこしいので少し歩いて、待機していた車を回してもらう算段に変えた。
その手筈で、すでに護衛の一部がダッシュして行ったり、護衛の手順などを変更したりと周りは忙しい。
だからしばらく、紅龍先生と駄弁りこむ。
「今夜ジョージ6世のラジオ演説があるから、それが終わるくらいに宮殿のバルコニーが見える場所に行きたいわね」
「ジョージ6世が姿を見せられるのか?」
「その筈よ」
「そうなのか。だが、難しいのではないか。宮殿の周りは確か庭園だ。宮殿正面をまっすぐ行けば、トラファルガー広場に出る。周りも政府関係の建物ばかりだったと思うが」
「確かに公園だったわね。じゃあ、諦めるしかないか」
「うむ。護衛の為にもそうしてやれ。どうしてもと言うなら、車で近づいてそこから双眼鏡で拝むんだな」
二人して私達の周りに軽く視線を向ける。
「だから行かないって。静かにラジオだけ聞く事にする」
「では、ホテルに戻って、皆で聞こうではないか」
「全員集まれるほどの部屋は取ってないでしょう」
「細かい事は気にするな。そうと決まれば、ラジオの前に飯を済ませよう。クソ長い式典のせいで、腹の虫が鳴りそうで難儀していたのだ」
(プライベートになると、相変わらずマイペースな人だなあ。これで良く結婚生活営めるわよねえ。この旅の間に、ベルタさんに秘訣を聞いとこうっと)
そうしてロンドン屈指のホテルに入り、ジョージ6世のラジオ放送をライブで聞いて戴冠式は終わった。
そして戴冠式の翌日から観艦式、園遊会までは、イギリスの要人、それに戴冠式で集まった各国要人のうち、私が用のある人もしくは私に用がある人との会合予定が沢山あった。
前回の欧州旅行と違い私の主に水面下での名は広まっているらしく、予想してた以上に忙しかった。
そして私の噂を噂以上に知っている人には、有る事無い事を吹き込んでおいた。当然、ナチスをディスりまくりだ。もう仲良くする事はないから、遠慮する必要もないのは気分が良かった。
言うだけ無駄だろうけど、タカ派の人には「ナチの蛆虫野郎をヤルなら来年の秋が一番」とも吹き込んでおいた。
そしてそのドイツや、ドイツでなくてもナチスの匂いのする連中は、面会申し込みなどがあっても完全にシャットアウトした。勿論だけど、共産主義者はそれ以上に警戒した。
イギリス政府にも強くお願いしておいたので、お陰で近づいてくる者はなかった。
ただ一度だけ、こっちが逃げ出す羽目になった。
あのペテン師野郎が、アポなしで突撃して来たからだ。
一方のセバスチャンは、数名を連れて到着したその日にはドーバー海峡を渡りドイツ入りしている。
目的は言うまでもなく、まだドイツに残っている同胞やその他虐げられている人たちの救援だ。
この為に、欧州行きは時田ではなくセバスチャンを選んだのだ。
最近は日本政府、外務省、それに陸軍も本腰を入れ始めているので、ドイツや欧州近隣での日本によるドイツ出国の斡旋、移民の斡旋、さらには事実上の脱出行が行われている。
それでも、こういう機会に出向いてしまうのは、民族の血ってやつなんだろう。
けど、私が付いて行くわけにいかない。だからロンドンに滞在して、私の仕事を淡々と片付けていく。
だから、ロンドンは既に観光済みとはいえ、空いている時間では遠くに出かけるのは難しかった。
一方で、大半はホテルで過ごす事になるから、側近達は交代で観光に送り出しておいた。行きたいと言うなら、ドーバーの対岸のパリやベネルクス諸国の辺りでも行動を許可した。
日頃の労を労うと言うのもあるけど、何より見聞を広げてほしいからだ。
「それでお芳ちゃんは、今日はどこへ?」
「大英博物館図書室」
「博物館自体はもうおしまい?」
「見てたらキリがないし、どうしても見たいのはもう見たから問題なし」
「私、あそこの図書室は行ってないのよね。暇をみて行ってみようかな。オックスフォードの図書館は、少し覗いたことあるんだけどね」
「そっちの方が羨ましいかも」
「紅龍先生をダシに使えば、学校ならどこにでも行けるわよ。お願いしてあげようか?」
「そこまでしなくてもいいよ。本が相手だから、それこそ贅沢言い出したらきりがない」
「それ以前に、読みたい本を読む時間も取れないしね」
「まあね。だから半分以上は観光に行くだけ。お嬢は今日も誰かと会うの?」
「えーっと、どうだったっけ?」
そう言いつつマイさんへと顔ごと視線を向けると、手にしていた手帳を開く。
「今日はありません。キャンセルがありましたので」
「キャンセル? 誰? 次の機会って、日本に来てくれないと無いのに」
「ココ・シャネル様です」
「は?」
手紙を出していたから、てっきり戴冠式に呼ばれてロンドンに来ていて、いつ襲撃を受けるのかと警戒すらしていたのに意外な展開。
ちゃんと会う予定日まで入れているだけでも予想外なのに、キャンセルとか私が知るあの人を考えたら有りえない。
けど、ある意味当然の理由があった。
「お仕事がお忙しいようです」
「あー、スキャパレッリとの競争だっけ?」
「内容までは聞いていませんが、多分そうだと思います。それにフランスでは去年大きなゼネストもあり、経営は大変なのかもしれません」
「あー、去年辺りにそんな愚痴もめっちゃ書いてたなあ。それに最近、ちょっと元気なかったのよね。……よし、紙とペンを用意して。紙はノートくらいの大きさを沢山」
「はい。手紙を書かれるのではないですよね?」
「うん。真っ白の紙。ちょっとシャネルに刺激を与えてあげるの。できれば、色鉛筆とか簡単に色が付けられる画材もお願いしますね」
封印していた21世紀のファッション知識のイラストを何枚か描いて送れば、多少の刺激にはなるだろう。暇になったのもあって、何となくそう思った。
『それが大いなる間違いだったとは、この時知る由もなかった』とかのモノローグが頭の片隅で流れなくもないけど、半ばペンフレンドとはいえ私にとっては大切な友人だから、これで襲いかかって来ても構わないと思った。
そうしてしばらく、お絵かきに専念する。何だか久しぶりにしているけど、意外に熱が入ってしまう。
と言うのも、お芳ちゃん達一部は観光に出かけたけど、一緒に部屋にいるマイさんや一部側近の女子が、私の描くものを熱心に見ていたからだ。
「玲子ちゃんって、たまに凄く女の子らしい事始めるわよね」
すっかり素に戻ったマイさんが、私のガラスのハートに突き刺さる一言を何気なく投げかけてくる。
「ゆ、夢で見たものだから。私はそれをこうして絵にするだけですよー」
「それでも、こんなに鮮明に絵に出来るって凄いわよね。あっ、ごめんなさい。でも、夢なんて朧げにしか覚えていない事が殆どなのに、玲子ちゃんの夢は本当に凄いといつも思うわ」
「あ、ありがとう。まあ、これもその一環だから、私が突然女の子らしくなったわけじゃないから、スルーしてくれると逆に助かります。主に私の心が」
「あ。き、気をつけるわね。でも、モダンと言うか大胆と言うか、肌の露出も多いのね。これなんて、足を出しすぎじゃない? こっちも肩を出しているし」
「そーですよねー。昔、シズにもよく言われて、リテイク出まくりました」
そう言うと、扉のそばで控えているシズが、いつものように静かにお辞儀をしている。
「でも、玲子ちゃんの夢に出てくる未来の女の人は、こういう服装なのね」
「うん。もっと肌を出すのも、まだまだありますよ」
「それは、世に出すのは止めた方が良いと思うわ。でも、この下着、すごく可愛い」
まだまだ心は乙女で女子なマイさんらしく、シズよりはこういう話はしやすい。
そしてその日は半日お絵かきに使い、それをまとめてシャネルに送った。けど、相手はパリ。反応があるとしても、数日かかるだろう。
その間に、こっちは英国を離れているハズだ。
ジョージ6世の戴冠式:
映画『英国王のスピーチ』を見よう。ほぼ史実通りらしい。
ウェストミンスター寺院:
11世紀にエドワード懺悔王が建設。
エドワード8世:
イギリス王室は、たまに変な人が玉座についてしまうけど、この人もその例に漏れない人。詳しくは、適当にネット上で調べてください。
スキャパレッリ:
エルザ・スキャパレッリ。ファッションブランド。
戦前の欧米でシャネルと競い、これに勝利した。
しかし1954年には一度無くなる。
一方のシャネルは、1930年代はスランプ気味だったらしい。
大きなゼネスト:
マティニョン協定。1936年6月に起きた大規模なゼネストの調停。この影響でブルム左派政権(人民戦線内閣)が誕生。
当時のフランス政治の混乱を物語る一幕。
シャネルは、自社の労働者の待遇が悪かったらしい。




