553 「戴冠式の英国(1)」
マルセイユを飛び立って約4時間。フランスを上空横断してドーバー海峡を越えると、目的地のイギリス、ポーツマスへと差し掛かった。
事前に連絡もしてあったし招待客なせいか、ドーバー海峡の辺りで英空軍機のエスコートを受けて軍港の街ポーツマスへと降り立つ。
エスコートはとんがり鼻の複葉機で、日本にはないスマートな姿をしていた。まだ複葉機なんだと思ったけど、運動性が求められる戦闘機は複葉機が主流だと教えられた。ただし世界中では、単葉機の開発が急速に進んでいる。
ポーツマスは古くからの港町で、イギリス海軍屈指の軍港都市でもある。ドーバー海峡に面していてロンドンからもほど近いので、日本で言えば横須賀に当たるのだろう。
そして横須賀に戦艦『三笠』があるように、ポーツマスにはナポレオン戦争で活躍した帆船の『ヴィクトリー号』があると聞いている。
そして到着した時は、5月20日に行われる予定の「ジョージ6世戴冠記念観艦式」に合わせて集まった、各国の招待艦も錨を下ろしている。日本からは重巡洋艦『足柄』さんが、やって来ている。
そうした中に、そして私達の乗る大型飛行艇『大和号』『敷島号』は、白く雄大な機体を眼下の人々に見せつけ、そして優雅に悠然と海水面に降り立った。
乗っている方はそんな事は思わなかったけど、翌日の新聞にそう書かれていた。多少は宣伝効果があったらしい。
到着は午後のお茶の時間の少し前、事前に知らせてあるし、私達は招待客だからかなりの数の人に目撃される事になった筈だ。
そうして一通り、イギリスからの歓迎と新聞の取材などを終えると出迎えが待っていた。
「相変わらず派手な登場だな」
「あっ、紅龍先生! わざわざのお出迎え、誠に痛み入ります」
「うむ。玲子に舞、それに皆も。道中無事で何より。さあ、立ち話もなんだ。ロンドンへ向かう汽車でゆっくり話そう」
そして、飛行艇のクルーや整備士たちと別れ、サロン車両を貸し切った列車内へと移動する。
途端に、紅龍先生のイケメンな感じが崩れ去る。
「周りの目があるから仕方ないとはいえ、玲子に畏まられると、むず痒いな」
「もう、いつまでも子供扱いしないで下さいます? これでも、もうすぐ結婚する身ですのよ」
「だからそれをやめろ。気色悪い」
「……いやいや、いい加減子供言葉はまずいでしょ?」
「公でないなら、いつも通りでいてくれ。せめて玲子に子が出来るまでな。流石にそれで私も諦めがつく」
「どういう諦めよ。それよりベルタさんやみんなは? まだスウェーデン?」
「一緒にロンドン入りしたが、私は講演会で一人で動いている。ベルタやアンナ達は観光しているよ。みんなには、ホテルで会える」
「じゃあ、紅龍先生の同伴はベルタさんね。私どうしよう。誰でもいいって言われてはいるんだけど」
「晴虎は来てないんだったな。だが、流石に女性一人は無理だぞ」
「分かってるって。ワンさんに頼んである」
「……あの大男か?」
「うん。なんたって草原の王の一人よ。欧州のそこらへんの貴族様より格は上。欧州基準だと、侯爵になるんだったかな?」
「あいつ、そんなに出世してたのか。だがまあ、それなら不足あるまい。だが肩書きは?」
「私と一緒。鳳家の名代。紅龍先生は公爵としてよね? それとも英国の偉い勲章持ちだから?」
「医学者としてだけだ。日本からは皇族方も来られているから、華族が目立っても仕方あるまい」
「秩父宮雍仁親王殿下と勢津子妃殿下が参列されるのよね」
「そうだ、陛下の名代としてな。玲子も、明日くらいに殿下にご挨拶しろよ」
「ウッ。私、皇族方と正式に会った事ないのよねえ」
「そうなのか? しかし、非公式はあるわけだな。流石と言うか、呆れると言うか」
「前にお父様に引き合わせてもらったのよ。それより皇族方へご挨拶って、女だけでして良いの? しかも秩父宮は、陛下の弟君でしょう」
「心配するな。私が付いて行ってやる。日本ではご縁は無かったが、こっちに来て一度お会いしているからな」
「どういったお方?」
私的には皇道派将校と仲のいい、少し行動が危うい殿下という印象がある。
「気さくで活発な方だ。スポーツがお好きで、スキーの話で盛り上がった」
「紅龍先生、スキーするんだ」
「するぞ。北欧は冬季競技が盛んだからな。ベルタに教えてもらった。それに体を動かすのは好きだし、研究には体力も必要だからな」
(それは紅龍先生が、髭ダルマになるくらい無茶するからでしょ)とは思うけど、思うだけにしてあげた。
「鍛えた体してるもんねー」
「うむ。鍛錬は欠かしていないからな」
そしてドヤ顔である。研究と鍛錬と家族の時間、それに陛下の御進講の準備で毎日忙しいらしい。
まあ、相変わらずだ。だから今回の事を先に聞こうと思った。
「紅龍先生は、全部出るのよね?」
「出るぞ。戴冠式に、その一環の観艦式、園遊会、舞踏会。玲子は? ワンを連れて回るのか?」
「うん。園遊会、舞踏会は、失礼にならない程度に顔を出すだけね。というのは表向き。イギリスの諸々から、他の警備で手一杯だから目立つところでウロチョロしないでくれって。ハルトさんが来ないのも、半ばこじつけ。ワンさんをパートナーにしたのも、護衛が第一目的だしね。
その代わり、影でコソコソ密談の連続。観艦式も見に行くけど顔を出すだけね。私にとっては、戴冠式も半分くらい口実だから」
「……チャーチル議員あたりか?」
「うん。それにロンドンだと人が多すぎて密談でも目立つから、大きい商談ね。特にBP、英国石油ね。サウジアラビアの油田の一部を公表したいらしくて」
「何もない砂漠で野営をした時のやつか。懐かしいな。あの一日中探した油田を掘るのか?」
「一番大きいのはまだ。見つけやすい場所から無難にって感じみたいね」
「呆れる程見つけていたが、そんなもんだろうな。しかし買い手が付くのか?」
「実際に産油を始めるのは何年も先だから、どうなるかしらねえ」
「……そういう不穏な言い方はよせ。玲子の場合、シャレにならん。ただでさえスペインで内戦が起き、共産主義だ全体主義だと世間がうるさい。ヨーロッパでは不安がる話ばかりだからな」
「やっぱりそうなのね。欧州各所からの報告でも、良い話が全然ないのよね。今回の戴冠式は、久しぶりに良い話ね」
「まったくだ。陛下も、時勢を気にされる事が増えた。……玲子、日本はどうなのだ? 確か悪い夢が近いのではないのか?」
紅龍先生とはあまりきな臭い話はしたくはないけど、誤魔化せる相手でもないから軽くため息をつく。
「せっかく話を逸らしたのに、どうしてそういう事聞くかなあ。けどね、私の夢からは大きく外れているから、安心しろとは言わないけど、多分大丈夫よ。出来る限り、手も打ってあるし」
「日本を取り巻く情勢が、昔聞いた話とは随分違うのは確かだな」
「そうよ。……ねえ、念のため確認するけど、陛下に妙な事口走ってないでしょうね」
「鳳一族の秘密でもあるんだぞ。言うわけなかろう。重臣の方々にも、具体的な事は何も言っとらん。おかげで、去年のクーデター騒ぎの時の根回しが、どれだけ大変だったか」
「あー、はいはい。もう耳タコで聞きました。その節は、ご苦労お掛けしました。ありがとうございます」
「そんな誠意のかけらもない平たい発音で言うな。だが、聞いた話が当たり過ぎて、無理にでも話を通しておいて良かったと、あれほど思ったのは久々だった」
「最初じゃないのね。その前は?」
「新薬開発の途中辺りだな。ところで、今更だがこの話を他に聞かせて良いのか?」
「ホント、今更ね。マイさんは当然問題なし。そこのデブちんは、まだ世に出回ってない頃に時田が紅龍先生の新薬をあげて助けているくらいよ。側近達は、私と一蓮托生。他も、この車両には何話しても問題ない人だけ。それくらい考えて話しているわよ」
「そうか。だが、仕方あるまい。私は蒼家の人間じゃないのだから、細かい事は聞かされてないんだぞ」
「しかも、今や鳳凰院公爵様だものね」
「私自身は、今も鳳の一員の心構えだ。この体には鳳の血も流れているしな。おっと、そうだ。その件で話がある」
「何、改まって? その件って?」
「鳳の血だ。玲子達の子と私達の子を、将来結ばせようと思っている。お互い混血だし丁度良かろう」
「何が丁度良いのよ。気も早すぎ。それに紅龍先生達と違って、私達の子はまだどうなるかも分からないのに。子供は天からの授かりものでしょう」
「うむ。だから願掛けみたいなものだ。鳳一族の繁栄を願う為のな。それに玲子は、言った事は大体守るだろう」
「大体はね。けど、一番下の玲華ちゃんでも、今年4歳でしょう。最低でも6歳差ね」
「年齢差なら心配するな。もう一人欲しいと子供らにせがまれたので、ベルタとも相談しているのだ」
ノーテンキにそんな事を堂々と言い切るので、もうジト目を送る元気もなくしてしまいそうだった。
そもそも、互いの子が男か女かも分からないのに、いい加減すぎて苦笑すら漏れてしまう。
けど、天然で私を紅龍先生のいるライトサイドへ引き寄せようとしているように思えて、多分私は何らかの笑みを浮かべていたと思う。
秩父宮雍仁親王:
昭和天皇の弟にあたる。ジョージ6世戴冠式に昭和天皇の名代として参列している。
1940年頃に肺結核が発覚、53年に悪化して亡くなっている。
この世界だと、初期段階で薬が使えるから長生きしている可能性がある。
スキー:
昭和に入る頃には、日本でも一般的なレジャーとしてスキーを楽しむようになる。
なお、秩父宮は「スポーツの宮様」とも呼ばれ、色々なスポーツをされた。
サウジアラビアの油田の一部:
ダンマン油田。沿岸近くにある、最初に発見された大油田。史実での公表は、1938年3月。




