545 「昭和12年度鳳凰会(7)」
出光佐三と話し終えて、次の挨拶へ向かう時だった。
「玲子さんもだけど、周りのメイド達も大したものだね。大事な相手との話では、周りから僕達の顔が他から見えないように移動している」
「外での護衛に比べれば、大した事ないそうですよ。ねえ」
ハルトさんへの答えを振ると、後ろのシズが代表して小さくお辞儀だけする。シズ達数名をこういう場でも連れ歩くのは、今ハルトさんが言った通りの目的もあった。
読唇術が使えるスパイが鳳の社長会の場に入り込めるとは思えないけど、何気ない挨拶の振りをして重要な事を伝える場合もあるので、注意は必ず必要だった。
そしてその最も注意するべき人を、目にする事になった。
「……なんであの人がいるかなあ」
「どうしたんだい……外相の吉田茂様?」
「ですね。出席リストにもなかったし、最初の食事会にもいなかったから、飛び入りですね。しかも取り巻きの数名、秘書かもしれませんけど、子飼いの配下ですよ」
「小松製作所で何か問題でも?」
「あるとしたら虎三郎と話している筈です」
「確かにトラ以外に用がある筈もないか。つまりそれ以外だね。席を外そうか?」
「外したら不自然に見えます。向こうも織り込み済みでしょう。一緒に聞いていて下さい」
「了解。玲子さんと一緒だと、飽きないね」
そう言って男らしい笑みを浮かべる。親しくなる前より、精神的にタフになったと思える仕草。
ただ私には以前から少しだけ不満があった。
「なんだい? まだ何か?」
「いえ、いつまで私はさん付けで呼ばれるのかって、少し思っただけです」
「ああ、それか。結婚するまでの、僕なりのけじめだよ。玲子さんは鳳の長子、それにひきかえ僕は結婚するまでは分家の子だからね。でも、さん付けはお互い様じゃないか」
「私は干支一周も目下だから当然です」
「貫禄は逆どころか、わし以上にすら見えるがね」
突然割り込んできたのは、やっぱり吉田茂だ。向こうからやって来やがった。けど今は、普通のおっさんの表情だ。
「ご無沙汰しております、吉田様」
「お初にお目にかかります、吉田茂様。鳳晴虎と申します」
私の横で初対面のハルトさんが、深めにお辞儀をしている。それを吉田茂は、ここでの定番で「構わないでくれ。わしは小松の肩書きでここにおるから、あんたらの下っ端だ」と笑顔で応対している。
そして「それにしても仲が良ろしいから、話しかけにくかったですぞ」と結んで、豪傑笑いをする。
以前と違い外務大臣二期目ともなると、貫禄が一段と増していた。それとも手下が増えたから、貫禄が増したのかもしれない。
そして連れていた数名の手下の人、と言っても全員が高級官僚など一廉の人物達を周囲に展開させる。
私も軽く目配せして、シズ達に私たちを周囲から遮断させる。
これでまた、広い場所に私達だけの結界が形成される。
「小松の事業は順調と聞いておりますが?」
「順調どころか笑いが止まらん状態だな。各種建設機械に農業トラクター、それに戦車。戦車なぞ、三菱を差し置いて独占状態じゃないか」
「今三菱も生産体制を抜本的に改めているので、今のうちだけですよ。気がかりはそれですか?」
「いや、わしの懐が暖かくなるのなら、小松が何をしようと文句はない。鳳からも十分にしてもらっておる。ところで、晴虎さんは戴冠式には出席されんのか?」
「はい、玲子が鳳の名代として出席します」
またこの手の質問だ。他にも何人かが聞いてきたけど、吉田茂の場合はその先に何かあると見ないとダメだろう。
「なら玲子さん、言伝を頼まれてくれんか?」
「どなたに?」
「逆に誰が良いと思うかね?」
(うわっ、そうきたか。まあ、聞かれた以上、この人には言うけどね)
「私が英国で一番親しくさせて頂いているのはウィンストン・チャーチル様で、政治的なメッセージなら相応しいかと」
「チャーチルは、わしも知り合いだ。あれとはウマが合いそうだし、酒と葉巻を教えてもらった。あれには直接出しても良いが、一筆も頼まれてくれ。では、今の内閣は?」
「ボールドウィン内閣は、もう直ぐ終わりですよ」
「戴冠せずに逃げ出した王様がいるから、臣下が責任を取らねばならんだろうな。では次は?」
「それを向こうで聞いてくれば宜しいですか?」
「知っとるだろうに」
ニヤリとそう返してきた。私の『夢見』は信頼しているらしい。だから軽くため息だけついて、返すことにした。
「どなたがなろうと、皆さん対独宥和政策をするので、私は憂鬱なんです。もっとも、対ソ連政策をどうするのかと持ち出されると、具体的には私も提示できませんし」
「確かになあ。しかしそうなると、次は同じ保守党のチェンバレン辺りか? それともハリファックスを継いだ奴か?」
流石に良く調べている。今は蔵相と陸軍大臣をしている人だ。けどこのコンビは、次の内閣で首相と外相になってナチスを付け上がらせただけの人、という認識しか私にはない。
英国が自分達の戦争準備を整える時間稼ぎの宥和政策だという説も確かあったけど、どうしてもナチスの口車に乗せられたと思えてしまう。
「私の予測は、ご想像にお任せします。ただ、チャーチル様には再三再四色々とお伝えしましたが、あの方のご尽力があっても殆ど何も好転した事はありませんでした」
「フム。あの御仁で無理なのか。それで、玲子さんはどう見ているね?」
「それを確認しに行くんですよ」
「そうなのか。確かに、直に見てくるのが一番だな。いや、下らん事を聞いた」
「いえ、とんでもありません。それと土産話は、またいずれお話させて頂きたく思います」
「是非頼む。欧州は現地の日本人ですら、タチの悪い病にでもかかったような奴か、怯えている奴ばかりだ」
「防共協定を英米と結べたので、日本の方は落ち着いたと思っていましたが?」
「往生際の悪い奴はどこにでもいる。しかもあっちには、ヒットラーを心酔しとる輩までいるからな。タチが悪い事この上ない。玲子さんも、気をつける事だ」
「お気遣いありがとうございます。ですが、私は使用人達が万全に守ってくれるので、不安は感じておりません」
「だろうな。だが英国にはあのペテン師がいる。あいつもまだ足掻いていて、英国の連中も辟易としとるようだ」
(さすが、防共協定を調印してきただけあって、色々知ってるなあ)
「確か駐英大使でしたね。絶対に近寄らないようにします」
「ペテン師の飼い主の猟犬どもが、そこら中に入り込んでいる。わしとしては、極力早く欧州を離れる事をお勧めするよ。それに、玲子さんの一番の目的も米国だろ?」
「欧州も、会いたい人はいるんですけどね。ですが、なるべく早く欧州は離れようと思います」
「うん。それが良い」
「はい。それにしても、いつになく親身になって下さるんですね」
「当然だろ。知る人ぞ知るではあるが、あんたはそれだけの影響力がある。そして日本の為だ。だがまあ、嫁入り前の年頃の娘さんを危ない目に遭わせたくない、という事にしておいてくれ」
「はい、お心遣いありがとうございます」
「礼はいらんよ。土産話だけ聞かせてくれ。それじゃあな」
言いたい事だけ言うと、そそくさと去って行った。
「年頃の娘さんって、一応本心なのかなあ?」
「良い方じゃないか」
「だとは思うんですけどね」
(なんだか、ちょっとツンデレっぽい)
元オタクとしては、そんな不謹慎な事を吉田茂に思ってしまった。
タチの悪い病:
ナチズム。ナチス信奉者。
ペテン師:
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣。
飼い主の猟犬:
飼い主=アドルフ・ヒトラー
猟犬=ゲシュタポ(秘密警察)か一般親衛隊。もしくはナチスのシンパ辺り。




