538 「1937新年度」
1937年4月になった。
日本の政治は、私の前世の歴史のように『食い逃げ解散』もなく、宇垣一成内閣が1年を超えた。
好景気に後押しされ、陸海軍も上手くコントロールし、さらに外交も問題なしという、ほぼ満点状態。だから、政権は長期になると言われていた。
ただ、政友会、民政党の重鎮中の重鎮達が、高齢もあって軒並み隠居してしまったので、政党の政治力低下が言われていた。
妙に元気な犬養毅は、今年82歳だというのに精力的に内務大臣を勤めていたけど、これは例外。
今年で、原敬81歳、高橋是清83歳、加藤高明77歳になる。比較的若いのは濱口雄幸67歳だけど、政治家が出来る体じゃなかった。そして皆、隠居組だ。田中義一もまだ存命だけど、ほぼ寝たきりと聞いている。
政友会総裁は総理大臣の宇垣一成(69歳)だけど、この人は軍人出身であって政党政治家じゃない。
それでも幸いというべきか、宇垣一成は名誉欲はあるけど物欲は低いので、意外と言われるほどクリーンな政治が続いている。
陸軍への利益誘導も、海軍が久しぶりの戦艦新造ではしゃいでいるのに比べれば可愛いものだ。
ただ、政権内の他の有力な政治家となると、犬養毅になってしまう。
病気で総裁を諦めた鈴木喜三郎も、かつてのような勢いはない。その影響で、義弟の鳩山一郎も今回も大臣をしているけど、それ以上の勢いはない。
一方、外務大臣2期目の吉田茂(59歳)の存在は、高級官僚からの転向であっても大きくなり始めていた。
その代わりと言うべきか、前世の歴史だと林内閣の前の首相だった広田弘毅は、総理どころか外務大臣にすらなれていない。
吉田茂とポジションが入れ替わったみたいな感じだ。ただ私の前世の歴史を見る限り、軍部が望んだ人だけあるというマイナスイメージしかない。
そして私の前世の歴史だと、林銑十郎の次に各方面から期待されて首相となった近衛文麿は、宇垣さんの前に消去法で首相になるも、何もしないうちに『二・二六事件』事件の被害者になって、逃げ出したところを襲撃されるという恥を晒した挙句に、隠居状態で引き篭もってしまった。
官邸から逃げ出した事が世にばれたのと、シンパシーを感じていた青年将校に攻撃されたダブルパンチで、近衛文麿のプライドはズタズタで何もする気を無くしたらしい。
聞こえてくる噂では世捨て人で、まさに「ライフはゼロよ」状態だそうだ。
まあ、水面下からバラしたのはうちだけど。
けど、そのあとに成立した宇垣内閣が安定したままなら、短期間で次々に首相と内閣が変わる可能性も低く、日本の政治の安定が期待できそうだった。
そして一部陰で『鳳内閣』と呼ばれているけど、鳳が宇垣内閣にして欲しいのは、安定した政権運営、親英米の外交、拡大傾向の好景気の持続、これくらいしかない。
私個人としては、利権なんか他の財閥にくれてやって構わなかった。
けれども、世の中はそうは見ないし、鳳グループ内にも「いけいけどんどん」な雰囲気は強い。
そして私、いや私達の方針としても、来るべき戦乱の時代に備えて拡大路線を続けるつもりだった。
「とはいえ、一気に暇になったなあ」
「何か言った、玲子ちゃん?」
「春だなあって」
「そうね。桜もそろそろ満開だものね」
4月に入ったばかりの頃、私の仕事部屋にはマイさんだけがいる。お芳ちゃん達は、今日は鳳学園の大学予科の入学式の手伝いに行かせている。
私の側近達のうち輝男くんも同じだけど、みっちゃん達護衛担当の5名だけが交代で護衛や側仕えをしている。護衛担当は、私と同じくもう学校には行かないので、私の護衛や身の回りの世話という本来の仕事に専念できるようになった。
だから、シズとリズ中心だった警備のシフトも、二人はさらに楽になる筈だった。
けど、警備担当や側仕えだから、仕事の手伝いは荷物運び程度しかさせられない。だから、少なくとも午前中の仕事は、マイさんと二人という事になりそうだった。
一方で鳳の本邸には、男女1名ずつの特待生が新たに書生として入ってきた。去年の輝男くんと姫乃ちゃんと同じだ。
姫乃ちゃんが、先輩として面倒を見ているのが少し微笑ましかった。
けど新しい書生は、私から見て普通の秀才。特に目立つところはない。名前や経歴を見ても、怪しいところは無し。ゲーム登場キャラでもなければ、未来のネームドって事もなさそうだった。
ただ、屋敷内の特待生が4人になった事で、食事などはともかく部屋の方は本館から別の棟になった。
この影響で、側近の輝男くんはともかく、私と姫乃ちゃんの接点が減った。私が学校に行かない事と合わせると、朝夕の食事時に顔を合わせるくらいとなってしまった。
なお別の棟は、旧使用人棟を壊して去年新たに建てたゲストハウスも兼ねた館となった。
その中の部屋のうち、使用人も使う区画の部屋の調度などを整えて使わせている。向こう数年間は、年と共に特待生達が増えていく事だろう。
そして書生に使わせるように、ゲストハウスというのは建前や外向けで、この屋敷には警備の関係で余程の人以外は泊める気は全くない。そして余程の人や一族は、普通は本館内の客間を使う。
そして本館で空いた部屋は、私とハルトさんが結婚した場合に使う部屋を用意する為に、色々と部屋を入れ替えて準備に入っていた。
そして私の住む本館内は、春から逆に人が少し減った。
「……学校が恋しい?」
私に顔ごと視線を向けていたマイさんが、続けてそう言った。言われたという事は、何か寂しげな表情でも浮かべていたんだろう。
「かもしれません。けどそれ以上に、4月のイベントが一気に減ったなあって」
「玲子ちゃんの場合、入学式や始業式だけじゃなくて、派手なお誕生日会もあったものね」
「はい。いつもの年なら、今頃バタついてましたね。けど、張り合いはあったんだなあって、今になると思えます」
「今年もすれば良かったのに」
アメリカ人を母親に持つだけに、この辺りはアメリカンな感覚のマイさんだ。
「身内に祝ってもらうだけで十分ですよ。それにあの派手な誕生日会は、鳳の宣伝でしたから」
「結婚するなら、もう無用か」
「はい。役目は終わったと思います」
「日本にも誕生日を祝うって習慣も、少しは根付いたものね」
「はい。私としては、それで十分です」
そんな会話を交わした2日後の4月4日、私の誕生日会は鳳の本邸で身内だけでささやかに行った。
基本一族だけで、血縁者以外だと執事や使用人、側近達だけ。会社の人間も呼ばないし、例外は毎回呼び合っている勝次郎くんくらいだった。
また、新しい書生は学校の用事があるので不参加だけど、遠慮したという面もあった。だから料理やケーキだけ、取り置きさせておいた。
「玲子様、誕生日おめでとうございます!」
セバスチャンの音頭取りで、参加したみんなが一斉に私を祝ってくれる。
本来あるべき誕生日会って気がする瞬間だ。
当然この前に、ケーキの上に刺さった17本のロウソクの炎を吹き消している。誕生日の歌の伴奏も、今年も虎士郎くんがしてくれた。
「なんだか、小さい頃を思い出すな。最初にケーキのろうそく消したのっていつだった? 4歳だったか?」
「4歳の時は、あの桜の木の下で僕たちだけだった。ろうそくや歌は、5歳の時からだな」
龍一くんと玄太郎くんが、懐かしげに話し合う。
確かに始めたのは、4歳、5歳の時だった。あれから随分経った気がするけど、変わったのは私達が大きくなったのと、人が増えた事くらいだろう。
今年は大人達だけじゃなくて、私達よりさらに一回り下の世代の子供達も参加してくれている。
そして私の誕生日という事と、子供が集合するというので、紅龍先生の一家も参加していた。もちろん、虎三郎の一家も。
そして丁度日曜日という事もあり、また祝い事だから珍しく玄二叔父さんも顔を出していた。龍也お兄様も家族で参加しているので、殆ど全員集合状態だった。
なんだか、この景色を見ているだけで、少し胸が熱くなってしまいそうになる。
「俺は、小学校に入った翌年から参加だったな」
「アレ、そうだったっけ? もっと早くに顔を出していたと思ってた」
「玲子ちゃん、私達と間違えてない?」
「ボクらは、最初に誕生日の歌を歌った時だから、多分違うよ。玲子ちゃんの勘違いでしょ」
「そうだな。だが、玲子でも小さい頃の記憶は朧げなんだな。少しホッとする」
「勝次郎くんは、私をなんだと思ってるの」
少しポーズをつけて見せると、みんなが軽く笑った。いつもの展開ってやつだ。
私は同世代からも規格外だと思われているけど、前世の記憶というものがある。だから、ゆっくり思い出さないと、記憶が混ざってしまう時があった。だから、実のところ過去の記憶ってやつには、あまり自信がない。
「玲子は俺の目標だよ。それより、また海外に行くんだってな」
真正面から目標とか言われると顔が少し熱くなるのを感じるから、言葉の後半にだけ答えることにした。
「うん。一種の卒業旅行ってやつね」
「英国の新王の戴冠式出席に、欧米のお歴々への訪問とは、随分な卒業旅行だな」
「戴冠式の事は最初は考えてなかったけど、お父様が段取りしたから行けって言われただけよ。鳳グループの豪州開発のご祝儀みたいなものね」
「そのご祝儀の原因で、事実上世界を動かしているんだがな」
「そうなの、勝次郎さん?」
瑤子ちゃんがそう聞いたけど、周りの男子達も注目する。大人と同じように扱われるようになったとは言え、まだまだ知らない事の方が多いからだ。
その点、勝次郎くんは、山崎の家で鍛えられているのがうかがえる。
「豪州並びに英国の親日感情、というより日本との関係強化に大きな影響があったのは間違いないな。共通の利害関係を持つ事は、一番の関係強化になる。それ以前に、鳳グループとアメリカの経済界との繋がりの強さは、もはや三菱を上回っている。日本の中で汲々としている他の財閥では、話にもならないぞ」
「鳳の場合、国内が飽和状態で入り込む隙がないから、外に打って出て成功したってのがあるんだけどね」
「その外での成功で濁流を作り出して日本を飲み込み、根底から変えてしまったわけだがな」
「ゲームの盤面が小さいから、少し大きくしただけよ」
「少しじゃないし、大きく出来るだけで途方もない事だ。念のため聞くが、自覚がないとか言うなよ」
「……多少はあるわよ。けどね、今の日本経済は坂道を落ちる雪玉みたいなもの。私の手は、とっくに離れているわよ」
「裏を返せば、手をかけていた時期があるという事だ。うちの本丸の商事や重工は、この10年程の急激な変化に頭を抱えっぱなしだからな」
そう言ってヤレヤレだぜなポーズを取るから、少し意地悪な視線を向ける。
「その割には、勝次郎くんは余裕ね」
「当然だろう。三菱で鳳と一番親しいのは父上と俺だからな」
そしてドヤ顔である。勝次郎くんらしさは年を経ても変わっていないので、少し嬉しくなる。
「なるほど。けど、お陰でうちも日本では助けられているから、持ちつ持たれつね」
「ああ。だから、今後とも末長くというやつだ」
「そうありたいわね」
そう言い合って、演技っぽく持っていたグラスを「チン」と合わせた。
『食い逃げ解散』:
軍部の要求を丸呑みした昭和12年度予算を通し、予算成立後に衆議院を解散した。
林銑十郎内閣自体が、陸軍が予算を通す為に作った内閣。1937年2月に出来たが、総選挙での惨敗、政界の大反発にあって6月に総辞職。
宇垣一成:
戦前戦後合わせて林内閣の前の宇垣流産内閣を含めると、4度も重臣たちから首相候補に推薦された。だが、陸軍から反対されるか、陸軍を制御出来ないという理由で首相になれず仕舞い。
吉田茂:
史実では、軍部の反対で戦前は外務大臣などになれなかった。(候補にはなっている。)




