536 「対ソ連工作報告(3)」
「辻」
私に続いて永田さんが辻を促した。そうすると、ある程度教えていた辻は少し姿勢を正して話し始めた。
「鳳より援助いただいた豊富な工作資金を用い、主に日本との友好を広めるという形でパーティーの開催など様々なもてなしと賄賂を実施しました。これにより、受けた者は自動的に日本と関係を持った者となります。そして隙の多い者については、これで十分に対象となると考えております」
「対象とは粛清のか? その程度で?」
参加者の誰かの言葉に辻が続ける。
「はい。間違いありません。疑わしきは罰せよ、です。既に密告も横行しており、ソ連にとって有益な、我が国にとって邪魔な者達が舞台から姿を消す事になるでしょう。ただ」
「ただ?」
「私が「これは」と思った人物、強い関係を築いた者に関しては、細心の注意を払い対応致しました」
「そちらは今後も情報源などになるという事だな」
「だが粛清される可能性もあるだろう」
「その為に多くの者と関係を結んできたのだろう」
そこからは、しばらく参加者達の議論というか半ば雑談となった。私が放り込んだ爆弾から目を逸らすため、敢えて気をそらせているのかもしれない。
そしてそのあまり意味のない雑談が鎮まるのを待って、永田さんが仕切り直す。
「それで辻大尉、他の工作については?」
「ハッ。こちらの金や物品、飲食などの接待を受けた者も、ただだとは考えません。次のものを求め、向こうから接触、場合によっては情報提供などを持ちかけて来る者もいました。勿論、こちら側からも、有益と考えられる者に、逆の事を実施しました」
「そうして手に入れた情報は、順次精査しているところだ。他は?」
「その中の一部に、兵器の視察、部隊の視察などもあり、ソ連赤軍の実情をこの目で見聞する事が出来ました。これも報告した通りであります。ですが、文書では伝えきれない事も多く、関わる方々には強くお伝えしたく考えております」
「うん。次の配属は少し時間を開けるので、存分にしてくれ」
「感謝致します」
なんだか話が終息に向かっているように見えたので、辻ーんに視線を向ける。気づかなければ声をかけようかと思ったけど、気づいてくれた。
こういうところは、官僚人は楽でいい。
「どうかされましたか、伯爵令嬢」
「いえ、軍の高官にはどれほど接触できたのかと、少し気になりまして。情報を得るなら今のうちの方も少なくないので」
「確かに。ですが高級将校、将軍には警戒が強い者が少なくありませんでした。接触が持てても、表面的な話が殆どでしたな」
「元帥の方々は?」
「自分も是非会ってみたいとは考えていたのですが、流石に無理でした。ソ連では無理押しも難しく、ご期待に沿う事が出来ず不甲斐ない限りです」
「いえ、そんな事はありません。私どもが考えていた以上に、広く多くの人と接触を持って下さったと考えております」
「そのお言葉に報われた思いです」
「それで、最終的にはどれくらいの数になりますか?」
「直接は千人程度。間接的には、一万人になると予測しております。勿論、将校を中心に、軍人、官僚、共産党員ばかりです。中には党幹部も。出来る限り選りすぐりましたので、有象無象が対象となるより大きな効果を期待して頂いて構わないかと」
(流石辻ーん。凄い行動力。それに攻撃力高いなあ。工作資金があっという間に消えていくのも納得)
「それは有難うございます。今後の結果は、興味深く見させていただきますね」
「ご期待ください。それと伯爵令嬢、一つ伝言が」
「私にですか? どなたから?」
「伯爵令嬢の名も素性も一切明かしませんでしたが、連中の秘密警察の中には聡い者もおりまして」
「その方から?」
少し警戒するそぶりを見せておいたら、辻が胸の前に両方の手ひらをかざす。
「ご心配なく。向こうは、日本陸軍が情報収集とソ連国内での情報源獲得を図ったとしか考えておりません」
「ですが私に? 工作に際した資金源が国だけではないと突き止めていたので、釘を刺してきたと言ったところでしょうか?」
「恐らくは」
(まあKGBのご先祖様の組織が無能揃いなわけないわよね。当然か)
「その聡い方は、個人でしょうか。それとも組織?」
「個人的に、と申しました」
「個人。どなたでしょう? 場合によっては、私どもから接触を持ちますが」
「それはお止めになられるべきです。何しろ、伯爵令嬢が接触せよとおっしゃられたラヴレンチー・ベリヤですぞ」
(ギャー、よりにもよって! しかもベリヤだと、違う意図をどうしても感じてしまうんですけどーっ!)
一瞬だけ内心が大変な事になったけど全力で押さえつけ、辻になるべく神妙に頷き返した。
そうすると、辻らしくないと言ったら失礼だけど真摯に頷き返された。
「ええ、それが宜しいでしょう。何かあれば、陸軍で対処いたします」
「……辻、そのベリヤという奴、そんなに危ない奴なのか?」
遠くから、そんな不躾な声。
石原莞爾だ。私が見える側に座っているので視線を向けると、明らかに面白がった表情をしている。
ようやく面白い話を見つけたと言わんばかりだ。私をからかいたいのが見え見えだ。
ただ、辻からは石原の表情は見えない。
「はい。間違いなく危険な男です。自分がソ連に向かう前、伯爵令嬢から接触せよとお教え頂いた男です。現時点でも任地での粛清をし続け、権力闘争を熱心にしております。伯爵令嬢がおっしゃられた通り、エジョフの次はあの男で間違いないでしょう。危険で残忍な男です」
「ホーッ。なのに伯爵令嬢は、接触しないのか? 好機ではないのか?」
「ですから石原閣下、あやつめは危険なのです。それに、その」
辻が珍しく言葉を濁した。
私が知るベリヤの性癖を、辻が掴んでいると見て間違いなさそうだ。そして辻の珍しい態度に、会議室のおっさんどもが注意を向ける。
だから私は辻に頷いた。話してオーケーと。
そうすると辻も小さく頷き返す。
「ベリヤという男、特殊な性癖の持ち主なのです。ですので、手紙といえど伯爵令嬢が直接接触を持つべきではないと、自分は判断しました」
「特殊な性癖、ねえ」
石原はさらに笑みを広げる。私を虐めたいらしい。
だから私は、立ち上がりこそしなかったけど、石原に顔ごと向ける。
「ベリヤという方は、大変な漁色家だそうです。しかも10代の少女を強姦、暴行するのが大好きなのだそうですよ。これでご満足ですか、石原様」
言い切って半ば睨みつけてやると、石原の方は軽く唖然としていた。「え? 俺の聞きたい話じゃないんですけど?」みたいな表情だ。
そしてバツが悪そうな表情に変化した。
どの表情も、なかなかにレアショットだ。
「ロクでもない事を聞いた。許されよ。俺はてっきり、秘密警察だから嗜虐的なのだろう程度に思っていた。だが、どちらにせよ、俺もロクでもないな。本当に申し訳ない」
最後に起立して九十度で頭を下げてしまった。
これもなかなかレアショットだ。
「頭をお上げください。写真や資料でしか見た事のない方の事など、気にもしておりません」
「いや、伯爵令嬢に対して俺が失礼だった。この場は言葉だけだが、いずれきちんとした謝罪をさせて頂く」
そして再び頭を下げる。
もう、軽くだけどため息が出てしまう。
「ハァ。ですから頭を下げないで下さい。気にしておりません。気にするのなら、これから犠牲になる多くのソ連国民を気にして差し上げて下さい」
「全くだな。窮地を救えば、色々と我が国に有利な事もあるだろう。辻、その辺りの仕込みも?」
私が呼び水の言葉を続けたので、すかさず永田さんが、その流れに乗せて場の空気を変える。
「はい。次の者達にも頼みましたが、出来る限りは。場合によっては自分が直接参加してでも、約束を交わした者は何としても助けたく。そこで永田閣下に一つお願いが」
「任地を満州にでもしろと?」
「ハッ。是非に!」
「まあ、拘らないのなら何とかなるだろう。しかし、良いのか?」
「ハッ!」
「良いのか?」というのは、出世街道から外れる可能性があるからだろう。けど、軍隊は官僚的である為、身内に甘い。陸大まで行った者同士となると尚更だ。だから、経歴に傷が付かない参謀職あたりを無理矢理にでも用意するだろう。
そしてこれで話はひと段落かと思ったけど、まだ続きがあった。
一人が挙手する。田中新一だ。前世の歴女知識の上では、好意的ではいられない人の一人だ。
「金をばら撒く以外の工作についてお聞きしたい。それだけでは、ドイツが行なっているという噂の工作に比べ、些か消極的ではありませんか」
「辻」
また永田さんが、辻を促す。
直接は1000名程度:
専門家や仕掛けた人がこう予測した数字が、100倍、1000倍になったのがこの時の大粛清。
ただし10万人が追加されたとしても、全体の1%、誤差の範囲とすら言えるのがこの粛清の凄まじいところ。




