535 「対ソ連工作報告(2)」
「お待たせしました」
「いや、構わないよ」
お兄様を先頭に、小さな会議室に入ると、既に話を聞く高級将校の大半は揃っていた。
下っ端で話を聞くのは、さっきまで話していた三人とお兄様。そして、先読みの情報に加えて袖の下もしくは山吹色のお菓子を出した鳳の代表として、私が参加する。
高級将校達は仕事上がりを除いて、この集まりに顔を出したのを欺く為に私服が多い。
そして私達が席に着くと、もう一人の私服が入ってきた。
「やあ、既に全員揃っているとは、これは失礼」
明治の書生みたいな格好の石原莞爾だ。
「やあ伯爵令嬢。このホテルのすいーつは、いつ食っても美味いな。参謀本部から近いから、普段も時折寄らせてもらっている。本当に良い物を作ってくれた」
「お口にあって何よりです」とだけ返したけど、甘党の石原莞爾が時折どころか月一くらいのペースで下のメイド喫茶で大量の甘味を食べるという報告は聞いていた。
そんな石原莞爾が、空いた最後の椅子に座るのを目で追いつつ、他のメンツも一瞥していく。
上座は陸軍次官の永田鉄山。次の陸軍大臣確定で、陸軍の次代を担うリーダーとしての貫禄も漂っている。ただし舎弟の東條英機は、この3月に関東軍に異動していない。
その代わり、同期で三羽烏の一人の岡村寧次がすぐ側に座っていた。けど三羽烏のもう一人、小畑敏四郎の姿はない。
『二・二六事件』以後の急進派の代表として永田と対立し、そして既に負けていたからだ。
他のメンツは、基本的に元「一夕会」のメンツ。私も何度か顔を見たことのある人ばかりだ。
私的に注目どころだと、まずは牟田口廉也。
私の前世の歴史と違う歴史の流れの影響か、危ない青年将校との関係は早くから絶っていたお陰で、今も陸軍中央でエリート街道を順調に歩んでいる。この人が前線に出ないと、これほど安心感があるとは思わなかった。
私の前世の歴史の中だと、『二・二六事件』のとばっちりで左遷されこの年の七夕にやらかしてしまうのだから、人生は分からないと思わせてくれる。
そして次いで武藤章。この人も、牟田口が始めた戦争を推し進める人だ。けど日中戦争のフラグは今の所ゼロだし、石原莞爾に加えて永田鉄山が上にいる限りやんちゃはしないだろう。
それ以外だと、服部らと戦争中に作戦を弄ぶ田中新一だろうか。けど、一見してただのエリート参謀って感じしかない。
それ以外だと、マレーの虎の姿はもうない。『二・二六事件』の影響だ。他にも数名姿が見えない。
そして一夕会以外は、さっきまでの辻ーんのパーティーにいたお兄様とその下僕3名になる。辻が報告者なので、服部や西田は下っ端将校の代表だ。
合わせて20数名。小さい会議室とはいえこの時代の高級ホテルなのと軍服が少ないので、少し華やかで無国籍感がある。
まあ、はっきり言って、魔王の幹部会議の様相がある。他国、特に大陸やソ連から見れば、そのものだろう。
「まずは辻政信大尉、ソ連駐在武官の任、大変ご苦労だった」
「ハッ、恐縮であります。永田中将閣下」
そんなやり取りがしばらく続く。
そして永田さんが「さて」と切り出した。雑談は殆どなしだ。
「さて辻大尉、報告自体は後で回覧するとしてだ、まずは貴官の生の言葉を聞きたいと思う。ソ連はどうだったね?」
「ハッ。ソ連自体について、帰国して噂を聞くと、もう恐るに足らずという言葉を聞きました。ですが、ソ連赤軍は非常に強大です。流石は陸軍大国ロシアの後継者であると深く感じました。陸軍の近代化と増強については、今後も手を緩めることなく着実に行い、奴らに隙を見せてはいけません」
そこで少し間を開け、再び続ける。
「2、3年は大人しくなるでしょうが、その後隙を見せれば襲いかかってくるは必定と存じます」
「……2、3年か。噂や報告は色々とあったし、その言葉信じさせてもらいたいが、根拠は?」
「自分は、ゲンリフ・ヤゴーダ、ニコライ・エジョフ、それにスターリンのお気に入りの一人であるラヴレンチー・ベリヤのいずれとも接触を持つ事に成功しました。ヤゴーダ失脚は、これから始まるあの国での地獄の合図で間違いありません」
「……もう一度問う。根拠は?」
「ヤゴーダは、賭博と漁色にふける退廃的な悪徳まみれの男だったので何とも言えないのですが、残る二人はスターリンのお気に入りです」
「お気に入りでなければ、秘密警察など任されまい」
「はい。さらにエジョフは、スターリンに対する忠実な支持者です。スターリンの言葉以外聞かず、スターリンに認められる為にのみ行動します。過剰に動くのは間違いないでしょう。
またベリヤは、スターリンと同郷と言える出身です。現在もコーカサスにいて勢力を拡大しつつあります。エジョフの役目が終われば、頭角を現すと見て間違いないかと」
「まるで天下餅だな」
私のほぼ対面に座る岡村寧次が、ポツリとそんな言葉を口にした。
「織田がつき〜」という奴だろうけど、酷い例えをしたものだ。きっと、真っ赤な餅が出来上がる事だろう。当人の僅かに伺える表情も、そう思っているようだ。
そしてその呟きを聞いた近くの人達も、それぞれゲンナリするなどの表情を浮かべている。
「で、我々は餅の材料を提供し、さらに手伝いもしたわけだが、十分なものが出来るのだな」
「はい。我々が手を貸す必要すらない程です。それと、未確認ではありますが、手伝っているのは我々だけではないようでした」
「ドイツか。その件は、我々もナチスの親衛隊などが動いているらしいという未確認情報は掴んでいる。だから今はいい」
そこで挙手する者がいた。小石原の武藤章だ。
「自分は今までこの件に深く関わる事が出来ず、今回資料を見、話を聞く機会を得ました。それでも我が陸軍が彼らの粛清劇の火に油を注いだ、という事くらいは了解しています。
その材料を提供したのが鳳という事で宜しいのでしょうか。今更ながらで大変恐縮だが、是非に確認させて頂きたい」
そう結んで私に視線を注いできた。
武藤章以外の人の視線も、異分子である私に集中する。
けど、武藤章も口にしたように、鳳が裏で陸軍にソ連での活動資金を渡している事について、この場の人間は全員知っている。ただ、情報の程度には誤差があるらしかった。
私は最初にお兄様、そして永田さんへと視線を向ける。永田さんには、お兄様も私と同じように視線を顔ごと向ける。
そうすると永田さんが、少し強めに頷いた。
話してよし、という事だ。つまりこの場にいる者は、より深い地獄見物がしたい人達らしい。
救いのない事だと思いつつ起立して、おっさんどもを睥睨してやる。
「我が鳳グループは、10年以上前から満州及び上海を中心とする地域で、共産党勢力からの攻撃や妨害を受けております。未遂に終わりましたが、一族やグループ関係者への暗殺や誘拐、テロもありました。そこで龍也を通じ、陸軍の一部の皆様に協力させて頂いております。
多くは情報の共有になりますが、今回は幾許かの資金援助をさせて頂いております」
「数百万、いや1000万に届くとすら言われるが?」
今度は牟田口廉也が挑戦的に私に言葉を投げつけてきた。
そうしていると、普通のエリート軍人に見える。本当に前線に出てはいけないタイプなんだろう。
けど、この人を見て、意図せず日本を奈落に落とした人の一人を見て、少しばかり意地悪がしたくなった。
「はい。金額と同じくらいの方が犠牲となるので、その弔いの意味も込めてご提供させて頂きました」
私の言葉に、多くの人が最初は反応しなかった。
この数字を出したのが、お兄様以外は初めてだからだろう。お兄様も永田さんにしか話していないと言っていた。
チラリと見たお兄様は、少し厳しい目をしている。まあ、当然だろう。
だから教えていない人が気づく前に、言葉を続ける事にした。
「ですが金額は重要ではありません。どのような方に、どのように使うのかが重要です」
「辻」
私に続いて、永田さんが辻に声をかけた。
大粛清:
犠牲者の数は一般的には800万人から1000万人と言われる。他、1200万人説など諸説ある。
ウクライナでのホロドモールと合わせて、この時代のソ連は自国民の10%以上を無為に殺した事になる。
しかもそこに、第二次世界大戦での犠牲者2000万人以上が加算される。
石原莞爾:
この年の3月1日に陸軍少将に昇進し、参謀本部第1部長に就任したばかり。
田中新一 (たなか しんいち):
強引で攻撃的な作戦ばかり立てる印象がある。そして日本軍を泥沼にはめてしまった一人。




