525 「1937年度予算審議前(2)」
「ハァ。……永田様がそんな馬鹿な事を言い出すとは考えられないけど、それだけ陸軍内の圧力が強いの? 急進派はパージしたばかりでしょ?」
もう、本気でため息が出てしまう。
どうやら軍人にとっては、予算とは数字の駆け引き、ただの紙の上の存在でしかないらしい。
「一番の問題は、やはり海軍を優遇しすぎているという点のようですな」
「なんだかんで海軍がちょっと多い感じの予算編成が続いてきたとはいえ、2割の開きは大きすぎるって?」
「左様です」
そこで話がひと段落。お互いに肩を竦めたくなるけど、我慢して原因を聞いてみることにした。
「それで海軍は、例の大風呂敷を要求して来たの?」
「はい。これは陸海軍共通なのですが、経済発展に伴う将兵の給与増加と兵器調達価格が高騰。ですが陸軍の方が頭数の関係で4、5倍いるので、多くは軍艦の新造が原因です。
しかも1938年の1月から、例のエスカレーター条項を踏まえた計画を押し通したいようです」
「そしてウッキウキの海軍内は、久しぶりのお大尽な計画を通す声で満ちていて、良識派の人たちも抑えるのが難しいってところ?」
「はい。ですが政府は、好景気下での過度の国債発行増加に強い難色を示しております。また、増税も同様です」
「当然よね。ただでさえ財界は臨時利得税で大変なのに、国債増額共々経済に悪影響しか与えないわよ。陸海軍は、目先の軍備の為に5年先の果実を逃す気なの?」
「それをみんなが理解していれば、こんな話にはなってないでしょ」
ちょっと会話に熱がこもっていたらしく、ずっと聞き役に徹していたお芳ちゃんのツッコミが入った。
視線を向けると、お芳ちゃんはいつものように淡々としていて、その横で私の秘書をしているマイさんが、軽く苦笑気味だった。
二人とも私の毒舌には慣れているから、その点気兼ねしなくて良いのが私も助かっているので、笑みを返す。
そしてごく小さく深呼吸してから、貪狼司令に向き直る。
「それで、現状での解決案もしくは妥協案は? もうそこまで話は進んでいるんでしょう? 宇垣様なら、すぐにも対応するわよね」
「はい。陸海軍共に、軍事費割合は昨年度と同じ。これで調整をとります。当然ですが、海軍には計画を見直すようにとのお達しが出ると見られております。でないと、海軍が法外な予算要求をした事を国民に周知すると、軽く脅したとの話です」
「陸軍が下手に出たのも、もしかして作戦?」
「いえ、陸軍は、海軍がそこまで大きな要求をすると、想定していなかったようです」
「逆に言うと、海軍は陸軍が大きな要求をしてくると見ていたの?」
「普通に考えればそうなりますが、海軍の情報収集不足が原因かと。何しろ、海軍の政治力が下がったままですので」
「その上、海軍の数倍の大所帯の陸軍の方が、政治力が大きい上に、ある程度は自浄も済んで内部調整しやすいってところ?」
「そうなりますな。そして陸軍の動きを読み違えたので、能天気に法外な要求を出して、自ら袋小路に入りました」
「そして、政治力の低下したままの海軍は、陸軍を味方につけた形の政府の求めを受け入れざるを得ないか」
「はい。それに、そもそも海軍の計画が法外なのは間違いありません。ですので、諸外国を警戒させないという名目もあり、海軍が一部計画を断念する方向で話はまとまると見られております」
「けど、随分削る事になるわよね。大丈夫なの? 政府を恨まない?」
「陸軍が政府の味方に付く条件として、軍事費割合の増加を求めました」
「何%? 去年は確か36%だったわよね。いきなり40%の大台とかないでしょうね」
「2%上昇で手を打ちました」
「陸海合わせると、来年度だと1億円の違いか」
前世の歴史では、この時は予算総額の半分くらいだったと記憶していたから、軽く安堵する。
「ですがこれで、総額は19億3000万。法外な要求と比べても2億ほどの違いしかなくなりました」
「他の予算が圧迫されそうね」
「景気拡大のおかげで、それでも昨年より大きく増額はされます」
「政府は何とか陸海軍がワガママ言ったのを抑えたと、他の省庁を説得。陸軍は、政府側につく事で政治的得点を得た上に予算を確保。海軍は、大風呂敷を広げた甲斐あって、多少のワガママを通せたってところ?」
「その辺りかと」
「念のため聞くけど、これで陸海軍が内閣を倒しに来たりはしない? 大丈夫?」
「今のところは問題ないかと。陸軍は、海軍との差を気にしておるだけですので」
「そう。けど、陸軍は予算をそんなに取って、何をするつもりだったの?」
「予算が得られるなら、陸軍全体の近代化、機械化に加えて、戦車師団をもう1つ加えたいようです」
「そりゃあお金が幾らあっても足りないか。海軍は?」
「秋頃言われていた計画から空母2隻を削り、戦艦4隻、空母2隻、巡洋艦6隻の計画です。こちらがその概要になります」
そう言って差し出された紙面には、口で言った内容に加えて駆逐艦18隻、潜水艦14隻などが書かれている。
これを今まで同様に3年分の予算で調達する事になる。
(お金のかかる『大和』さん達を作らないとはいえ、戦艦4隻も計画すれば、予算が一気に増えるか)
「海軍は次の3カ年計画で幾ら要求してて、ここからどれくらい削るの?」
「総額11億の要求が、恐らく10億円以内に収まるでしょう。ですから、3カ年計画で14億円程度の計画を、12億円程度に圧縮するのではないかと考えられます」
「2億円、戦艦2隻分か。陸軍は?」
「元々海軍の法外な要求に対抗しただけですので、本来の計画に戻るだけです。陸軍の方が、よほど素直ですな」
「まあ首相が宇垣さんで、陸軍は永田さんが牛耳っているものね。けど、大丈夫なのよね?」
「まだ本格審議の前ですので、反発が強ければもう少し陸海軍に譲歩する可能性はあります」
「それは増税や国債増発抜きで?」
「政府は、そこは譲る気はありません。軍備で国を傾かせては本末転倒、というくらいの理解はある内閣ですからな」
そう言って薄く皮肉げな笑みを浮かべる。貪狼司令にしては、相当高い評価だ。
ただ、笑いはすぐに引っ込める。
「また、譲歩を迫られる海軍ですが、来年度以降の経済発展による予算の拡大を見越して、また1938年に戦艦と空母の計画を動かす事から、来年度予算での復活もしくは増加を狙うようです」
「それって皮算用じゃないの?」
「ですな。ですが他にも、船舶建造助成は海軍から予算を割くのを止めるのを条件としているので、これで数千万円が浮きます」
「代わりに商工省とかに出させるわけ?」
「一部はそうなりますが、実質中止ですな。その影響が、万博合わせの客船建造に出る可能性があります」
「それは政府と日本郵船と大阪商船が考える事ね。国際汽船のうちは関係ないし。ただでさえ、作る気のなかった豪州航路用の貨客船作ってるのに、これ以上無駄金は使いたくないわね」
と、そこでマイさんが小さく挙手。お芳ちゃんも何か気がついたみたいだけど、視線で譲っていた。
「前に玲子ちゃんが空母にする為、海軍が大型の客船を作らせるって話をしていましたけど、海軍はそれをやめたという理解で良いでしょうか?」
「恐らくは。客船だけでなく、有事には兵員輸送や仮装巡洋艦に使う予定の船も、実質的に来年度予算分は全て、軍艦建造に回すようです」
そこで私も思い至った。側で聞いていたから、二人は先に答えに行き着いたというわけだった。
「つまり海軍は、国際情勢の観点から英米、特にアメリカとの戦争の可能性が大幅に減ったから、しゃかりきになって有事に必要な支援用の民間船を作るのを止めたってことね」
「でも、軍艦は作るんだね」
「そりゃあお芳ちゃん、古い船を作り変えるのが今回の目的だからね。予算を絞られたから、そっちを優先したんでしょう。何より軍艦が欲しい人達だし」
「私は、商船の方が好きだけどね」
「そうね。けど、有事に客船を空母にするって話が流れるなら、私は無くなる方が良いわね」
「そうだね」
「本当にそうね」
女子二人が私に同意してくれたけど、貪狼司令もその表情を見る限り肯定的だった。
3カ年計画で14億円程度の計画:
史実だと「第三次海軍軍備補充計画」では、艦艇建造に約8億円を要求。
陸軍共々、法外な予算請求が1937年度予算の審議で出され、これを無理やり通すために政治的ゴタゴタが起きた。
一度の計画で、巨大戦艦と大型空母を2隻ずつ作る事そのものが、当時の国力、国家予算規模から考えると、分不相応なものだった。
またこの世界だと、史実よりも船の値段は上がっている。かなりの一人当たり所得の向上がある為。ただし、資源価格はほぼ変わらないので、極端に値段は上がらない。
船舶建造助成:
優秀船舶建造助成施設。1937年から『新田丸級』『あるぜんちな丸級』の予算が出る。大型の『橿原丸級』の予算はさらに翌年。
そしてこれら全てが、最初から空母への改装を前提に設計され、船の構造も一部が商船ではなく軍艦のものだった。




