519 「広州事件(1)」
1936年の終盤。『日米英防共協定』の正式調印の頃から、大陸からは不穏な情報が入り始めていた。
鳳に情報をもたらしてくれたのは、大陸の兄弟達。つまり水面下の動きでもあった。その証拠に、日本をはじめどこも情報を掴んではいなかった。掴んでいるとしても、そこも秘密にしている事になる。
イギリスは、掴んでいるだろう。
なお大陸では、北から順に五色旗のように、満州臨時政府、中華民国政府、南京臨時政府、中華ソビエト共和国臨時政府、広州臨時政府と並んでいる。
そして、満州と張作霖が主席を務める中華民国の領域が安定していた。さらにこの二つは、日本もしくは日英米の援助を受けて通貨と経済を安定させ、さらには軍備増強を実施した。
このため、中華民国の支配領域は着実に広がった。
そして満州に手をつけると金蔓の日本が怒るため、張作霖は南進もしくは西進を行う。それに張作霖自身も、満州よりは大陸中原の支配を目論んでいた。
初期の頃は、山東省辺りまでの軍閥を配下にする程度だったけど、1935年くらいには少し南下して准河辺りまで進んだ。
一時的には揚子江流域にまで広がった。
さらに西方、内陸では西安から四川盆地へと勢力を伸ばして行った。
四川盆地は、周囲を山岳地帯で囲まれた巨大な盆地で、この頃はまだ鉄道が引かれていなかった。
揚子江(長江)を遡るか、西安方面もしくは雲南方面から陸路で入るくらいしか手がない。
だから基本的には、揚子江流域との関係が深かった。それでも独自の軍閥がいて、どの陣営にも加担していなかった。
それが通貨の安定に伴い、中華民国が浸透に成功。支配どうこうはともかく、経済的には中華民国の勢力下に入った。
さらに中華民国政府は西にも向かい、内陸にして東トルキスタン方面の玄関口でもある蘭州あたりにまで勢力を拡大を画策した。
これによって、大陸の奥地から大陸南部への交通路を握ってしまおうとした。
主な目的は、ソ連と大陸の共産党勢力の物理的な遮断。しかも国民党左派を中心とした広州臨時政府もソ連からの援助を受けていたし、日本をけん制する為にソ連は蒋介石とすら接触を持っていた。
そして日本と張作霖の中華民国政府は、現状では一蓮托生状態なので、遮断するのは当然の行動だった。
コミンテルンにより共産党に命令を出す一方で、日本をけん制する目的で蒋介石にも接触するあたり、ソ連は味方にも容赦ない。
それはともかく、徐々に追い詰められた蒋介石は、ドイツとの関係を一気に進めて「蒋独合作」に踏み切る。
そしてこの話にドイツの橋渡しで広州臨時政府も乗り、日英米が支援する張作霖の中華民国と、ドイツが商売相手としてソ連すら手助けする蒋介石という二つの対立構造が形成されるようになる。
そんな中で中国共産党もしくは中華ソビエトは、コミンテルンというかソ連からは周りの連中を跳ね除けて日本を叩けと言われ、列強の援助を受けた他の勢力全てから攻撃された。
この結果、1936年までには、揚子江の北岸からは共産党が駆逐されてしまう。
南部でも、中華ソビエトのある本拠地と言える江西省の瑞金一帯へ、押し込められつつあった。生き延びられているのも、広州臨時政府が国民党左派で共産党攻撃に消極的だったからだ。
一方、揚子江北岸の共産党がいなくなると、中華民国と南京政府が境界線を隣り合わせとするようになる。
そして地理的には、本来なら蒋介石の支配するところになるのだろうけど、両軍の進出度合いや力関係の違いから、共産党を追い出した地域の大半は中華民国の支配するところとなった。
対立が深刻化していないのは、中華民国側は現地軍閥が進出している為だ。
そしてこのエリアは、揚子江の南岸ではあるけど、南京と武漢の間にある安徽省辺りになる。
さらに南京政府にとっては、揚子江を一部でも抑えられると、中心である南京一帯と武漢一帯が遮断されてしまう。
そして南京と武漢は、揚子江で繋がっているけど、簡単に鉄道が敷ける地理的条件じゃないので、最悪南京を捨てないとダメになってしまう。
しかも張作霖の中華民国政府は、いい加減上海地域を自分たちの勢力圏に入れたいと考えていた。
そして本来なら中華民国政府が「南征」をして統一戦争を始めてもいいけど、まずは交渉で従わせようと動いていた。
けど、さらに中華民国が手を伸ばす前に、蒋介石はドイツとの間に関係を結んで急速な軍備増強と経済の強化を測り始めた。この為、中華民国も安易に手は出せなかった。
そしてそこで、両者しばらくは軍備増強をしつつ、睨み合いになると見られていた。
そこに変化が見られる動きが出た、という事になる。
「広州臨時政府って、ドイツの軍事援助を一緒に受ける条件で、南京臨時政府の言う事を聞いて、共産党叩くんじゃなかったの?」
「はい。ですが、内部には依然として左派も多く、共産党の攻撃には消極的でした。最初の指導者だった陳済棠は反共でしたが、現在は失脚しております」
一報があったので、こっちから話を聞くと言って総研の地下室へとやってきた。貪狼司令には申し訳ない気がするけど、前世の歴史の揺り返しや因果が巡ってきたように思えたからだ。
「その報告は前に見た。だから会議を開くという名目で、蒋介石が督戦に赴いたってところよね。それで何が起きたの?」
「詳細はまだ不明ですが、広州臨時政府の左派の一部が画策し、広州に滞在中の蒋介石らを襲撃。随員らの大半を殺害した上で、蒋介石を拉致監禁したという情報です」
改めて聞いて、軽く頭を抱えてしまった。
最初の電話口では、軽く放心状態になって貪狼司令が私を何度も呼びかけていたと、同じく電話口にいたお芳ちゃんに聞いた。
そんな私のことはともかく、蒋介石はこの世界でも拉致される運命にあったらしい。
張学良が死んだから張作霖の方は警戒していたけど、まさか汪精衛がするとは思いもしなかった。共産党が「長征」してない事もあって、楽観しすぎていた。
逆に考えると、共産党と汪精衛は場所が近くなので、ある意味場所を変えて事件が起きたのだと言えるのかもしれない。
もっとも、大陸で直接大きく動かれては私には手の出しようがないので、心の中で深呼吸して気持ちを落ち着ける。
「……えーっと、前見た情報だと、随員どころか軍隊を連れて行っていたわよね。蒋介石」
「連れて行った以上の戦力で襲撃した、という事になりますな。未確認ではありますが」
「で、蒋介石は生きているの?」
「正直、分かりません。拉致監禁したという情報も未確認です」
「うち以外に情報知ってそうなのは?」
「香港がすぐ側です。イギリスは知っているでしょう。我々の情報も、汪精衛らと接点を持つ香港のジャーディン・マセソン商会が情報の大元です。また、他が掴んだという情報はありません。ただし、南京臨時政府は既に動き出しているようです」
「そうか。それで事件が起きたのはいつ? 今日よね?」
「はい、本日12月12日の早朝。ですが完全な奇襲だったと見られ、戦闘は殆ど無かったようです」
「蒋介石の軍隊は何してたの?」
「警備していた者、指揮官クラスは殺された模様。それ以外は、寝込みを襲われ何もできずに降伏、と言った所のようです」
こうして聞いていると、まるでフィクションみたいな事件だ。けど前世の似た事件でも、似たような状況だった事を思い出す。
「それだけ用意周到だったって事? それとも蒋介石が油断しすぎた?」
「おそらく、その両方ではないかと」
そこまで聞いて、かなり深くため息をついて椅子に深く沈み込む。応接室のソファーだから、座り心地は良い。けど、気分はすこぶる悪い。
そこに、貪狼司令が覗き込んでくる。心なしか楽しそうだ。
「お嬢様は、今後どうなるとお考えで?」
「知っているでしょう。て言うか、話したわよね。夢の中で起きた、似た感じの事件の話」
「西安で起きるのでしたか。張学良が既に死んでいるので、大丈夫とおっしゃってもおられましたな」
「汪精衛は、昔はともかく今はソコソコ反共だけど、そこまでしないだろうと油断してたのは認める」
「その汪精衛ですが、政府内でも左派と排外派の突き上げを受けていた様子」
「それは初耳。今回の件で分かったわけね」
「広州政府内の左派と共産党が、手を組んだようです。そしてまだ未確認ですが、汪精衛自身は関わっていないかもしれません」
「じゃあ、首謀者は誰? 孫科とか言わないでよ」
「確かに孫科の外交方針は「積極抗日、中ソ友好」ですが、蒋介石嫌いでも知られておりますので、あながち間違いでもないかと」
「嫌いなら、捕まえずにすぐに殺さない?」
「さて、どうでしょうな。もう殺しているかもしれません。どうせ殺すなら、公開処刑の方が効果は高いでしょう」
「その線もあるのか。何にせよ、経過を待つしかないわね。こっちから出来る事ってある?」
「情報収集を密にする程度かと」
「それしかないか。まあ長丁場になりそうだし、今日は土曜で明日は日曜だから、過度に情報収集に熱を上げすぎずに、ちゃんと休んでちょうだいね」
「ご配慮痛み入ります」
それでその場は終わり、私以外に集まって話すという事もなかった。情報はまだ少ないし、話したところで何も出来ないからだ。私が聞きに行ったのも、ちょっとした精神安定の為でしかなった。
この世界でも拉致される運命:
1936年12月12日に「西安事件」が発生。
この事件で蒋介石は張学良に拉致され、その後の共同抗日と国共合作が促されたと言われる。
汪精衛:
汪 兆銘 (おう ちょうめい)。
親日の政治家とされ、日本でいう国賊扱い。だが、ナショナリズム的な戦争をするより国力を損なわない現実路線を進めたいと向きがあるように見える。
孫科:
中華民国の建国の父、孫文の息子。親の七光り。軽い神輿としては最適。かもしれない。




