512 「1936年秋の海外情勢」
1936年の秋口、私の周りは平凡な毎日が続いていたけど、世界はそれなりに動いていた。
取り敢えず、海外は不穏で国内は経済面がちょー順調、と言ったところだ。
9月26日、ソ連でニコライ・エジョフが内務人民委員、日本で言えば内務大臣に就任した。そして日本の内務省が警察の親玉なのと同様に、秘密警察長官を兼ねていた。
一方では、それまでNKVD(内務人民委員部)の初代長官だったゲンリフ・ヤゴーダは、私の前世の夢と同じく解任されている。
これらが何を意味するのかと言えば、大粛清の準備が次の段階に進んだという事だ。より大規模に、より徹底的に、そしてより苛烈に。
当然だけど、まずはヤゴーダ派の一掃に取り掛かったので、大粛清の開始はそのあと、鳳総研と陸軍のお兄様からの推測だと、来年春までに大規模な動きが見られるだろうという事だった。
それにしても、粛清が生ぬるいという理由で解任され、さらに殺されてしまうとか、スターリン体制怖すぎだろと再認識させられる。
月末には、スペインでフランシス・フランコ将軍が、人民戦線内閣に対抗する反乱軍の総司令官兼元首に選ばれ、指導者の地位に就いた。
これで反乱軍が勝てば、フランコ将軍はそのまま独裁者確定ルートだ。
そして、イタリア、ドイツの支援も確定だろう。逆に人民戦線は、世界中からコミンテルンな義勇兵と、ソ連からの援助が動き出していた。
共産主義とその対抗馬である全体主義は、どちらも無駄に元気一杯だ。
日本の周りだと、中国共産党の仕業としか考えられないテロが、去年夏のコミンテルン大会の後から散発的に発生している。けど、相手が不意打ちかすぐ逃げるので、犯人が上がらない。
だからたまに、張作霖政府、蒋介石政府の責任にしてみたりもしているけど、治安維持をちゃんとしない方が悪い。
中国共産党としては、コミンテルンが日本、ドイツ、ポーランドを敵認定したので、律儀にテロをしているだけだ。
だからだろうか、他の大陸勢力が一向に中国共産党の言葉に乗ってこないことが、大陸の兄弟からの情報で伝わってきている。
中国共産党が『抗日戦線』を作ろうとか言っても、大陸に入り込んでいるのは日本だけじゃない。
そして満州以外だと、アメリカ、イギリスの方が資本面では深く入り込んでいる。上海ででかいツラをしているのも、一番はイギリスだ。
しかも張作霖の中華民国政府にとって、日本は長らくパートナーだ。そして金づるであり、武器や軍事顧問団を供給してくれる得難い相手だ。
スポンサーをドイツに変えた蒋介石は多少違うけど、日本人だけを攻撃するのは難しい。
しかもコミンテルンの親玉のソ連が、張作霖政府を倒す為に蒋介石に大規模な軍事援助するとか言い出しているので、大陸の中国共産党よりソ連に目が向いている。
ソ連としては、ちまちまとしたテロしか出来ない中国共産党よりも、張作霖の政府を倒して直接日本を圧迫してくれる可能性のある蒋介石の方が、利用価値があると考えたらしい。
しかもソ連は、中国共産党に蒋介石を手伝えと言っていた。
そして独ソが支援する蒋介石という図式は、私の前世の歴史そのまま。これで「西安事件」で第二次国共合作が成立したら、敵側の陣営も同じになる。
けど蒋介石の敵は、中華民国政府である張作霖。日本はその後ろだ。
そして張作霖の後ろには、日本以外にもイギリス、アメリカなど欧米各国がいる。中華民国軍の使用する兵器も、華やかというか雑多だ。
世の中も、いずれ大陸中央で大きな内戦が起きると予測していた。もっとも、張作霖vs蒋介石という図式は、10年前と何も変わっていない。
そして違わないのは、中国共産党の活動地域。何しろ、私の前世の歴史と違い『長征』をしていない。
『長征』始めたら徹底的に潰してやろうと思っていたのに、国民党が弱すぎて今でも南部でのうのうと過ごしている。
中華ソビエトの中心も瑞金のままだし、主に揚子江の南岸の山奥で徐々に勢力を広げつつある。
揚子江の北側の一部にも以前はいたけど、北からは張作霖軍、南からは蒋介石軍に叩かれて、大半は壊滅して生き残りが瑞金の方に移動した。
そして『長征』がないせいか、未だに毛沢東が実権を握っていない。名前は聞くけど、前線指揮官の一人という感じだ。
博古、本名は秦邦憲が中央委員会総書記という役職名で、実質的な最高指導者のままだ。
そしてこの秦邦憲、極左で実情無視の指導をするので、ゲリラ戦主体の毛沢東、朱徳らと対立していた。
つまりは、共産党も一枚岩じゃなかった。
「相変わらずの世界情勢ね」
「国内が安定しているから、余計に世界が不安定に見えますよね」
仕事中、私の美人秘書と白い軍師様が、そんなため息交じりの言葉を漏らす。今は仕事の小休止中。当番のメイドにお茶を頼んだところだ。
他の頭脳担当を動員するほどの仕事量じゃないので、お芳ちゃん以外は勉強中の筈だ。
「日本国内も、私の夢というか悪夢だと、なかなかに酷いけどね」
「『二・二六事件』が、もっと大きな事件になっていたのよね?」
「他にも色々。そもそも5年前の満州事変でまずい対応をして国連から脱退しているから、今の視点から見れば外交の袋小路まっしぐらに見えますよ」
「今年はなんだっけ? 私は全部話聞いてる?」
「お芳ちゃんには、どこかで一回は言っているか、私の書いたものを見ていると思う。逆にマイさんには、まだ話してない事の方が多いかな。今度、私が昔書いたやつ見せますね」
「『二・二六事件』を陸軍が利用して、軍部大臣現役武官制を通したり、軍国主義の政治を強めるのよね。首相も広田弘毅様というのは聞いたわね」
「あとは、国号が大日本帝国に統一された筈」
「あれ? 今は統一されてないの? 憲法は国号を大日本帝国憲法だけど……言われてみればバラバラね」
「はい。日本が入っていたら何でもありみたいな感じですね。日本国が一番無難なんでしょうけど」
「でも大日本帝国だと、「大」の意味が違ってくるかもね」
流石、お芳ちゃんは鋭い。私も思わず頷いてしまう。
「どう違うの? 大きいって意味以外があるのかしら?」
「「大」は東洋的というか中華的には、本当に独立した国もしくは帝国って意味です。帝国自体も、真に独立した国の事ですね。王国は帝国の属国、朝貢国に当たります。だから大清国であって、大清帝国にはならないんです。日本の場合は美称だったかな」
「対外的に大は表記してないから、わざわざ付けるより外す方が自然でしょうね」
「英語だと日本帝国になるものね。でも普通は、偉大って意味で取るわよね。他には?」
「違うとなると、今進んでいる防共協定が、ドイツとのものになりますね」
「ドイツのリッベントロップが、ドイツも加わりたいっていう話は聞くけど」
「アメリカの出した条件が、第二次ロンドン海軍軍縮条約と抱き合わせの不可侵条約締結国に限る、ですからね。無理でしょ」
「選挙まであと1月ちょっとだからねー。そもそもドイツが日本に防共協定を持ちかけてきたのは、イギリスを欧州大陸に手を出させないようにする一手に過ぎないって、分析が出たそうですよー」
「陸軍の一部以外は、これでドイツへ総スカン状態だよね。けどお嬢、やったでしょ」
「何をー? って言いたいけど、やったのはお父様達」
「お父様達? もしかして宇垣首相や吉田外相?」
「マイさん鋭い。ドイツが日本を利用しようとしたから、ちょっとしたお返しをしたみたいです。そろそろ国内は、これで少し荒れますよ」
「玲子ちゃん上機嫌ね。そんなにドイツとの関係が悪くなるのが良いの? 反共、防共で連携するのなら悪い相手じゃないと思うけど?」
「そりゃあもう。国としてのドイツ、ましてや政治の素人集団のナチスが信頼出来ないのは自明の理。共産主義といい勝負。商人的感覚で言っても、相手の損得勘定無視するような奴と手を結ぶなんて、有り得ませんよ」
「ハァ。世界中、信頼のおけない国ばかりね。玲子ちゃんの夢がこれより酷いとか、信じられないわ」
「信じられないついでに、夢にはもう一つ酷い事件が年内にありますよ」
「それで妙に大陸の情報収集を強化しているんだ」
「うん。フラグは全部へし折ったから安心したいけど、慢心したら何かが起きるから」
「「西安事件」だっけ?」
「どんな事件?」
「蒋介石が共産党に捕まって、協力を約束させられるんです。で、その後に第二次国共合作が成立。大陸の全部が日本の敵になります」
「それは酷い状況ね。でも、今とまるで違う状況でもある。それでも情報収集は疎かにしないのね」
「はい。現に蒋介石、汪精衛はこっちが手を出してないのに、ドイツの武器につられて連携しました。その間にいる共産党とも、手を結ぶ可能性も十分ありますから。そして張作霖に喧嘩を売って、その勢いのまま日本を攻撃してくるって可能性も十分にあります」
「私には、随分と仮定を上積みし過ぎているように聞こえるわね」
「私にも聞こえる。でも、先に米英との防共協定が成立したら、随分違うんじゃないの?」
「そう思いたいところね」
本心からそう思えた。
博古、本名は秦 邦憲 (しん ほうけん):
1931年から35年頭の中国共産党の指導者。
『長征』の初期に国民党との戦闘の失敗、政策自体の失敗により失脚。
この世界では、『長征』未発なのでそのまま指導者続行。




