511 「新たな防共協定のお誘い?(3)」
「隠す必要はない。吉田さんも掴んどるだろ、ソ連で大規模な粛清が始まりつつあるのは」
私の言葉と視線に、お父様な祖父が即答だった。
そこの事を口にもしてくれた。
「ああ。この8月に、モスクワで複数の有力者の裁判があった。その少し前には5000人が逮捕されている。どうなってんだあの国は? 馬鹿野郎の巣窟か?」
「このまま行けば、来年になるとそんな軽口も叩けなくなりますよ」
「……やっぱり、何か知っていたのか。どうなるか聞いても?」
「可能性の話なら。多分ですけど、2年ほどはソ連の脅威は小さくなります。既に陸軍もその線で動いていて、安心して軍備の近代化と改変を進めていますから」
「陸軍の話は知っている。だが、そこまで酷い事になるのか。……どれくらい死ぬ?」
「今、吉田様が予想された数字の、多分百倍くらいは。ウクライナでの飢饉より沢山」
「なっ!」
吉田茂が絶句した。多分、激レアなショットだ。だから畳み掛けてやる事にした。
「それに、今月中にはNKVD長官のヤゴーダが更迭されます。手ぬるいって理由で。陸軍は、何年も前から色々と工作もしているので、状況は私の予想より酷くなるかもしれませんが、予想を下回る事は多分ないでしょう」
「なんてこった。それで、ヤゴーダの後釜は分かるかね?」
「エジョフ。ニコライ・エジョフです。けどこの人も、数年で失脚します。今度はやりすぎるので。だから深い関係を作っても、数年後には徒労に終わりますよ」
「……その次は?」
「ラヴレンチー・ベリヤ。陸軍が既に接触しています」
「やってくれたな。……それで、この話は?」
「陸軍のごく一部。それ以外は、吉田様が初めてです。本当は、事が起きてからお話しする積りでした」
「なぜ? もっと早ければ、対策の取りようもあるだろ」
「信じますか? 想像を絶するような、途方も無いことが起きるんですよ。今のタイミングでギリギリです。夏の裁判や大量逮捕がなければ、ホラ話と取られたでしょう?」
「否定ができんな。嬢ちゃんの話は、いつも途方もない。それでも、話半分以上には信じたさ」
「それはありがとうございます。では、このまま話を変えますか?」
「いや、ソ連の件は後日改めて伺おう。ただ一つだけ、鳳単独で何かしたのかね?」
「お金は万国共通語ですので、それなりにあちらの皆様にお送りしております」
「酷え事をするなあ。いつかは自分に返ってくるぜ」
「ご忠告ありがとうございます。ですけれど、共産主義が滅ぼせるなら本望」
なんとも芝居掛かった言葉だから、ちょっと気取った表情と声に変えて返事をすると、小さく両手をあげられた。
「その歳で、それだけ言えるとはな。じゃあわしは、まずは英米と防共協定を結んでくるとしよう」
「吉田様が交渉に?」
「海軍軍縮会議の延長とか言っているから、行くなら首相じゃなく全権か外相だろう。それにワシは、軍縮会議に顔を出しているからな」
「もう会議の場所も?」
「言い出しっぺがアメリカだし、アメリカは国内に宣伝がしたい。アメリカである事は確定だ。場所はまだだが、英仏が来るなら東部のどっかだろう。ついでに、大統領選挙でも見てくるさ」
「よろしくお願いいたします」
「まあ、仕事だ。お願いされるまでもない。それじゃあ、邪魔したな。仕事も残っとるんで、これで失礼させてもらうよ」
「今日はありがとうございました。あとで酒を届けさせておきますよ。スコッチの良いのが手に入りました」
「毎度悪いな。楽しみにしとるよ。それじゃあ」
お父様な祖父の言葉に破顔したけど、仕事の時間が終わっても仕事は残っていたらしい。
これから忙しいだろうから、お酒もゆっくり飲めるのは、渡米中の船の上かもしれない。
「さてと、細かい事は先に資料をもらっている。貪狼頼む」
「ハッ」
ずっと、後ろの席に控えていた貪狼司令が前に出てくる。合わせて涼太さんなどのスタッフも動き出す。私も目線で、後ろの椅子で控えていたお芳ちゃんとマイさんを呼び寄せる。
そして吉田茂と話している間に「カッカッカッ」と、黒板にチョークを走らせる音が響いていたように、既に準備を完了していた。
「防共の紳士協定というより、反アカ協定か? それとも、反テロ協定? ソ連の「そ」の字もないが?」
お父様な祖父が、全員の意見を代弁する感想を添える。けど私には、少し違う感想があった。
(なんだか、スッゲー見覚えあるんですけど)
「お嬢、すごい顔。夢に出てきた?」
「多分。このまんまを見た気がする。しかも日独間の防共協定で」
「誰も考える事は似ているのね」
お芳ちゃんのツッコミへの答えに対するマイさんのその言葉で流されたけど、アメリカが寄越した防共協定の草案が、私の前世の歴史にあった日独防共協定そっくりだった。
「なあ貪狼、小難しい事を書いているが、実際の内容を要約するとどういう事だ?」
「そうですな。見ての通り、対象がまずソ連ではありません。共産「インターナショナル」、要するにコミンテルンですな」
「まあ、そこは流石に分かるぞ」
「はい。ですが、コミンテルンの本部はモスクワなので、反ソ連姿勢の強い連中には、誤魔化しがききます」
「交渉の場では、そう誘導すれば良いわけか。そして各国で情報交換を密にして、テロルからの防衛をして、攻撃されている連中を引き込む。こんなところでいいか?」
「はい。そして全体としては、アカのテロに対して厳しく当たる、と言ったところでしょうか」
「あと、付帯事項があるわね。当該官憲という事は、協定を結んだ各国の役人は協力し合いましょうってところ? 拘束力あるの、これ?」
「確かに紳士協定ね」
「解釈も国によって変えられるし、すぐに成立させるには良い内容じゃない? 実効性はないだろうけど」
「全くだな」
口々の感想だけで、全員のコンセンサスが取れてしまった。解説役の貪狼司令と助手の涼太さんも頷いている。
そして全員が、半ば呆れている。
けど、一番呆れているのは私だ。私の前世の日本は、この協定をドイツと結んで、これで歴史の袋小路にさらに追い詰められたのだ。しかも、ソ連で大規模な粛清が始まり、脅威が当面無くなると薄々知っている状況で。
(史実の日本って、余程のおバカさん? 国際的なボッチで、よっぽど寂しかったから? いや、船頭多くして船山に上る、って状況だったんだろうなあ。それに、みんながみんな、自分が見ている航路だけが正しいとでも思ってたのかなあ)
「お嬢はご不満?」
「内容はね。けど、英米と反共で協定を結ぶなら、なんでも大歓迎」
「全くだな。それで期限とか制約とかそういったものは?」
「覚え書き程度ですが、5年期限で反対がない限り自動更新のようです」
「まあその辺か。だが、ソ連と直接紛争や戦争になった場合が書いてないと、日本にとっては意味の無いものだな」
「そうね。けど、中華ソビエトには、多少は有効よ。それにスパイやシンパの情報も渡しやすくなるし」
その私の言葉に全員が頷くけど、お芳ちゃんの手が上がる。
「貪狼司令、各国の人民戦線について何もないのですか?」
「ないな。英仏に配慮したんだろう。何せスペインは、絶賛内戦中だ」
(確か秋にはフランコ将軍が総司令官だか元首だかになるのよね。ファシズムも頭が痛い問題だなあ)
「イギリスは受け入れるでしょうか?」
今度の質問者はマイさん。そして全員が考え込む。
今の内閣は、ボールドウィン首相の挙国一致内閣。前のマクドナルド首相が、去年6月に病気退任した後を受け継いだ。けど、去年秋の選挙で軍備拡張を訴えて議席を減らしたので、勢いがあるとは言えない。
それでもボールドウィン本人は、前の首相の時に反ソ政策を取っていたし、今回もドイツへの宥和政策で、ドイツとソ連を争わせようとする発言もしている。
ただ、勃発したばかりのスペイン内戦に対して、外相のイーデンにスペイン内戦を他に飛び火させないように言っている。
だからこそアメリカのルーズベルト政権は、去年3月に締結された第二次ロンドン海軍軍縮条約と抱き合わせの不可侵条約を持ち出したのは分かる。
そして日米だけで今回の話がまとまる可能性が低いので、最低でも3カ国で結びたい筈だ。
さらに言えば、滑稽じみているけど短期間での防共協定締結を最も望んでいるのが、アメリカ、現在選挙戦真っ只中のルーズベルト政権という事だろう。
「まっ、アメリカの説得次第だな」
お父様な言葉が、この時点での結論と言えそうだった。
モスクワで複数の有力者の裁判:
第一次モスクワ裁判。
大粛清が本格化するのは翌年から。2月には第二次、3月には第三次の粛清のための裁判が行われる。
そして6月に、赤軍大粛清が開始される。
スコッチ:
日本産はまだ黎明期と言えるから、海外産だろう。
吉田茂は、スコッチ・ウィスキーのうちオールド・パーの銘柄が好きだった。




