479 「1936年衆議院議員選挙(1)」
4月8日、女学校の5年生が始まった。
女学校最後の年だけど、5年の学級は私にとって少し寂しかった。
私は女学校で学業終了なので5年生を続けているけど、大学予科に進学してしまって、私の周りの子達がいなくなったから。具体的には、お芳ちゃん達側近の一部と姫乃ちゃんだ。
他にも、進学クラスだったクラスメートの大半ともお別れ状態になった。
その代わり、進学とか関係のない無難な学級になったので、私の周りには側近達のうち、みっちゃん達護衛の女子達がいた。この1年の主な話し相手は、護衛の女子3人になるだろう。
一方で、大学予科は一応は共学なので、輝男くんがお芳ちゃん達と一緒になる。けど、鳳大学といえども半ば男女別学、広い講堂でも男女の場所が明確に決められているほどだから、机を並べてお勉強とはいかない。
ただし寄宿舎に入ったりはしないから、通学は今までと大して違わない。以前同様に1年下の瑤子ちゃん、虎士郎くんとも一緒だから、なおさら同じだ。
多少の違いは、姫乃ちゃんが増えた事。もちろん車は別だけど、待ち合わせなどで話す機会も出来るのは、私個人の対姫乃ちゃん対策には有効な筈だ。
(結局、学校って息抜きの場所だから、あんまり変わらないのか)
「どうかされましたか、玲子様?」
「ううん、何にも。今朝来る時に、選挙の演説とかうるさかったなーって、思っただけ」
「確かに。ですけど、選挙の雰囲気が年々変ってきていますね。昔は、もっと地味というか大人しかった気がしたんですが」
「そうよねー。あ、そうだ。ちょっと気になるから、貪狼司令に話を聞きに行きたいから、後で連絡だけしておいてくれる」
「ハイっ、畏まりました」
自分で話を振ったので、そのままいつもの感じで話を繋いでおいた。お芳ちゃんだと追撃確定だけど、みっちゃんは相槌を打ってくれるだけだ。
そして『うるさい選挙運動』だけど、私が夢の景色、要するに21世紀の選挙の様相を話した影響だ。他にも、トラックの普及や拡声器やマイクとかの技術が向上した影響もある。
だから、トラックやバスを改造した選挙カーで候補者が各地を回る姿は、この5年ほどで一気に広がった。1934年8月にあった前回の総選挙より、今回の方が派手になっている。
あと、政策より政党と個人の名前、知名度向上が、演説を聞いていると目立っている。
余計なことは言うものじゃないと、ちょっと反省させられる。
それはともかく、4月19日が衆議院総選挙なので、2週間前の4月6日、新学年が始まる直前に選挙戦が開始されていた。当たり前だけど、これに勝った政党が新たな政権を作る事ができるし、政党の総裁が内閣総理大臣となる選挙だ。
議会政治万歳。
しかもこの4月19日、毎年恒例の鳳社長会の開催日だ。選挙が決まった時には、前後どちらかにずらすと言う話もあったけど、鳳ホテルの宴会場などを抑えたり変更したりする事が難しく、選挙の日に開催と決まった。
もっとも、この時代の選挙は、即日の夜に大勢が分かるというものではない。何しろ情報伝達の速度は、21世紀とは違いすぎる。
そんなうるさい選挙演説を道中で聞きつつ、その日の夕方には鳳ビルへと入った。後で受けた返事では、大人達も何人か来るとのこと。
そして夕方までは習い事もあったから、瑤子ちゃんと一緒にこなして、夕方前にはマイさん、お芳ちゃんと合流して鳳ビルの地下へとやってきた。
「ごめんなさいね、また無理言って」
「こうしてお話をさせていただくのも仕事のうちです。お気になさらず。むしろ、やりがいを感じております」
意外に丁寧な返事が返ってきた。その横周りでは、副官格の涼太さんがせっせと解説の準備に余念がない。最近では、黒板に事前に文字を書くのも、請け負っていた。
けどよく考えたら、涼太さんも鳳の一族になったのに、それを顎でこき使っている貪狼司令も、けっこう大物というか、肝の太い人だ。
出されたお茶に口をつけ、そんな事を思っている間に、私に遅れて幾人かが部屋へと入って来る。
お父様な祖父、善吉大叔父さん、時田だ。
そして集まった人たちの前には、ガリ版刷りの紙の資料も置かれていく。21世紀になら、パワポで作られるようになる感じの資料だ。
目的:
・『二・二六事件』により混乱した世相に対し、議会政治、民主主義の力を見せる。
・軍部の台頭を抑えるという一点において、政友会、民政党の意見は一致。
・病没、辞任という形での首相交代が続いたので、正しい状態での首相選出を行う。
前提事項:
・元老の西園寺公望は、今回の選挙の動きを見極めてからだが、事実上の引退を宣言。政治から一歩退く。
・原敬は、老齢で事実上引退。すでに老齢の為活動が低下しており、これに伴い政友会の統制が緩まる。
・吉田茂は、ロンドンからの帰国は間に合わないので、のんびりと外交、外遊をしてから帰国。しかし外相の続投確約との情報あり。
・政友会、民政党の両方に、統制経済推進を推す革新的な考えの一派が勢力を拡大中。一部は陸軍との繋がり。政友会が陸軍、民政党が海軍とつながる傾向にあり。
・近衛文麿は表に姿を見せず、裏でも動いている気配もなし。目白の近衛本邸に、人の出入りなし。
・貴族院は近衛文麿が完全に抜けて、さらにやる気減退。
・平沼騏一郎が3月に枢密院議長になってから、自らが率いる右翼団体の国本社を解散。親英米派寄りの姿勢を示す。首相になる為の準備と見られる。
現内閣:
総理大臣:床次竹二郎(急死) → 近衛文麿(辞任) → 宇垣一成(臨時)
内務大臣:宇垣一成(兼務)
陸軍大臣:川島義之(辞任) → 寺内寿一
海軍大臣:山梨勝之進(辞任) → 永野修身
大蔵大臣:三土忠造
外務大臣:吉田茂(渡欧中)
選挙の争点:
政友会:
・総裁は宇垣一成 ・副総裁は鈴木喜三郎
・31年からの好景気を牽引して、さらに拡大すると言う面を前面に押し出す。
・また、新たな軍縮条約締結、満州への進出、中華民国への武器売買など、外交的成功も強調。
備考:
鈴木喜三郎は健康が優れず精彩を欠く。義弟の鳩山一郎は、リベラルから嫌われて傍流に押しやられて力がない。ただし革新派、統制派が後ろにいる。
民政党:
・総裁は町田忠治 ・副総裁は幣原喜重郎
・好景気の真っ只中で経済の話では不利すぎる事もあり、重大な不祥事をしでかした軍の改革、粛軍を強く要請するべく民意を問う姿勢。既に選挙戦で、言い始めている。
・外交は親英米路線の拡大。
備考:
・選挙戦での粛軍演説に、陸海軍が不満。
派閥争いと体制の確立の為に過剰なほどの粛清を実行しているのに、軍に口出しするなと強く反発。
在郷軍人や地方指導者の間の、兵役義務に対する動揺の沈静化に必死。政友会が助け舟を出す。
各政党の重鎮:
政友会:
原敬、犬養毅、田中義一、高橋是清。全員存命だが、高齢のため政治からは引退。犬養毅以外は、今後は重臣会議に出るかも怪しい。
民政党:
加藤高明、若槻礼次郎が現役。
濱口雄幸は、第一線に立てる体力はないので引退状態。
下馬評:
未曾有の好景気を作り出した政友会支持が強い。民政党は、濱口政権、若槻政権の緊縮財政が思い起こされている。
「これ、民政党の勝ち目あるのか?」
「さて、選挙戦は始まったばかりですので」
資料を見たお父様な祖父の開口一番の言葉に、貪狼司令がいつものごく薄い笑みで返す。
けど私には、違う感想もあった。
「選挙は政友会が勝てると思うけど、核になる政治家が弱くない? 民政党も似たり寄ったりだけど」
「平沼騏一郎を、双方の陣営が迎え入れようと画策しているという噂もございますな」
「財界は、今の景気拡大路線を続けてくれるなら、政党にこだわりはない。次の蔵相も三土さんなら後ろに高橋さんがいるので、安心感が違うと言う感じだね」
時田、善吉大叔父さんが私に続いたけど、どちらにせよ大物政治家に欠けるのは間違い無いという事になってしまう。
私の前世の歴史だと、この時期くらいから軍部がでかいツラした政府になるからまともな大臣は激減するけど、もしかしたら軍人、元軍人がいないとダメなのかもと思いそうになってしまう。
「玲子は、あまり期待してなさそうだな」
そんな私の心を見透かしたのか、お父様な祖父が言葉をかけてきた。煽るような言葉に合わせて、少し面白がるような、いつもの顔だ。
目白の近衛本邸:
目白近衛町(東京都新宿区下落合)にある。基本的には近衛家はここに住んでいる。
歴史的に有名な杉並にある荻外荘に近衛文麿が居を構えたのは昭和12年(1937年)から。
荻外荘の方が、数々の歴史の舞台ともなったので有名。この世界では、無名のままで終わるかも。




