468 「昭和11年度予算編成(1)」
日本を揺るがす大事件とやらが起きても、多くの事は当事者達の話。やるべき事を抱えている人達は、自分達に影響が及ばない限りは、そんな事件もあったと思う程度だ。
そして日本中は、クーデター未遂事件どころではなかった。
世の中は未曾有の好景気下で、自分達がいかにして儲けるかで頭が一杯だ。鳳グループがその旗頭とも言われるけど、誰もが好景気の波に乗ろうと必死だ。
そして政府と中央官僚達は、その好景気により膨れ上がった税収をいかにして予算編成へと昇華するかで、クーデターどころではなかった。
一方、その恩恵に我関せずというか、意気消沈なのが海軍の一部だった。ごく少数の馬鹿が決起に参加したせいで、またも政治的発言力が低下してしまった。
成功していればワンチャンあっただろうけど、現在進行形で開催されている第二次ロンドン海軍軍縮会議に、唯々諾々するしか生き残る術が残されていなかった。
だから海軍拡張など夢のまた夢。仮に沢山予算をもらえたとしても、一番使いたいところに使えない。だから、今年の予算編成にあまり興味を持ってなかった。巨大戦艦の計画書が破り捨てられたという噂も聞いた。
対する陸軍は、海軍の比ではないくらいに「やらかした」ので、こちらも政府に従う姿勢を見せている。
一度武力を見せたので脅せばいいという馬鹿も少なくはないけど、そういう輩は現在進行形で進んでいる粛清の列にお前も同類だと並ばされている。
粛清人事の実務をしている梅津美治郎は有能で、マジで容赦ないらしい。
そして陸軍内は、精神主義的な一派が粛清により消えつつあるので、総力戦体制構築を目指す最大派閥の保守派と急進派の対立へと急速にシフトしつつある。
そして陸軍の大半の意見でもある保守派が圧倒的に優勢で、保守派は政府、内閣と連携する動きを見せているため、この年の予算編成は比較的平穏だった。
「何が起きようとも、本年度もやって参りましたって感じね」
「国も軍隊も、金の使い道が決まらないと何も出来んからな」
そんな言葉と共に、鳳の中枢でもお金と一応軍事に関わる人達が、三月半ばの日曜に顔を突き合わせている。
私とお父様な祖父、それに時田は鉄板だ。それに善吉大叔父さん、お兄様、セバスチャンに貪狼司令。
部屋の隅には、オブザーバー的にハルトさん、マイさん夫婦、それにお芳ちゃんとエドワードもいる。去年顔を出していた虎三郎は、今年はいつも通り欠席だ。
さらに龍一くん、玄太郎くん、虎士郎くんもいる。瑤子ちゃんは、年齢的には一応参加資格は満たしたけど辞退している。
あとは、いつものように家令の芳賀やシズたちメイドの一部も、扉の辺りに控えている。
そんな中で、お兄様は少しお疲れ気味だ。青年将校達の仕出かした事の後始末と、それに乗ろうとした連中の粛清で、3月前半は目が回るほどの忙しさだったから無理もない。今日も、席を外して休ませようとしたけど、自分に厳しい人だからこうして顔を出している。
もっとも来年度予算は、世相と違って穏やかなものだ。クーデター未遂も、軍部台頭、政治への口出しも防ぐ形になっているから、影響は受けていない。
ただし予断は許さない。私の前世の歴史でも、この後の組閣と干渉でひどい予算が来年度組まれる事になる。1937年の夏に大陸との全面戦争による戦時予算が組まれるから目立ってないけど、読んだ記録を思い出す限り、一部の視野の狭い軍人達以外は誰も褒めてなかった。
それはともかく、この世界での来年度予算は去年の未曾有の好景気の影響もあって税収マシマシで、高橋是清の望んだ通りの国債発行を絞った状態でも大幅な予算増となった。
お父様な祖父も、現状での概算資料を見て、軽く目を見開く。
「ついに40億円の大台か。一昔前の二倍だな」
「1935年度は、経済成長率も20%を記録しそうですからな」
「そんなにいったか」
「はい。国内では、建設景気を中心とした大幅な経済の拡大が、一つの頂点に達しつつあります。また、張作霖の中華民国政府への武器輸出は伸びる一方です」
「他国相手なら、武器は売れば売るだけ儲けになるからな。ボロい商売だ」
「けど、中華民国ってお金ないから、借款と資源での支払いが多いから、あんまり嬉しくないんだけど」
「国債刷って武器を並べて軍人どもが喜ぶより、余程良いじゃないか」
「それには全面的に同意」
あんまりな言い方だけど、思わず小さく両手を上げて降参のポーズで返してしまう。
「武器やトラックなどは、満州の臨時政府にも幾らでも売れている形になりますので、作れば作るほど売れる状況です」
「英米は睨んできてない?」
「満州はともかく、張作霖向けは英米どちらも同じように潤っておりますので、極端に苦情を言って来る事は御座いませんな。起きているのは商売争いだけです」
「それは何より。独り占めは良くないものね」
「その独り占めですが」
時田に変わり貪狼司令が、アニメか漫画ならメガネをキラリと光らせる感じで発言してきた。
それをお父様な祖父が促す。
「蒋介石か?」
「はい。ドイツとの合作、まあ協商連合的な関係ですが、蒋介石が広州政府とも実質的に連帯しはじめておりますので、こちらも手が伸びている様子」
「そうか。だが、今は国内の予算編成だ。大陸情勢は後で聞こう」
「ハッ」短く答えて引き下がったけど、貪狼司令が少し強引に話を持ち出したって事は、シャレにならない事態になりつつあるって証拠だろう。
(国共合作とか支那事変ってやつは、マジ勘弁して欲しいのになあ)
悪い前触れに、内心ため息が出る。そんな私を放っておいて、話は本年度予算へ。善吉大叔父さんが、少しわざとらしく明るめの声を出す。
「国債を少なくしてもこれだけの予算を組めるのなら、来年度も各所に予算が回る。来年度も好景気が続きそうだね」
「だが、陸海軍というより陸軍の急進派を抑える為に、本年度も陸海軍予算枠は前年度より1%、全体からの枠を増やさざるを得ませんでした」
「それでもこの額だよ。それに軍需も、工業部門には十分な経済効果がある。法外な国債増額をしない限り、有益だよ。それに概算要求で陸海軍合わせて4割を求めてきたのを、押さえ込んだんだろ。たいしたもんだよ。ご苦労さん」
「そう言って頂けると、俺達も報われます」
お兄様はやはりお疲れなのか、話す言葉も少しネガティブだ。それを善吉大叔父さんがフォローしたけど、こういうところは経営者らしい。それに素早いフォローだから、私が何かを言うまでもなかった。
だから私は、別の方へと顔ごと向ける。
「海軍が陸軍と歩調を合わせて予算増額を求めたのって、やっぱり海軍の艦隊派が軍縮条約破棄を狙っていたから?」
「当然だろうな。新しい軍備計画はもう1年先だが、軍艦を作るのには金がかかるから、幾らでも欲しがるだろう。贅沢な連中だ」
私の質問に対するお父様な祖父は、相変わらず手厳しい。お兄様も苦笑気味だけど、これは陸海軍の軋轢というか違いのせいだ。
陸軍予算は、頭数が多いだけに人件費とか運営費で多くが消えるから、装備に金がかけられない。
一方の海軍は、軍艦など装備がないと話にならないから、どうしても軍艦にお金をかける。しかも駆逐艦1隻でも、陸軍の兵器と比べると法外な値段になる。
だから陸軍はなかなか装備の更新が出来ず、年々装備を更新する海軍へ妬みや嫉妬に近い感情を持ってしまう。それが理不尽だと分かっていても、文句の一つも言いたくなるそうだ。
陸軍を辞めたお父様な祖父ですらそうなんだから、相当根が深いんだろう。
「けど海軍は、軍縮会議でまた足かせが付くじゃない。それに比べて陸軍は、近代化計画が進んでいるんだから、均衡は取れるんじゃないの?」
「来年度も、予算は海軍の方が多いぞ。どうも、軍縮条約がもう少し緩くなる事に期待をかけているらしい。それが無理な場合は、航空隊を増やす気だ。やっぱり贅沢じゃないか」
「はいはい。それより、自分だけ見てないで金額見せてよ」
「はいよ」
軽く投げるように手渡された紙面を覗き込むと、簡潔にまとめられていた。
1935年度は、経済成長率も20%を記録しそう:
史実では33年、34年が成長率の高かった時期になるが、この世界だと軍備に金を回す必要も小さく、建設景気が高度経済成長期に匹敵し、設備投資も非常に旺盛。それらに引っ張られて、各種産業も拡大している。
さらに鳳が投資した巨大な設備投資がフル稼働し出すので、タガが外れたような状態。
この景気が数年続いたら、そのあとはかなり大変な事になる可能性が十分にある。
ただし、その数年後には、ほぼ確実に野放図な軍拡、戦時財政が待っている。




