461 「二・二六事件(11)」
午前7時には、早くも陸軍大臣の名で、いくつかの命令が発せられた。多くは永田軍務局長が話した内容であり、主に東京近隣からの部隊の動員だった。
時をほぼ同じくして、宮中からは辛くも窮地を脱した鈴木侍従長、斎藤内大臣が、陛下の御意志を発表。あまりに厳しい内容に、殆どの者が息を飲んだという。
決起部隊以外にも、陛下の意思を曲げるような行動をとった者は、決起部隊と同列に扱うという内容だったからだ。
この為、これを機会に天皇親政に向けた自分達に都合の良い政府を作ろうとした者達、また別に急進的な全体主義的な軍部独裁政権を作り、急速な軍備拡張を図ろうとしていた者達は先手を打たれた形になり、表立って何も言えなくなった。
他に、陛下に決起部隊の『行いの正しさ』を直接訴えようとした者もいたが、宮城警護の近衛師団と、九死に一生を得た陛下の近臣らに阻まれ、何も伝える事は出来なかった。
しかも陛下は、鎮圧に時間がかかる場合は、朕自ら近衛師団を率いて乱を鎮定するという御意思までが示された。
ただし即時ではなく、一日の猶予も伝えていた。
一方では、断固たる態度で当たるように求めた。この厳しい態度は、陛下の「暴徒」という言葉で端的に示されていた。
陛下の御意思は「速ニ暴徒ヲ鎮圧セヨ」という端的な一言によって、強く人々に刻み込まれた。
自分達だけでなく、何も知らない兵を勝手に動かした事、事なきを得たとはいえ自身の信頼する重臣を襲った事、この二つが強い怒りの主な原因だった。
しかも決起した者達の要望の内容の一部も、直に訴えに来た本庄侍従武官長によって伝えられ、この内容も陛下を強く怒らせた。
そして陛下が断固たる意思が示されていたので、陸軍から奉勅命令が直ちに上奏され、陛下は即座に裁可した。
その内容は、決起部隊に占拠を解除し兵を解散して原隊復帰を促す内容だった。そしてそれだけなら穏便だったのだが、24時間以内に行われない場合は、断固たる態度を以って当たると追記されていた。
この時点で、ほぼ状況は決まったと言ってよかった。多くの者が朝になって登庁した時点で、実質的に身動きできなくなっていたのだ。
そしてさらに決意を示すべく、午後0時、正午に早くも戒厳令が布告された。その区域は、首相官邸の南部、西部地域の一部区画限定で、当然だが戦闘が起きる可能性のある場所だった。
なお、陸軍首脳がこれほど短時間で断固たる姿勢を見せたのは、陛下の強い意思だけではない。
決起が事前に漏洩したとしか考えられない、近衛師団と一部将校の動きを警戒した為だった。
つまりは、決起部隊との関わりを少しでも見せたら、自分達の軍人生命に関わると考えたのだ。
さらに戦闘に対するハードルを下げたのは、既に相手側の強引な行動で陸軍同士が戦闘に及んだ為と、戦闘予測地域がギリギリではあるが政治の中枢から外れているからだった。
「それで、陛下への参内は?」
「駄目だ。決起部隊への大赦を願い出るどころか、暴徒を鎮圧するお話し以外はお聞きにならないとの事だ」
軍の施設の一角で、将軍達が顔を突き合わせていた。話している内容が示すように、青年将校に同情的もしくは同じ考えを持つ者達。更に言えば、一部で言われる精神主義者達だ。
それとも、状況を利用しようとしていた者達というべきかもしれない。
「他の動きは?」
「一夕会は割れそうだ」
「永田と小畑か。だが、小畑らの方が圧倒的に劣勢だろう」
「うむ。小畑らは急進派だ。場合によっては我々と手が組めると思ったが、その手も振り払った。高度国防国家、総力戦体制の構築自体は、両者にとっての共通のお題目だからな」
「それなら、軍がもっと力を持たないといけない事くらい、赤子でも分かる事だろう」
「ここ数年の好景気と、支那での事実上の内戦に向けた動きが続く限り、漸進派は問題ないという姿勢だ」
「そんな事、今更言うまでもないだろう」
「待て、続きがある」
「何かあるのかね?」
「あ、はい。永田らは露助に関して、何か重要な情報を得ているらしく。今までは、それで小畑らを懐柔していたようです」
「情報? 聞いてないぞ」
「モスクワの駐在武官が、永田、というかその子分の鳳の子飼いと言われる辻です」
「あの男か。だから永田らにしか情報を回してないのか。陸軍全体に対する背信ではないか」
「そうでもありません。確証がないなどの理由で誤魔化しています。ですが何かあるようです」
「まあ、その辺は後でもいい。今は、現状をどうするかだ」
「そうだな。だが、あの連中が重臣を一人も殺せていない時点で、失敗も同然だろう。侍従武官長の本庄すら、陛下にまともに会ってもらえんのだぞ」
「だが近衛首相は、かなりの重傷という話だ」
「あんな毛並みと見栄えの良いだけの風見鶏、替わりはどこにでもいる。問題は陛下の周りだ」
「だが、近衛首相が重傷なのは問題だぞ。臨時総理は、またも宇垣だろう。それに、次の総理もいよいよ宇垣しかいないぞ」
「西園寺が認めるか?」
「暫定的には認めるだろう」
「選挙で民意を問えくらい言うのではないか?」
「選挙をしても、好景気だから政友会の圧勝だろう。しかも宇垣と永田は、今は繋がっている。腰の弱い川島陸相も、これで永田の言いなりだ。古荘もあてにならん。参謀本部の杉山も宇垣の子分だし、石原は永田の派閥。しかも殿下は、今回の一件にお怒りだ」
「教育総監は?」
「渡辺さんは、自由主義的な教養人だ。決起や維新など認める筈がない。しかも今、次長、次官も加えて全員で確認する会議を、閑院宮邸でされている」
「つまり陸軍三長官が決起に反対か」
「はい。会議には、永田も出席しています。ですから今回の一件で、永田らは対立する派閥を徹底的にパージしてくるでしょう」
「防ぐ手立ては?」
「好景気の腰を折るような軍の暴挙、とでも煽って選挙戦をされたら、徹底した軍事クーデターでもしない限り何も出来ません。事を起こした連中の口を徹底的に封じ、永田らに我々への言質を取らせないようするのが精一杯かと」
「小畑らに矛先を向けるのは?」
「それは彼ら次第です。軍の権限を強めようとする動きを示す前に、永田らが釘を刺してきました。派手に動けば、どうなるかを想像できない筈ないでしょう。今回の件では、既に小畑らも負けです」
「海軍は?」
「軍縮会議で徹底的に政府に折れる事で、今回馬鹿な連中を出したお咎めを回避する気のようです」
「これで都合3回目だからな。これ以上、上の首が飛んだら、組織が維持できんのだろう」
「はい。ただ、決起した連中はもちろん、我々との連携がないのを見せる為でもあるようです」
「責任を全て我々になすり付けるつもりか!」
「それもあります。ですが我々との距離を開けるのは、決起部隊が鈴木と斎藤を襲ったのを、かなり怒っているからのようです」
「コソコソと逃げたから、死んでないではないか」
「ですが、襲われたのは事実です。しかも決起部隊は、海軍の大重鎮達を奸臣扱いですからね」
「分かった、分かった。それで、海軍の今後の動きは?」
「やはり永田らと手を組むようです。どうせ連中は、今している軍縮会議が決まれば、大軍拡など夢物語です。仮に小畑らの軍拡を実行されても、念願の新造戦艦が作れないんじゃあ、ありがた迷惑でしょう。決起部隊や、我々の動きについても同様です」
「それで、小さな軍隊で満足するのか?」
「そこで永田らと妥協しつつ、予算は陸海均等に確保して航空戦力の拡充を図るという話が出てきています」
「そうか。海軍とは手が組めないのだな。では、政治家どもは? 特に民政党は、すぐに選挙なら手を組めるのではないか?」
「挙国一致内閣の線ですか? 厳しいでしょう。政友会以上に、軍部への批判が強い政党です」
「フンッ! 政治家など、またクーデターを起こすぞと脅せば、いくらでも言うことを聞くだろう」
「どうでしょうか。今回陛下は、これほどお怒りになられました。クーデターをしようという者は激減するでしょう」
「軍事予算をまた大きく減らしてきてもか?」
「それはないのではと予測しています」
「何故だ? それが宇垣と永田の戦略か?」
「はい。勿論それもありますが、欧州情勢は緊迫化の度合いを強めているからです。それに露助の軍備増強も急速です。正確な情報を国民に示すことで予算を獲得するという戦略を、既に今回の予算審議で強く押してきています」
「もし今回のクーデターを予測しての行動だとすると、連中こそが黒幕のようだな」
「流石にそれはないでしょうが、連中も今回の一件を利用するのは間違いないかと」
「つまりは、誰もが今回の決起を利用するが、最大派閥で先手を打つことにも成功した宇垣と永田の勝ちという事か……」
結論とも言える言葉を重鎮の一人が口にすると、誰もがそれ以上強く言う事は出来なかった。




