459 「二・二六事件(9)」
「近衛首相はどこだっ!」
「探せっ! 抵抗する奴は容赦するな。だが、近衛首相以外の逃げる者は追う必要はない。近衛首相だけを捕らえ、俺達の前に連れてこい!」
栗原安秀中尉と磯部浅一中尉は、共にトラックで突入した約30名のうち3分2ほどの兵士と共に、首相官邸内を足早に移動しつつ、目的の場所を目指す。
そこは官邸の南西に隣接する、首相が寝起きする公邸だ。公邸は官邸と廊下で繋がれているし、官邸から入るルートしか分からないので官邸から入るしか無かった。
続く兵士達も、官邸内を探しつつも同じ方向を目指す。そして足早に移動しないといけないほど、首相官邸は広かった。主要な部分だけで延べ床面積は約1570坪もあり、探すだけで時間がかかる。
そして目的の公邸も500坪もある広さなので、尚更急がないといけなかった。
そして突入した栗原、磯部らは、徐々に焦りを強くした。
何よりまず、官邸内に人の気配が薄かった。公邸に入っても、近衛首相どころか女中や使用人の影もない。既に退避したと考えるのが妥当だった。
しかも官邸、公邸共に、中には兵士も警官もいなかった。兵士は官邸建物の外に多数いたので、そこで阻止できると考えていたのだろう。
そしてその外にいる者達は、玄関で10名ほどが死守している上に、一部が炎上しているので入っては来れない。
だが、屋外さらには敷地外の兵士達がすぐにも駆けつけるだろうから、事は急がないといけなかった。
「探せっ! 徹底的に探せっ!」
「急げよ! 正面玄関は長くは保たん!」
そう言って探させるも、やはり公邸は無人だった。人が潜めそうな押入れなども分かる限り開いてみたが、ネズミ一匹いなかった。
そうして数分すると「玄関前に兵士多数。周囲も包囲されています。長くは保ちません!」という、伝令の悲鳴に似た報告。
言葉を証明するように、官邸の方から響いてくる銃声はさっきより大きく、多くなっている気がした。
そんな状況を前にして男達は悟った。
「どうする? 臆病者の近衛は、早々に逃げたと見て間違いなさそうだ」
「ああ。賭けに負けたと言うことだ。俺達はこれまでだな。白旗でも掲げるか?」
「そうだな。俺達に出来ることは、これ以上この場の兵士達に犠牲を出さないことだろう。あとは軍法会議で、我らの決起理由を訴えるだけだ」
「うん。残念だが我々には運が無かった。この場は、これまでだな」
「だが我々の意志は、残った村中大尉、香田大尉らが果たしてくれるだろう」
「ああ。籠城して要望、特に蹶起趣意書が陛下の元に届けば、あとは万事上手くいく筈だ」
そうして莞爾として笑い、握手を交わす。
しかし磯部は言葉を続けた。
「だが俺だけは、国が変わるのを見届けるまでは、一人になっても戦いたい。お前達が降伏する隙を突いて、村中大尉らに合流させてもらうぞ」
「無茶だ。建物と官邸敷地の二重に包囲されていると見るのが妥当だ。とてもホテルの方への脱出は出来んぞ。命を無駄に散らすな」
「いや、何とか脱出し、今回の決起の全てが駄目だったとしても、大陸に落ち延びてでも俺は事を成就させてみせる!」
そこからは、栗原が磯部を説得する形ではあるが半ば口論になった。しかし長々と話をしている時間は無かった。
「好きにしろ。だが兵はこれ以上巻き込めない。俺はこの場の責任者として降伏を選び、軍法会議の場で訴え申し上げる」
「済まんな」
言葉短いが、その言葉と共に再び右手を差し出す。それに栗原も応えて固く握手を交わした。
そしてそれを解くと、「さっさと行け」「おう。さらばだ」と短く言葉を交わすと、磯部はその場から消えた。彼が向かったのは、非常避難口の方向だった。
そしてそれを見送ると、栗原は独白する。
「さて、降伏交渉で人目を引いておいてやるか」
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「中橋はどうした?」
「隣のビルの様子を見に行って、それきりです」
鳳ホテルのロビーに陣取る香田清貞大尉は、孤立感を深めていた。
主な者達は、どこかに行っていた。そして歩兵第1旅団副官の彼には、現在の役職で直接指揮していた兵力がなかった。ホテルとその周辺にいる兵達は、参加者の他の下級将校が率いる部隊だ。
海軍の参加者も、海軍側の首謀者と言える藤井は首相官邸突入に参加して、この場にはいない。海軍の他の将校が数名合流してホテルロビーに居たが、いるだけだった。
ただ彼は、決起に直接参加した青年将校の中で、村中と同じく一番の年長者だった。そして指揮する兵を持たない事もあり、決起に際する要望を陸相に伝えるなど、交渉役を担当する予定だった。
だが現状は、決起部隊の大半を指揮する立場になっていた。そして全てを行わないといけないので、身動きが取れなくなっていた。
もっとも、彼は何もしていないわけではない。
首相襲撃が失敗し、決起の要望を伝えられなかった場合に備えて、陸軍省の同志を通じて陸相などへの接触を図る使いを出していた。
事が起きて1時間以上経っているので、慌てて駆けつけている者達も多い筈だから、接触できる可能性は高いと考えていた。
ただし、当初の予定のように兵を背景にした威圧に近い事はもはや望めないので、何故決起したのかのあたりを重点的に伝えるつもりでいた。
そして彼の一手が、どうやら必要と思われる報告が舞い込んできた。
「伝令。首相官邸に突入した者達が、降伏した模様。目的を達成したかは不明。以上」
「ご苦労。では、こちらも兵を下がらせろ。それと、鳳ビルに使いを出して、状況を聞いてこい」
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「石原さん、お早いですね」
「電話で叩き起こされた。鳳は徹夜か?」
「早めに仮眠は取りました」
「万事抜かり無しか。俺への連絡も、俺のツテより早かったしな。全部あの嬢ちゃんの夢見の通りというわけだな。空恐ろしい限りだ」
「色々と違ってはいますけどね」
空が少し明るくなり始めた陸相邸の前で、石原莞爾大佐と鳳龍也少佐が出くわした。鳳少佐は陸軍省の方から歩いてきたので、家から慌てて来た石原大佐にも彼が最初から陸相邸にいたとすぐに分かった。
「それで現状は?」
「こちらに」
少し手招きしつつ、人の輪から遠ざかる。さらに、鳳少佐が連れて来た将校数名が垣根を作る。
内緒話というわけだ。
「決起軍は、概算で約1000名。鳳ホテルから建設中の議事堂裏手、北西側の神社の辺り一帯を占拠。鳳ホテルに仮の本陣を置いている模様です。また、道中にある財閥の邸宅が襲撃を受けました」
「フンッ、お前の実家はいい迷惑だな。被害は?」
「うちの屋敷の方は、番犬達が追い返したと連絡がありました。三菱の鳥居坂の屋敷も。ですが、三井の今井邸がやられ、未確認ですが被害が出ています」
「遠くに見えた火事は三井か。停電もか?」
「財閥と変電所襲撃は恐らく海軍と市井の者の仕業で、警察が追っています。陸軍の青年将校達は、一直線に中央を目指したようです」
「その割には手際が悪いな。赤坂見附で妙な道路工事をしていたが、あれも原因か?」
そこで鳳少佐が、人の悪い笑みを小さく浮かべる。だから石原も、それだけでおおよそを察した。
「お察しの通り、六本木辺りからこの辺りを重点的に、昨夜から大規模な道路工事が各所で行われております」
「やはり鳳財閥の仕業だったか。まあ、何がどうなるかが事前に分かっていれば、邪魔をするのも簡単だな。それにしても、馬鹿どもは釈迦の掌の上とは、滑稽を通り越えて哀れだな」
「そうでもありません。首相官邸が、決死隊の襲撃を受けて半壊しました。守備していた兵にも損害が出ています」
「陸軍同士が戦ったのか。思っていたより大事だな」
「はい。彼らを追い詰めすぎたのかもしれません。それと、これはまだ内密に願いますが」
「誰かやられたか」
「重臣方は、間一髪も含めて事前の退避には成功しました。ですが、事件当初近衛総理が、守備兵が先に到着するのなら自分は動くべきではないとおっしゃられ」
「そして自らの城と運命を共にしたのか? お公家様にしては、なかなかに武人じゃないか」
石原が、そんな言葉に皮肉な笑みを加える。
「だったらまだ様になったのですが」
「違うのか? では、襲撃を受けて慌てて逃げようとして、背中を見せたところをズドンといったあたりか?」
「いえ。彼らが襲撃する数分前に、陛下にご報告申し上げるとおっしゃられ、宮城への移動を行おうとされました。そして車が官邸を出た直後に襲撃を受け、折悪く突進して来た決起部隊のトラックと衝突。さらに、護衛の装甲車とトラックに乗っていた車が挟まれました」
「逃げ出したはいいが、ペシャンコか。間抜けな話だが、流石に哀れだな」
そういって両手を合わせる。しかし鳳少佐は、両手の平を胸の前に出して否定した。
「乗っていたのが丈夫な防弾車で、ペシャンコとはいきませんでしたよ。重傷を負われましたが、ご存命です。負傷の程度は不明ですが、既に病院に緊急搬送されましたので、あとはあの方の運次第でしょう」
「フンッ。運もクソもないだろ。そんな間の悪い襲撃を受けて。俺だったら、仮に生き残っても二度と人前になど出たくないぞ」
「かもしれません」
そう言って鳳少佐も苦笑を浮かべた。それに石原大佐も皮肉げな笑みで返したが、すぐに表情を変える。
「さて、雑談はここまでだ。客人が来たぞ」
その言葉に鳳少佐が体ごと視線を向けると、急誂えであろう白旗を持った軍使が、議事堂裏手の方から歩いて来るところだった。
首相官邸(総理官邸):
旧首相官邸。昭和4(1929)年竣工。主要部分は鉄筋コンクリート2階建て、本館延べ面積は約1568坪。フランク・ロイド・ライトの影響を受けた、ライト風の建築物。
公邸:
総理の住まいの方。官邸は執務を行う場所。
官邸の南西にあり、広さは平屋造り508平方メートル。
すでに取り壊されて現存しない。
その跡地と言える場所には、旧官邸を南に曳家。改修後に、公邸としている。
蹶起趣意書:
反乱部隊は蹶起した理由をまとめたもの。
この世界での内容は、史実と若干違っている事になる。
石原莞爾:
この頃は、史実通りだと参謀本部作戦課長。
鳳龍也は、少佐で陸軍省軍務局課員。軍務局長の永田鉄山の実質的な副官ポジの想定。




