455 「二・二六事件(5)」
ちょい長めです。
「なぜ、陸軍が出動している?!」
「あれは近衛師団だったぞ!」
「誰の命令で動いている?」
「警察に察知されていたのか?!」
「警察の言葉で、近衛が動くわけないだろ!」
「いや、警察の今の親玉は宇垣だ。あいつが何かしたに決まっている!」
「くそっ! なんてことだ!」
「怒鳴るな。それで、どうする?」
「今すぐに決めないとな」
「昭和維新完遂の為には、何としても首相だけは殺害せねばならない!」
大きく豪華なホールに、男たちの声が響く。
場所は、鳳ホテルのホテルロビーとエントランスホールを兼ねた、吹き抜けの大きく豪華な雰囲気の空間。そこに決起した青年将校達が、集まれるだけ集まっていた。
何しろ、目的の首相官邸の襲撃、警視庁の制圧、さらには周辺一帯の占拠、その全てが不可能な状況になっていた。
鳳ホテルを通って首相官邸の北側に出た兵士達も、既に近衛師団の兵士が展開しつつある為、前進する前に伝令で指示を仰ぎ、前進を止められていた。
そしてその兵士達を加えて、鳳ツインビル、通称鳳御殿の一帯だけ占拠された形になっていた。
他に占拠した地区は、半ば兵士を待機させる場所として、ホテル北側の神社など赤坂見附に至る辺りまでになる。ただし赤坂見附の交差点辺りは、閑院宮邸を含む為、これも全域の占拠とはならない。
その代わり、近衛師団の展開前だったホテル北東の議事堂建設で空き地状態の場所も占拠していた。
年内完成予定の議事堂とドイツ大使館が、陸軍諸施設近辺の近衛師団との緩衝地帯になっていた。
そして要所に機関銃を配置したので、近衛師団と警察は容易に接近してこない筈だった。
しかし、予定していた首相官邸、陸軍諸施設、警視庁、それに日比谷公園に近い官庁街は占拠出来ないでいた。
官庁街のすぐ隣の地区を占拠したが、政治的にはほぼ意味のない場所を占領している事になる。そしてそんな場所の臨時司令部に、鳳ホテルの玄関ロビーが使われていた。
そこに各隊を率いた栗原中尉、村中大尉、中橋中尉が集まっていた。他にも数名の将校がいるが、中心メンバーは彼らだった。
他に実戦部隊を率いていない中心メンバーとなると、磯部中尉、香田清貞大尉、丹生誠忠中尉が陸相官邸を目指していたが、兵達と共に合流していた。
時間は夜明け前の5時半頃。日の出まで、まだ1時間近くあった。
最初の奇襲に失敗し、警察が最初から動いており、しかも近衛師団が出て来た以上、あとは強襲しかなく意見が統一できないでいた。
そうして誰もがどうするべきかを考えていると、ロビーの奥から近づいてくる人の姿。気づいた者が視線を向けると、西洋風の女給だった。
近づいてくるのはその女給一人だが、ロビーの奥の方では数名のホテルの従業員と思われる男女が控えている。
その女給の無駄のない綺麗な歩き姿に、将校達がなんとなく声をかけられずにいると、数メートル手前で立ち止まり優雅に一礼する。
「皆様、ご苦労様に御座います。お話中のところ大変失礼かと存じますが、今朝は雪で非常にお寒う御座います。そこで、熱いお茶をご用意させて頂きました。如何でございましょうか」
「……何のつもりだ?」
「どのような方であれ、ホテルを訪れた方をもてなすのが、当ホテルの誇りに御座います」
「フン。大方、一服盛るつもりだろう」
「そういう言い方はよせ。女給さん、今、我々は大義の為に動いている。そして時間がない。せっかくの申し出だが、断らせて頂きたい」
そう返した将校に女給はしばらく目を向けるが、数秒して深々と一礼する。
「これは大変失礼を致しました。それでは、我々の服務に関わるご用が御座いましたら、お呼びくださいませ」
それだけ告げると、最後にもう一度優雅に一礼してから立ち去って行った。
そうしてその綺麗に歩く姿を全員で何となく追っていると、気分転換になり場の空気が変わった。
誰かが小さく咳払いをする。
「それにしても全て失敗とはな。どこで情報が漏れた?」
「そんな詮索は後だ。今はどうするかだ」
「だから近衛首相を襲う!」
「この状況で、首相官邸に残っていると思うか? 常識的に考えたら、既に俺達の手の届かない場所に逃げているだろう」
「だが、首相官邸には大勢の兵士がいる。まだ中にいるかもしれないだろう」
「あれは、体面もあるから官邸自体を守備しているだけだろう」
「……近衛文麿は、首相官邸から逃げ出すと思うか? 俺は残っているように思うんだが」
主に二人が議論していたが、別の誰かの言葉に全員が注目する。磯部中尉だった。
「根拠は?」
「公爵で、公家の中の公家の当主だ。矜持なり誇りは、人一倍高いんじゃないか? そういう噂もあっただろ。それに逃げたら、赤っ恥だ。生き残っても総辞職確定だろ」
「根拠がそれだけでは薄すぎる」
「俺は逆に、近衛はすぐ逃げる奴だという噂を聞いたぞ」
「ではどうする? このまま何も出来ないまま降伏するのか? 逃げるのか?」
全員が言葉に詰まる。だがすぐに、話の軌道変更を図る将校がでた。こういうところは、決起しようが組織人らしいというべきかもしれない。
「……なあ、このホテルの主人達はどうした? 捕らえたのか?」
その言葉に、誰かが首を横に振る。
「全部ではないが部屋を調べて回った限りでは、鳳の一族どころか使用人すら残っていない。いるのは、一般客とホテル従業員だけだ」
「では、宴会をして泊まっていたという情報も、嘘だったと? だとしたら、何故そんな事をする?」
「屋敷を襲われないように、偽情報を俺達に掴ませたのでは? 我々が襲撃対象から外した事は知らないだろう」
「だが屋敷の方は、こっちが何も知らせなかったからか、海軍の奴らが襲っている。そういえば、奴らはどうした?」
「そんな事は今はいい。それで、首相官邸を襲うにしてもどうする。皇軍相撃つ状況だぞ。貴様らは受け入れられるのか?」
「……」
その言葉に再び全員が沈黙したが、一人だけが異を唱えた。またも磯部中尉だった。
「俺はやる。既に決起した以上、出来る限りの事をするべきだ。兵達には申し訳ないが、俺は事後ただちに自決するので、それで許してもらう」
その言葉に多くの者が心を揺らされたが、今度は村中大尉が口を開く。
「この辺りの占領をもっと固くしないか? その上で持久戦に持ち込んで、こちらの要求を広く表明して陛下のご判断を仰ぐのだ。陛下に我々の声が届けば、それで目的は最低限達成される。違うか?」
そう、彼らの考えならば、陛下なら自分達の事を、自分達の求める事を理解し実行してくれる筈だからだ。
そしてさらに村中大尉は言葉を重ねる。
「幸いと言っては難だが、首相も重臣も殺害していない。我々は、決起し攻め上がっただけだ。そこで決起の目的を、要望を申し上げ受け入れて頂く為の行動だった、とするんだ。要は直訴だな。
今は奸臣どもが陛下に間違った情報だけを伝えているが、奸臣を誅せずとも、これだけの事を起こせば陛下のお耳にも真実が届く筈だ」
もう首相官邸襲撃は現実的ではないから、路線変更をしようという提案だった。そして急場の変更にしてはそれなりに筋も通っているように思えたので、幾人かが賛意を示す。
もちろん、否定的な者もいる。発言したのは、中間的な発言者だった。
「持久戦と言っても、相手は恐らく現状だけで丸々2個連隊だ。それに、直ぐにも各地から応援が来るぞ」
「だから、隣のビルを占拠する。あれほど頑丈そうな建物はそうそうない。それに少し見たが、まるで砦だ。籠城するにはこんな華美なだけのホテルより、余程頼りになる」
「だが、全ての兵を収容できないだろう」
「だから本丸にする。占拠している場所も、もう少し狭めて守りやすくする」
「なるほどな。俺も首相襲撃は断念して、籠城だけでいいんじゃないかと思う。貴様らは?」
村中大尉の方が現実的なので、全体の雰囲気がそちらに傾きそうになりつつあった。
その時、外にトラックが停車する音が響いてきた。
ここまで入ってこられるという事は、同志が運用するトラックという事だ。そして既に陸軍の決起部隊が運用するトラックは、別の場所で停車しているので、新たにこの場に停まるトラックがあるとしたら、海軍の決起した将校達か市井の決起隊という事だった。
そして誰が到着したのかは、すぐに分かった。
「状況は!」
威勢良く駆け込んできたのは、海軍側の中心人物の藤井斉元大尉だった。声もそうだが、雰囲気、態度、何より目が興奮していた。既に血を浴びた人間特有の状態だ。
ただし彼は、以前の行いの結果すでに海軍を追われているから、スーツにコート姿だった。
そんな藤井に対して、顔を突き合わせていた陸軍将校達のうち村中が問いかける。
「そちらは?」
「三井の団琢磨を殺った!」
「本当か!? 他には」
「残念ながら、三菱邸も鳳邸も待ち伏せされた」
「待ち伏せ?」
「ああ、そうだ。屋敷に近寄っただけで、中で犬が吠え出し警備員が動き出した。それでも停電に合わせてこちらが動こうとしたら、どこからか銃撃された。陸軍か警察か、それとも警備かは分からんがな」
「屋敷内は警戒していただけで、陸軍か警察が銃撃してきたのか駆けつけただけじゃないのか?」
「分からん。だが、多分だが、高層建築の上から弾は飛んできた。駆けつけたのなら無理だろ」
「確かに。では、三井邸もか?」
「いや。俺が自ら襲撃したが、警備らしい奴らこそいたが、待ち伏せは無かった。だから逃げる団琢磨を殺れた」
「三井の他は逃げられたのか?」
「屋敷の一部は燃やしたが、反撃が激しくてそれ以上は無理だった。何人か撃ったが、状況は確認出来なかった。それで、そちらは?」
興奮冷めやらぬ言葉を次々に返してくる藤井に対して、青年将校達は思わず顔を見合わせる。
だが、何も言わないわけにもいかないので、手短に状況を伝えた。
「そうか、そっちも待ち伏せされたか。より重要な場所を固めるのは道理だな」
「……意外に冷静だな」
「ん? そりゃあ、お前らが一月ほど前から夜間演習ばかりしていたら、誰だって警戒するだろ。半月ほど前にも言ったが、俺達は最初から強襲になると考えていた。だからトラックやガソリンを用意したんだ。門を固く閉じた屋敷に押し入るのに、手榴弾はともかく機関銃じゃあ無理だろ。で、どうする?」
興奮していても淡々と言葉を並べる相手に、陸軍将校達は絶句した。決起の際に兵を素早く動かす為の練習が、全て自分達に跳ね返ってきたのだと、仲間から告げられたからだ。
一方では、彼ら以外は東京の中心部を停電に追いやり、既に重要人物を最低でも1名を殺害していた。それ以外にも、大勢を死傷させているのは間違いなかった。後戻りできない状況だという事だった。
そしてさらに、藤井が追い打ちをかける。
「あと、こちらも何名か損害が出た。その場で倒れて収容出来なかった者もいるので、一部は生死不明だ」
「……つまり、生きていたら捕まっているという事か」
「何だ? 仕方ないだろう。強襲となれば、こちらも無傷とはいかない。それで、これからお前らはどうする? 続けるなら、ガソリンを積んだトラックが、まだ2台ある。手を貸すぞ」
藤井の最後の言葉に、磯部が強く反応する。
「それはありがたい! 総力を挙げての首相官邸強襲か、隣の鳳ビルの籠城で意見が割れていた。貴様ら、首相官邸強襲でいいな? こっちの駒はこれ以上増えない。相手は増える一方だ。やるなら今しかない!」
「だが、我々の要望を陛下にお伝えせねば!」
「それなら、近衛首相を襲撃した後に伝えても問題ないだろう。それに籠城すると言っても、俺達に兵糧はない。兵達を付き合わせるのにも限界があるだろう。首相襲撃の後に、陸軍の我々と心通じる方々を通じて要望を陛下にお伝えし、我々はそこで解散だ。あとは真実をお知りになった陛下が、良きようにして下さる」
その言葉の最後は彼らの拠り所に近い為、否定出来る者はいなかった。
女給:
さて、誰でしょう?
本命:シズ
対抗:変装したお嬢様
大穴:主人公が出てこないので、こっそり現世に出て来た体の主
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名前だけ登場の人:
一度しか出てこない人は、そんな人もいたという程度に認識して下さい。『二・二六事件』は、死刑となった者(ほぼ青年将校)だけで18名もいます。
その中で、首魁とされたのが香田清貞、栗原安秀、安藤輝三、村中孝次、磯部浅一。(野中四郎は自決)
連絡方法:
念の為書きますが、史実でのこの事件に際して決起部隊は無線機は持っていない筈です。
史実と同じなら、陸軍の歩兵部隊には無線機が配備され始めたばかりで、第一師団にまで回って来ていない。
この為、伝令を使うか直接自分達が会って話すしか、コミュニケーション手段はありません。
電話を使おうと思えば使えるが、使う馬鹿は流石にいないだろう。




