454 「二・二六事件(4)」
少し時間を遡る事、約30分前。近衛歩兵第3連隊を出立した中橋基明中尉率いる約100名の兵士は、午前5時に高橋元大蔵大臣私邸に到着した。
中橋中尉は、マントの裏地を総緋色で仕立てていたので、当時の陸軍で「近衛師団、中橋の赤マント」を知らぬ者はいなかった。
その人物に率いられた兵士達は、高橋邸到着すぐに一隊が館を包囲しつつ、中橋中尉が先頭に立って正面玄関へと進む。
高橋邸には警官1名が常時警備についているのを知っての行動なので、大胆というべきだろう。
「何者だ!」
「昭和維新を成し遂げるものだ。そこをどけ!」
警備していた警官の制止を銃で脅して黙らせ、その警官の拘束を部下に任せ邸内に土足のまま侵入。次々に部屋の扉や襖を開けて、目標の高橋是清を探した。
探すのは中橋中尉だけでなく、約30名が手分けしたので、ものの数分で邸内を全て探し終えた。
「どういう事だ?」
怯える使用人、そして連れてきた警官を前に、中橋中尉が冷たく問いかける。
「高橋様は、昨日より外出されている」
「聞いてないぞ!」
「既に私人となられた方の行動を公表する筈ないだろ」
圧倒的戦力差のため警官が抵抗を見せなかったものと考えていたが、この短いやり取りで警官が抵抗しなかった理由を悟った。
中橋中尉ら決起した将校達が相手なら、無意味な抵抗をする必要がなかったからだ。
さらに冷たい声で、中橋中尉が口を開く。
「高橋是清はどこにいる? 答えろ」
「存じ上げん」
「そんな筈あるまい。おい、家族と使用人を全員集めろ!」
「無駄だ。誰も教えられていない。ご家族でもだ。昨夜、迎えのタクシーが来て、1、2泊したら戻るとだけしか聞いていない」
「……知っていたのか?」
言葉はそれだけだったが、決起を知っていたのか、という問いかけだと警官は受け取る。
「何かをしでかすかくらい、百もお見通しだ。あれだけ派手に夜間演習ばかりしていたら、何かすると言っているようなものだろ」
「なっ! ……では、今日だという事も知っていたのか!」
「そこまでは知らん。聞いてもいない。だが、一つだけ教えておいてやろう。第1師団の一部が動いたという情報は、20分ほど前に電話で連絡を受けている」
「張ってた者がいたのか!」
「呆れた。監視されている事くらい、お前達も承知しているとばかり思っていた。悪い事は言わん、このまま上官の元に出頭しろ。勝手に兵を動かし武器を持ち出した罪はあるだろうが、今ならそこまで重い罪にはならないだろう」
「警官ごときの指図など受けん!」
そう叫んだところで、引き続き隠し部屋がないかとか、押し入れや屋根裏に隠れていないかと探していた部下達が、中橋中尉の元にやってくる。
「隈無く探しましたが、どこにも見当たりません。いないという点で嘘は言ってないようです」
「クソッ! 撤収する。総員整列後、移動だ」
「ハッ!」
もう警官には興味もないとばかりに、命令を下すとトレードマークの赤マントを翻しつつ、高橋邸内から足早に立ち去っていった。
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決起部隊主力の行動が予想外の事態で遅れたように、斎藤内大臣私邸、鈴木侍従長官邸に向かった者達も、予定より遅れての現地到着となった。
青山と赤坂見附の交差点で、夜間の道路工事に出くわしたのが原因だった。それでも、主力部隊と比べると少ない100名程だった事もあり、予定より10分程度の遅れで目的地に到着した。
しかし、どちらも目的を達する事は出来なかった。
赤坂離宮の四谷側周辺にある斎藤内大臣私邸、宮城側の千鳥が渕にある鈴木侍従長官邸は、高橋是清私邸同様にもぬけの殻。
ただし高橋是清と違って、昨日から外出したままではなかった。両名とも、前日の25日はアメリカ駐日大使のジョセフ・グルーの招待を受けて、その日はそれぞれの邸宅に帰宅していた。
だが、夜明け前の午前4時40分頃に電話を受け、どちらも10分以内に迎えに来た車に詰め込まれて、宮城内へと退避していた。
当人も含め、事前に襲撃を予測した手際の良い動きと言える。
一方、宇垣一成内務大臣官邸、陸軍大臣官邸へと向かった隊は、陸軍省、陸軍参謀本部のすぐ側なせいもあったのか、到着直前に近衛師団が寸前のところで到着し、ほとんど鉢合わせの状態となった。
ただし、決起部隊は徒歩。それに対して近衛師団は、トラックと自動車で現場に到着していた。しかも2両だけだが、最新鋭の重装甲車を先頭にしての現場到着で、鉢合わせの時点で決起部隊を圧倒していた。
これでは決起部隊は、宇垣一成襲撃や陸相への談判どころではなく、退くより他なかった。
先に現場に到着できていれば、施設と人を人質に立てこもる事もできたが、向かう途中で部隊の展開をする前では、100名程度の歩兵に出来る事は無かった。
「磯部中尉!」
「分かっている! 赤坂見附まで転進。東部に展開する主力部隊と合流する。続け!」
「了解っ!」
お互い半ばやけくそ気味に声をかけあい、慌てて転進という名の逃走を開始した。
主力と合流すると言い訳したが、陸軍諸施設と首相官邸は長らく建設中の新たな議事堂を挟んだすぐ近く。そちらにも近衛師団が向かっている事くらいは、容易に想像できた。
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「ここまで来なかったな」
「ええ。賢明な判断だ、と言ってやりたいところですね」
二人の男が、彼らの居る建物の手前で転進、いや逃げていく決起部隊の影を見ていた。そこは陸軍省の建物の中でも、北と西の方角がよく見えた。
男のうち50代の男は中将の階級章を、もう片方の30代にしては見た目の若い男は少佐の階級章を付けていた。
「それで、賢明な彼らは今後どう動くと予測する?」
「決起部隊は、分散して各所を同時に襲撃しました。そして既に固められているか、空振りに終わったのなら、合流を図るでしょう」
「合流してどうする?」
「総数で1000名に達すると予測されます。一箇所に集中すれば、軍事的には十分行動可能でしょう」
「陸軍相撃つ度胸が、あいつらにあると思うか?」
「度胸以前に、彼らの考え通りなら陸軍同士の戦闘は出来ないでしょう。国を乱すのは、彼らの本意ではない筈です」
「本意ね。勝手に兵を動かした時点で、十分国を乱している事を棚上げとはな。私には分からんよ」
「自分も理解しかねます」
「理解できれば、あいつらに合流しているか、一部の連中みたいに、心の中で応援しているんだろうな」
その言葉で50代の男、軍務局長の永田鉄山中将は、声を重くした。それに30代の男、鳳龍也少佐も強く頷く。
「はい。その者たちのリストは、既に出来ております」
「うん。彼らには悪いが、利用させてもらおう。そのリストの連中もそうだが、彼らを利用しようとしている連中も少なくない。これからは時間との勝負だぞ」
「心得ております。ですが」
「なんだ? 珍しく弱気か?」
「いえ。こういう時は、東条さんがいらっしゃれば心強いと思いまして」
「そういえば、満州で憲兵の親玉をしていたか。とりあえず、石原を使え。この為に中央に呼んだわけじゃないが、あいつが適任だろう」
「はい。石原大佐なら、上手くやってくれるでしょう」
「怒らせる、の方が正しいかもしれんな。石原は、頭は切れ過ぎるくらい切れるが、口が悪すぎる。東条は、石原と連中を刺し違えさせればいいとか言っていたしな」
「東条さんと石原大佐は、水と油ですからね」
二人して苦笑し合う。
「まったくだ。だがお前みたいに、何にでも形を変えられる方が珍しいと俺は思うぞ」
「恐縮です。それでは、ここからは鬼となって、後輩達に対峙してくるとしましょう」
「頼んだ」
永田鉄山の言葉に鳳龍也は、機敏に敬礼を決めるとすぐにも行動を開始した。
高橋元大蔵大臣私邸:
史実では、警備していた警官は抵抗したので負傷している。
鈴木貫太郎侍従長の官邸:
現在の戦没者墓苑東門附近に隣接する敷地にあった。
東条英機:
史実と同じなら、この時は関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長。事件後は、満州で皇道派の青年将校狩りに精を出す。




