453 「二・二六事件(3)」
「バシッ!」
足元で何かが弾けるように落ちる音がした。しかし、その近くにいた者達は、驚きこそすれ行動が遅れた。
すると、すぐにも再び同じ音。それでようやく、一人が事態の深刻さに気づいた。
「銃撃だ! 隠れろ!」
「待ち伏せか!」
「どこからだ! 屋敷からか?!」
「分からん。だが、多分違う!」
「大きな声を出すな」
声を上げている間にも、銃弾が着弾する音が定期的と言える頻度で響く。
玄人が見れば、最低でも2つの方角から、しかも斜め上方から撃ち込まれている事に気づいただろう。
「とにかく撤退だ。全員、乗車! ガソリン車はすぐに出ろ!」
そう言って乗ってきたトラックに向かおうとしたが、その目の前で再度の着弾。撃たれた者は、それが何のメッセージかを半ば本能的に悟る事ができた。
しかし気づけない者もいて、トラックに走った者は脚を撃ち抜かれ、大きな悲鳴をあげてその場に倒れる。
「と、トラックに近寄るな! 撃たれるぞ! 物陰に入れ!」
「な、なんだって言うんだ!」
「憲兵か何かが待ち伏せしてたんだ。畜生っ!」
「じゃあ、情報が漏れてたってのか?」
「分からん。だが、陸助の連中は、兵営で夜中に派手に訓練ばかりしてた。あんな事をしてれば、誰だって気付くだろうさ」
「誰か注意しなかったのか」
「言ったさ。だが、訓練をしているだけだと、気にもしてなかった。あいつらは馬鹿だ。やっぱり、つるむんじゃなかった」
「くそっ! 馬鹿のとばっちりを俺たちが受けないといけない理由はない。撤退しよう」
「賛成だ。やってられるか!」
「だ、だが、昭和の維新は?」
「財閥の屋敷ですら、こんな状態だぞ。筒抜けで失敗に決まってる。我々は再起を図る為に行動する。他を襲撃している同志らにも伝えて、撤収だ」
「よ、よう候」
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「こっちに気付きすらしないとはな」
「動きが雑でしたね」
「まったくだ、不甲斐ない。まあ、実戦経験のない兵隊は、こんなものか」
とある建物の上層で、1組の男女が淡々と会話を交わす。だが他に人もいないので、会話を聞かれる恐れはない。
何しろここは、高さ30メートルを超える高層アパートの屋上。しかしそこは、位置を変えればとある二つの場所を見下ろすには、格好のポイントだった。
夜の闇に紛れる黒い服装をした赤毛の女性は、両手に小銃を携えていた。ただし普通の小銃と違い、銃には大きなスコープが取り付けられている。
大柄な男の方も、首から双眼鏡を下げている。どちらも集光率も高めた夜間用の高価なもので、数百メートル先の人の表情を見る事もできる。
そして二人は一仕事終えたので周囲を見渡すと、男の方が遠くを見て苦々しい表情を浮かべる。
「あいつら、対策を立ててなかったのか。自業自得だな」
「あの火災、三井邸でしょうか?」
「恐らくな。それより丙丁班からも合図だ。山崎邸を訪問したお客様方も、土産を置いて帰られたそうだ」
男はすぐに楽しげな笑みに変えるが、女性の方は淡々としていた。
「我々は?」
「下の連中が、証拠物は回収する。我々は鳳御殿の方へ向かうぞ」
「こちらを先に片付ける必要があったとはいえ、出遅れましたね」
「千両役者は一番良い場面で登場するもんだ。行くぞ!」
「イエッサー」
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「成功だっ!」
激しく燃える建物を前に、襲撃者達は喝采をあげていた。しかしそれも束の間。
「突入するぞ。相手は国民を搾取する財閥だ、容赦するな!」
「「オウッ!」」
手に手に拳銃や刀剣などの武器を持った男達が、広大な屋敷のうち燃え上がる大きな建造物の方へと駆け出す。
襲撃を受けたのは、三井財閥の今井町邸。正面門から近い大きな建物の一部が、ガソリンを一杯に詰めたドラム缶を満載したトラックの衝突を受けて激しく燃えていた。ガソリンなので短く、しかし激しく燃える為、衝突された木造の建物は放っておくと全焼してしまうだろう。
そして突然の突入と火災で、邸内は大混乱に陥っていた。
ただ突入した側も、屋敷の敷地内に何があるのかは殆ど何も知らなかった。この為、手近な建物、目についた建物に向かい、人を見つけては目的の人物の所在を脅して聞いて回るしかなかった。
そして、警察と他の財閥から警告を受けていた事もあり、屋敷内には護衛のための家人も多く控えていた。中には拳銃を所持して警備に就いている者もいて、散発的ながら銃撃戦にまで発展していった。
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「報告! 首相官邸前に兵士及び車両多数。周辺を照明や投光器で照らしており、接近は困難!」
「なっ!」
一番に首相官邸に向かわせた目の良い下士官兵の報告に、栗原中尉は絶句した。襲撃時間が遅れた事と、停電してから見た光の動きで、先に警察が動く可能性を考慮した。だが、兵士が既に動いているのは予想外だった。
しかし、まだ確認する事がある。
「兵士は憲兵か? 概算は?」
「詳細は不明。兵士の数は、官邸の南東側面だけで100名以上。正面門のある北東側、官邸内は不明。ですが、どちらも複数の車両を確認」
「鳳ホテルから向かった斥候は?」
「まだ向かう途中かと」
「そうだったな」
今向かわせたばかりなのに、当たり前の事を聞いてしまい、焦りがあると小さく深呼吸して沈思する。
(どうする? 何にせよ、このまま強引に進めば、皇軍相撃つは必至。だが、事を成す象徴として、首相は何があっても殺害しなければならない。しかし、陸軍同士の戦闘をしては大義が揺らいでしまうし、何より国が乱れる)
彼の疑問に答えてくれる者はいない。村中大尉は、警視庁に向かっているから一番彼が近い。主計なので直接率いる兵を持たない磯部中尉は、似たような同士と先に陸相の官邸に向かっている。
そこで報告の為合流予定だから行けば確実に出会えるが、首相官邸のさらに先の陸軍省などがある辺りだ。
「警視庁に向かった第3連隊に伝令を出す」
結局、栗原中尉が下した結論はそれだった。同時に、数の上での主力となった鳳ホテルからの迂回組にも伝令を出した。
時間は5時20分。混乱は、まだ始まったばかりだった。
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村中孝次大尉は、進退極まっていた。
兵営を出て、三度目の深夜の道路工事現場を何とかどかせて官庁街へと進んだが、7、800メートルほど先の道がかなり明るくなっていた。通常の街灯や常夜灯ではなく、建物が活発に活動している証拠だ。しかもその建物は、警視庁で間違いなかった。
その先はお堀で宮城だし、襲撃目標の場所を間違えるはずもなかった。
そして彼らにとって予想外なのは、目的地周辺の道路上にかなりの人数を認めた事。よく観察すれば、近くの建物の暗がりに警官が潜んでいる事も分かっただろう。
警察にはまだ警察用の自動車は導入されていないが、特別警備隊には軍と似たトラックが導入されていた。そしてその車両が、どう見ても警視庁の前に停車していた。
そのうち1台が、荷台に人を満載してどこかに移動するのも見えた。
(既に警察が動き出していたのか!)
すぐにそう判断し、奇襲が無理なら強襲を命じるべきかと考えた。そして命じるべく振り返ったところで、周囲の明かりが一斉に消えた。
点いているのは、一部のトラックなど車両か、すぐに点いた懐中電灯の明かりのみ。
本来は襲撃後に相手側を混乱させる為の停電作戦だったが、遅れた事で襲撃前に停電となった事に、彼はまだ天は我を見放していないと思い直す。
警察の特別警備隊が既に出動していても、武装は精々短機関銃。他は拳銃があれば重武装な方。こちらには重機関銃すらあるので、圧倒は十分に可能と考えた。
そして前進を継続し、衆議院、貴族院を抜け海軍省の前の辺りまで来ると、さらに変化が起きる。
今度は前方の丸の内、日比谷公園方面から複数のトラックが次々に止まったり堀に沿って通過していった。
少し離れた場所から響くトラックの出す様々な音と、ヘッドライトの照明が、事態が容易ならざる状況だと教えていた。しかも明かりに照らされた姿は、カーキ色。つまり陸軍の色だった。
当然だが、彼らの同志ではない。
(警察でも憲兵隊でもない!)
夜明け前の帝都中心部。遠方から部隊が動いたという事前情報はなし。つまりは近所の部隊。
そしてこんな場所で沢山の車両を一度に動かせるのは、この辺りでは近衛師団しかなかった。
近衛師団は、第1師団と違い東京での改変の為か、先に一部車両が導入されはじめていた。その数は、予定定数のまだ1割から2割程度という話だと聞いていた。
つまり、今目の前にいるのは、最大でも第1、第2連隊の2割程度。しかし、2割にしては少なく見えるので、1割かもしれなかった。
しかし問題は別のところにある。
(このままでは皇軍が相撃つ事になる!)
焦りを強めた村中大尉だったが、頭の一部では向こうは到着したばかりで行軍形態を組んでいるこちらが有利とも考えていた。
そして既に止まるに止まれなかった。だからだろう、一つの命令を出した。
「首相官邸に向かった第1連隊に伝令を出す」
三井財閥の今井町邸:
戦前にあった三井の大邸宅。周辺の役宅まで含めると1万6000坪を超える。邸内には能舞台や庭園、テニスコートなどが設けられ、後に国宝となる茶室「如庵」も移築された。
1945年5月の空襲で建物は焼失。疎開が間に合わなかった多くの美術品や書類が失われた。
現在その場所は、アメリカ大使館宿舎などになっている。
警察用の自動車:
いわゆるパトカーが導入されるのは戦後。




