450 「事件前夜」
1936年2月25日、火曜日。
その日は寒い夜だった。私の前世の歴史と同じなら、夕方には雪が降り始める。そして翌26日の夕方まで降り、東京では珍しい数十センチの積雪となる。
そしてその雪の中で、近代日本史上屈指のクーデター未遂事件が発生する。
なんとも、天は粋な舞台を用意するものだ。
「本当に降り始めた」
「こういう時の玲子の言葉の的中率は凄いな」
「東京に雪は珍しいのにな」
「でも、綺麗だよね」
「本当に綺麗ね」
瑤子ちゃん、玄太郎くん、虎士郎くん、そして何故かというわけじゃないけど、招待客の一人の勝次郎くんが順に口を開く。私も思わず言葉が漏れる。
そして私達は、窓から降り始めた雪を見ていた。既に日は暮れていたので、雪は照明など灯りに照らされた形だけで、東京では珍しい雪は綺麗で、幻想的にすら見えた。
そして玄太郎くんが私の的中率と言ったように、この日に雪が降り始める事を私はみんなに伝えていた。
「輝男くんもそう思うでしょう?」
「はい、綺麗ですね。お嬢様」
側に控える執事服姿の輝男くんも、納得の美しさだ。とは言え輝男くんは、いつも通り感情のこもっていない声色だから、機械的に言葉を返しただけのようにも思える。
まあ、それはともかく、輝男くんは同世代の側近の中では、やはりというか最強なので、今日は私の側にいる。シズは、今は休息中だ。
ただし輝男くんが側にいるように、リズはこの場にいない。リズは、鳳が抱える戦闘要員の中では狙撃の才能が際立っているので、私の護衛以外の任務に駆り出されてしまっていた。
もっとも私的には、彼女は元は大都会の野生児だから、私の護衛をするよりも適材適所だと思っている。
一方の私の護衛だけど、今日の深夜から強化される。私だけじゃなくて、全員の警備は最大限強化される。既にパーティー会場にいるボーイやメイドの大半は、護衛の心得があるかガチ要員だ。
だからだろう、パーティー自体はビュッフェ形式の簡単な立食パーティーだ。
そして私以外の子供達も今日・明日は守られているけど、この中に龍一くんだけがいない。何しろ幼年学校は、平日に抜け出したりできない。ゲームでも日曜日にしか会えないので、攻略が意外に難しかった覚えがある。
なお、他の一族だけど、虎三郎一家も来ていた。最初は、万が一があってはいけないから、横浜の屋敷を警備を固めて待機させようとした。
けれど虎三郎が、「俺も一族の端くれだ。たまには付き合う」とお父様な祖父と言い合って、パーティーに参加してしまった。そして虎三郎一家の総意を取った上だから、全員この会場にいる。
一方で、紅家の人達は来ていない。ただし川崎生田の屋敷の方は、万が一に備えて警備は最大限に強化してある。
国の宝とすら言われる紅龍先生を襲うバカはいないとは思うけど、バカは何をするか分からないので用心に越した事はない。
一方、使用人達だけど、私の側近のうちお芳ちゃん達、頭脳担当達は、鳳ビルの地下で情報収集している。そちらにはエドワードも向かわせていた。
そして私の側には、時田とセバスチャンが居る。今は二人とも休息中でいないけど、何というか皆やる気満々な気がしてならない。
比較したらダメなんだけど、何かの祭りや催しの前日みたいだ。
そして一族と使用人以外にも、ゲストも招いている。
勝次郎くんがその代表だ。メインターゲットではないけど、三菱もターゲットにされているからだ。ただし小弥太様は、不忍池の方の山崎の本邸の方に向かわれた。もちろん、万が一に備えてだ。
三菱の各屋敷でも、小弥太様の差配で警備は大幅に強化したと、勝次郎くんから聞いている。
三井の方にも、強く警告してパーティーに招待もした。けど、招待は謝絶されたし、具体的に何か動いたという話は聞かない。一応、くれぐれも内密という事で、可能性として軍を勝手に率いて決起する可能性についても伝えたのに、流石にありえないと一蹴された。
確かにそれが常識だけど、こうまで言われては無理強いもできない。せめて警備を厳重にしている事を、そして襲撃対象から外れている事を祈るのみだ。
もっとも、色々と先読みした状態の鳳だけど、私達の私兵が決起してきた軍隊を攻撃したりは出来ない。
そんな事をして良いのは、ファンタジーやSFのお話の中だけだ。うちが出来るのは、正当防衛としての自己防衛。それに、戦闘以外での嫌がらせ、そして何より各所への情報提供になる。
情報は、商人の一番の武器だ。
(仮に軍隊を動かせる立ち位置にあったとしても、憲兵隊にまでシンパが大勢居る状況じゃあ、陛下でもどこまで動けるのかなあ。こう言う状況になると、乙女ゲームのライトなお話の世界じゃないのかって、文句の一つも言いたくなるっての)
「何か気がかりでも?」
参加者の人達との雑談もひと段落、私が一人になって色々と考え事をしていると、目の前にグラスが差し出される。
だからそれを手に取って、差し出してくれた人にニコリと微笑む。ハルトさんだ。
「お父様は、思い切りがいいなあって」
そんな私の言葉に、飲み物をくれたハルトさんは苦笑交じりの笑みを浮かべる。
「知っているつもりだったけど、ご当主は本当に肝が座ったお方だね。でも、悪くない策だと思うよ」
「決起する連中に民間施設にも手を出させて、彼らの言う『義』を否定する一手とする。確かに悪くない手だけど、それなら私達だけで良かったのに」
「それだと僕は、婚約者失格になってしまうよ。それにね、ご当主や玲子さんなど一部の方だけを危険に遭わせるのを、みんな否定した結果だろ」
「だからって、小さな子供まで巻き込まなくても」
「ある意味で嘘を演出するんだから、相手に信じさせないとね。ご当主の差配は、僕は正解だと思うよ」
そう言い切るハルトさんは、優しいだけの人じゃないと思い知らされる。知り合った当初はそうだったかもしれないけど、急速に上に立つ者としての知識や覚悟、そう言った諸々を身につけつつある。
このあたりは、さすがは20代の大人だ。攻略対象達では、数年後でもこの高みにまでは至れないだろう。
(なんだかかんだ言って、ハルトさんも鳳の血が流れてるのね)
「ん? どうかした?」
「ううん。私も同感です。けど、もし踏み込んできたら、決起する人達は驚くでしょうね」
「だろうね。それに、他でも色々と仕掛けているんだろ」
「お父様は、今回のお相手が大層お気に召さないらしいです。『ご大層なお題目を掲げる勘違いどもを小馬鹿にしてやる』って、悪い笑みを浮かべていたから」
「アハハハ、ご当主らしい。けど、そこまでする必要があるのかな?」
「少しでも彼らが、シンパだけでなく国民から支持を受けないようにしないといけないって。本当の相手は、彼らの仕出かす事を利用しようっていう腹黒な人達だから」
「そうだったね。それにしても、僕にはご当主ほどの考えと決断はまだまだ無理そうだ」
途方に暮れたような言葉だったけど、私も心底同意だった。
「私も、ただ阻止すれば良いって思っていました。そうしたら、年の功だってお父様に返されました」
「なるほどね。僕も、あの年になれば同じくらいの事が出来るよう、精進するとしよう」
「はい。私もお手伝いします。それより、そろそろ次の準備みたいですよ。今回の見世物の観覧席に移る為の」
「みたいだね。じゃあ、行こうか。えーっと、こう言う時は何か気の利いた事でも言うものだっけ?」
「フフッ。ハルトさん、キネマの見過ぎです。けど、以前私は『歴史を見に行く』と言ってアメリカに渡りました」
「なるほど。それじゃあ、歴史の見物と洒落込もうか」
「はい、お伴致します」
二人だけで悪ぶるのも滑稽だけど、世間からは悪党、悪玉と名指しされているのだから、これくらいのセリフを吐いても許されるだろう。
キネマ:
映画のこと。大正時代くらいから使われている。
トーキーという音声付き映画は、日本で本格化したのが1930年代の半ばくらいから。




