442 「蒋独合作」
日本陸軍が、近代化計画の一部として第一師団の満州派遣を決定したその日、世界では二つの軍事に関する動きがあった。
一つは、イタリア全権が、ロンドン軍縮会議からの脱退を通告した。公表は翌日だけど、その報告は直ぐにも打電された。
この一報で、日本海軍の拡張派は大喜びだ。
二つ目は、「蒋独合作」もしくは「南独協定」が成立した。正式には4月に締結される予定だけど、この時点で確定した。
合作とは、大陸の言葉で同盟を表すけど、要するにナチス政権下のドイツが、南京臨時政府との間の軍事的・経済的協力関係を指す。蒋介石の南京臨時政府の正式発表では、『南京徳國合作』になる。
けどそれだと分かりづらいので、主に「蒋独合作」と呼ばれた。
そして、あくまで協力関係であって、国家間の軍事同盟や安全保障条約じゃない。何しろ南京臨時政府は、主権国家ではなく自治政府に過ぎない。
けど、蒋介石は先進国の武器と可能ならその生産施設が欲しく、ドイツは外貨か資源を獲得し、自国での兵器の生産体制を強化する目的がある。
なお、ドイツと大陸の国そのものとの間での「中独合作」自体は、19世紀から行われていた。
けどドイツは、張作霖が主席の中華民国との色々な関係にドイツが乗り遅れたりハブられたから、以前から昵懇だった国民党、特に蒋介石との間により親密な関係を結んだことになる。
主権を持つ独立国が対象じゃないけど、日本は満州臨時政府との間に非常に濃密な関係を結んでいるので、ドイツが何かをしても非難できる国は少ない。
それにドイツは、古くから国民党を支持していた。軍事顧問も常に置いていた。
それがナチス政権になって、ドイツの国民党への傾倒政策はより具体性を増した形になる。
1933年には、ゼークトというドイツの元陸軍参謀総長が、軍事顧問のトップとして南京へとやって来た。
このゼークト、私の知る限り大陸での日本の立場を悪くした元凶の一人だ。蒋介石に、中央集権体制の強化を指示したのはともかく、日本への敵視を提案していた筈だ。
そして蒋介石は、自前の秘密警察による対日敵視政策を強化していた。
そんな前世の記憶があるから大陸の兄弟たちに調べてもらった限り、ほぼ同じ事をゼークトは言っていた。
少し違うのは、張作霖政府への攻撃も指示していた事。だから日本敵視という指示はない。それでも、主権をとった後は、「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」、「兵士に日本への敵愾心を養うこと」と提案していた。
隣国に敵意を向けるのは常套手段だけど、クソ案件だ。
ドイツまじ許さん。
けどこっちも、対日敵視政策に関しては、既に知っている限りは手を打ってあるし、米英へのロビー活動も手を抜いてない。だから蒋介石は、米英では悪い評価ばかり。
あとついでに、ゼークトの事は日本の色んなところにチクってある。当然、日本人のドイツへの敵意も煽ってある。
もっともこのゼークトも、去年の春にはドイツに帰国していた。
また、軍事支援と並行して、経済協力も行われていた。主に鉄道敷設、工場や発電所の建設が主なところだ。この鉄道敷設では、広州臨時政府も限定的に協力していた。元は国民党の一派だし、自分たちにも利益があるからだ。
そして今回の合作で、軍事産業三ヵ年計画が立てられた。金のない蒋介石らの払うお代は、大陸南部で豊富に採れるレアメタルのタングステンとアンチモン。特にタングステンは、軍事利用に向いた資源だ。
そして交換で、ドイツは技術と兵器を提供。この1月の取り決めでは、1億マルクの借款を与え、その借款で蒋介石はドイツから武器を購入した。
100ライヒマルクが40ドル程度だから、100円で33ドルの日本円と比較すると、1億2000万円ほどになる。
また、以後10年間にわたり毎年1000万ライヒマルク相当の鉱物資源がドイツに提供されることとなった。
大陸からの情報では、今回の手土産として蒋介石は2000トンのタングステンをドイツに差し出したらしい。
ただ、こちらに伝わって来る情報が確かなら、蒋介石の一番の目的は、ドイツの軍事顧問が次の段階に勧めた日本じゃない。それどころか、天敵の共産党でもない。
何より先に、中華民国の主権を手に入れることだ。
臨時政府とか言っているけど、それが地方自治政府な事をちゃんと理解している。この点は、時がくれば勝手に満州が主権国家になると勘違いしている溥儀との一番の違いだ。
ただ次の段階とはいえ、なんでドイツの軍事顧問が日本潰せと言ったのかは、日本陸軍内でも不思議に感じたそうだ。一番の問題をクリアした後じゃないと、意味がないからだ。
私的には歴史の修正力か何かだとは思いたいけど、単に一番の外敵だからかもしれない。
お兄様も、内部の敵に対するより外部の敵に対抗させる方が、ドイツとしては商売、つまり武器売買が上手くいくからではないかと分析していた。
流石はドイツ。他国の事を毛ほども真剣に考えてない。エゴイスト過ぎる。私にはとても出来なさ過ぎて、痺れて憧れてしまいそうだ。
何にせよ、日本の中でのドイツへのマイナス感情が高まるのだけは、ドイツの軍事顧問に「グッジョブ!」と言ってあげたい。
それはともかく、蒋介石でなくても、国の主権を手に入れたいのは誰も同じだろう。臨時政府が一時的な方便な事くらい、誰でも理解している。
けれども現状は、張作霖政府に圧倒的に優位だ。英米日などの助けを借りて通貨を安定させたので、勢力圏内の経済が急速に安定しつつある。従う軍閥もさらに増えた。
税収、国力も増している。
それに満州臨時政府というか日本は、他の臨時政府と違って地方政府の満州から中央政府に納税している。その実態が援助や賄賂でも、この差は他と比べると非常に大きい。
張作霖にとって倒すべき、もしくは従わせるべき相手は、満州以外になるからだ。
その証拠に、豊富な財源と援助で装備を整えつつある軍隊は、年々黄河の南岸地域へと進んできている。
さらに張作霖は、軍事組織の編成、将校、兵士の訓練を求めている。だから、古くから張作霖と付き合いがある日本と、日本としてはアメリカを黙らせる為、そして大陸で一番の古株のイギリスが、軍事顧問を出して諸々の世話を見ている。
これについては、日本の一部で張作霖の手がいずれ満州に及ぶという警戒感があるけど、今のところは杞憂に過ぎない。満州以外の統治を完全にするには、一体どれくらいの時間が必要なのか見当がつかないのが現状だ。
しかも今回の「蒋独合作」で、蒋介石の南京臨時政府は強化されるのだから、満州に手を出している余裕など毛ほどもない。
なお、ドイツにとって、蒋介石の南京臨時政府だけでは、商売の旨味が少ない。だからドイツが仲介する形で、広州臨時政府との合併や統合まで行かなくても、合作、協力関係が結べないかという画策も行われている。
元は同じ国民党じゃないかという論法と、張作霖や日本に対抗するには必要だろうという論法だ。
ただし仲良くされると、その間に挟まった形の中国共産党が大変な事になりかねない。この為共産党は、張作霖の『傀儡政府』とその背後にいる日本を口汚く罵り、『国共合作』を唱え始めている。
けれども、蒋介石もドイツも共産党は敵だ。だから中国共産党の声を聞くことは皆無だった。
だからしばらくは、蒋介石はドイツの手を借りて力を蓄えるに留まるだろうと見られている。
「それで、暴発するとしたら何時ぐらい? 相手は誰?」
「最短で1年、最長で3年。相手は日本でしょう。この点、お嬢様の夢と同じかと」
鳳ビルの地下深く、その中の小さな部屋で貪狼司令に私は聞く。部屋は小さく、部屋は私達以外にシズが扉の側で控えているだけ。
私が極秘に研究させている事を聞いているからだ。けど、後で鳳一族のトップ会議の議題になるから、私達だけの秘密という訳でもない。
「理由は? 手短にね」
「張作霖の政府を一番に相手にしたいでしょうが、3年であったとしてもそれだけの力は得られません。南京臨時政府は小さ過ぎます」
「日本はもっと強大だけど?」
「上海で日本の責任だと騒ぎ立て、白人を戦闘の巻き添えで多数を殺す。これが出来れば、日本に諸外国の非難は集中しやすくなります。この点、お嬢様のお話は非常に参考になりました」
「悪夢だけどね」
「まさに。ですが蒋介石にとっては非常に良い手です」
「そこは了解。けど、期限を切った理由は。普通に考えたら、5年は先でしょ」
「張作霖の軍が、力を付ける前にケリをつけたい。五年待てば、張作霖の軍は揚子江一帯にまで確実に勢力を広げて、蒋介石は列強にとって用済みになるでしょう」
「共産党は?」
「こちらも勢力は徐々に拡大しておりますが、ゲリラ戦ですら軍隊と戦う力は持つ可能性は非常に低くあります。ですが、勢力拡大には注意が必要です。
そして拡大するからこそ、地方政府に過ぎない蒋介石ではなく、張作霖を列強が呼び込む可能性は十分にあります。何しろ、列強にとっての一番の金蔓は、揚子江流域ですからな」
「その通りね。それで、日本や列強の方針は分かりそう?」
「流石にそこまでは何とも。予測としては、ドイツに対抗する形で張作霖への援助を増やし、張作霖に早く南下させる可能性は高まると分析しております」
「なるほど、その手があるか。まあ、日本が泥沼に嵌められるより、一万倍ましね。鳳としても、その線で押してみましょう。ありがとう」
「恐縮です」
私の言葉に貪狼司令が小さく頭を下げて、この話は終わった。
大陸情勢への対応もしないといけないけど、今は近くに迫りつつある国内問題の方が、はるかに頭の痛い問題だったからだ。
「蒋独合作」:
史実の中独合作に当たる。
ドイツの借款や援助で、産業と軍隊の近代化を行う。
ゼークトの提言:
史実でも、「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」、「兵士に日本への敵愾心を養うこと」と提案している。




