440 「起きる撃鉄」
クリスマスの翌日、『二・二六事件』のフラグがまた一つ成立した。
牧野伸顕が健康を理由に内大臣を辞任して、元海軍大将の斎藤実が後任となった。けど首相にはなっていないから、暗殺対象から外れている可能性が高いのがせめてもの救いだ。
それにこの件は、少し前から予測されていた事だから、特に慌てる程じゃない。歴史の修正力とか以前に、牧野伸顕は以前から体調が悪かったし、首相経験がなくても斎藤実は次の内大臣に適任だ。
しかしこれで、岡田啓介以外のメンツはほぼ揃った事になる。
高橋是清は蔵相じゃないけど、蔵相の三土忠造の後ろ盾をしていて完全に隠居していない。だから当然、青年将校たちの不条理な憎悪は高橋さんに向いている。
外相が吉田茂なのは、私の前世と全く違う。ただし、私の前世での外相だった広田弘毅は吉田茂と入省同期だったけど、暗殺対象になっていない。吉田茂は広田弘毅より英米派だけど、流石と言うべきか攻撃されるような行動は取っていない。
他も、前世の歴史と違って純正の政友会内閣だから、色々内閣の顔ぶれは違う。けど、これで襲われる側のメンツは大体揃った。違うのは、首相が岡田啓介じゃなくて何故か、本当に何故か近衛文麿なだけ。
だから私も、私の一族達も特に気にする事なく、年末年始を過ごした。
そして翌年、明けて1936年の1月に、『二・二六事件』の最後のフラグが予想外のところから成立してしまう。
危険な考えを持つ青年将校達の巣窟である第一師団の、満州への移動が決まったのだ。
ただしこれは、永田さん達に不穏な連中を満州にまとめて飛ばしてしまおうと言う意図は全く無かった。ただ単に、第一師団の自動車化と言う近代化の為に必要な措置だった。
1934年度からの陸軍の3カ年計画では、各師団の段階的な自動車化が決定された。自動車化とは要するに、師団の兵隊全員をトラックで運ぶ為の改変だ。
歩兵連隊とか名前が付くように歩くのがお仕事なのを、近代化によって途中までは車で運ぼうという意図だ。
日本の経済力、国家財政が私の前世より多く、鳳自動車が大量にトラックを供給している影響だ。何しろ巨大なフォード式工場で量産される鳳のトラックの値段はさらに下がり、既に他社の追随を許さない。陸軍向けの価格だと、8000円で供給可能だ。
石油消費を気にしなくて良いのも大きい。
けど、一度に陸軍の全師団を対象とする事は、予算などいろいろな面から不可能なので、都合三回の計画、約10年かけて総入れ替えを計画した。
その第一弾として、6個師団の改変が決定。どの師団を改変するかは追って決めるとされていたので、この1月に第二陣として近衛師団、第一師団の改変が通知された。
一番の理由は、近衛師団の改変はなるべく早い方が良いから。また、近衛師団、第一師団がほぼ同じ場所に駐屯している事、東京市という余った土地の少ない場所に駐屯している事、だから第一師団を一時的に満州に移動して改変させ、第一師団がいなくなって空いた場所を利用して近衛師団は東京で改変する事、それが主な理由だった。
けど、それだけの理由だった。本当に他意はなかった。
陸軍の大半が、漸進的な近代化と強化で意見が一致していた。好景気に伴う予算増額が、それを力強く後押ししていた。
本来なら皇道派となった連中は、まとまっていなかった。小畑敏四郎という頭脳、西田税という青年将校達のまとめ役がいない為だと思う。
さらに日本の不景気、農村の荒廃は私の前世より随分緩和された筈なので、兵士の嘆き、青年将校の憤りが低い筈だった。
ついでに言えば、神輿にできる荒木貞夫は実質的に失脚。真崎甚三郎に至っては相沢中佐に暗殺されて、既にこの世の人ではない。
西田が真面目に将校しているから、秩父宮殿下なども青年将校に殆ど手が伸びていない。
前世の歴史を知る私から見れば、勝ち筋が見えつつあると感じていたほどだ。
それはともかく、そんな普通の理由、しかも軍全体ではめっちゃ前向きな理由で第一師団の満州への移動が決まった。
けど、永田さん達への敵意丸出しな、青臭い正義の味方気取りの連中の目を通して見れば、今回の移動が何を意味するのかは明白だろう。
色々と私の前世の歴史より穏やかな状況になったけど、根本的な解決は出来ていないし、凶作を緩和し、好景気で全てを押し流すと言っても限界がある。そして緩和された状況しか知らないので、これを困窮と取る可能性も十分にある。
不満を溜めるやつらを皆無にするのは不可能だった。
一方では、すでに満州にいる『二・二六事件』メンバーもいる。
日本が私の前世の歴史より豊かで、軍事予算も常に多く、しかもここ数年は豊富に供給されているので、今回の師団改変計画以外にも、陸軍の近代化計画が進んでいた。
当然、多数の将校、将兵が必要で、そちらに一部流されていた。こちらは意図的なものだったけど、1人、2人と引き抜かれ、しかも栄転していくのだから、青年将校達も文句の言いようがない。
そうして満州では、独立混成第1旅団の戦車第1師団への改変が1935年度から、陸軍全体の近代化計画の一環として開始されている。
21世紀だと、確か機甲師団とか呼ばれていた部隊の編成だ。
似たような部隊は、ドイツが1935年に編成を開始していて、他の国でも似たような動きは見られつつあるので、時代の最先端を進んでいると言える。
ただし日本の予算だと、取り敢えず1つだけ旅団を編成をして様子を見て、それを師団に規模拡大するのが精一杯だった。
その戦車第1師団の前身の独立混成第1旅団は、自動車化された歩兵連隊1つに、中核となる戦車大隊2つ、機械化された砲兵大隊、それに工兵など中隊規模の支援部隊を含めた旅団編成だった。
総数は5000名弱で、部隊の規模としては小さいらしい。
それを拡大改変で、師団というより大きな単位へと変更する。
戦車大隊は所属中隊を増やして連隊に拡大改変。さらに連隊2つを束ねて旅団として、その旅団を2つに増やす。
装備する車両も、可能な限り強力な最新鋭とする。鳳で生産が始まったばかりの最新型の戦車も装備する。
各戦車連隊は中戦車中隊3つ、重戦車中隊1つ、軽戦車中隊1つが標準になる。各中隊は戦車15台前後だから、連隊1つ当たり75台。総数で300台の戦車が所属する。
日本陸軍を予算面で見てきた私としては、随分と豪華な部隊を作ったものだと感心してしまう。
自動車化された歩兵連隊だけそのままだけど、火力はさらに強化された。砲兵も連隊規模にして、さらに捜索連隊という装甲車などで機械化された偵察部隊も増やす。
その他も全て規模を師団に相応しい規模に拡大し、さらに自動車化された輜重部隊、要するに輸送、補給、その他後方支援をする部隊も追加される。
装備も最新鋭、第1級のものとされて、実質的に日本最強の部隊として編成される。
もっとも、編成完了は1937年中が目標で、この辺りは日本の限界なのだろう。
お兄様から聞いた話では、戦車師団は最低もう1つ編成して、戦車師団2つ、自動車化された歩兵師団1つに支援部隊を加えて、機械化軍団を編成するのが目標らしい。
そして近い将来、これくらいの部隊を編成しておかないと、極東ソ連軍に対抗出来なくなるという。
所属する兵士の数も一気に三倍の1万4000名程度にまで増加。そんな精鋭部隊を満州で編成しつつ、ソ連への睨みを効かせるというわけだ。
この師団には、『二・二六事件』の中核メンバーの一人である筈の野中四郎がいた。この人、もともと大正軍縮の余波で第一師団に転属になっていたから、私の情報もあって違和感のない異動だろう。それに私の歴女知識が正しければ、政治には染まってなかった筈。
真面目な人らしく、歩兵将校なのに戦車将校に転属して頑張っているらしい。そのまま、元気にソ連と睨み合っていて欲しいものだ。
第一師団の、満州への移動:
史実では、1935年の12月に移動が決定。
皇道派青年将校を東京から遠ざける為に計画される。
野中四郎:
二・二六事件の中心人物の一人。事件が失敗に終わると拳銃自殺した。
軍人一家で、父は陸軍少将、兄は陸軍将校、弟は海軍将校。弟の野中五郎は、沖縄戦での特攻作戦で有名。




