438 「三度目の海軍軍縮会議の開催」
1935年も師走。晩秋からの大きな事件としては、内外それぞれあった。
国内は『大本事件』。要するに新興宗教、カルトの事件で、新興宗教に治安維持法が適用されたというのが、一番の特徴になるんだろう。
信者に高学歴者が多く、軍や政治家に深く食い込んでいたのが問題で、巨大化したカルトの実態を日本人に見せつけたとも言える。
そしてこれで初めて知ったけど、少し古いけど金光教や天理教なんかは、国の公認下となっていた。
そして創価教育学会やPL教団(扶桑教ひとのみち教会)といった新興宗教も、既に存在している事も知った。
治安維持法の逮捕者と言えば、私としては2年前の小林多喜二の逮捕と拷問死が頭をよぎるけど、こうした思想への弾圧も良くない時代へと向かっているのを示しているのだろう。
海外では、12月9日から「第二次ロンドン海軍軍縮会議」が開催された。
参加国は、イギリス、アメリカ、日本、フランス。エチオピアを侵略中のイタリアも、取り敢えずは会議に顔を出していた。メンツは、過去のワシントン、ロンドン会議と一応同じだ。
そして予備会談の時は苦い顔をしていた日本海軍の、特に海軍拡張派の皆様は、かなりご機嫌で会議を迎えていた。
自分達が何もしていないのに有利な状況が到来したのだから、機嫌も良くなろうと言うものだ。
何しろこの年の夏に、イギリスがドイツとの間に海軍軍備を認める英独海軍協定を結んだ。これでワシントン条約、ロンドン条約より制限量が減る可能性は激減した。
さらに秋になると、イタリアがエチオピアと戦争を始めた。英仏とはなんとか妥協したけど、イタリアの国際的評価はガタ落ち。海軍軍縮会議からの離脱も秒読みだろうと見ていた。そしてイタリアが抜けてしまえば、欧州の海軍の軍縮体制は崩壊する。
そしてそんな中での海軍軍縮会議など、半ば形骸、成立しても紳士協定のようなものしか成立しないと見ていた。
それでもアメリカは、日本の海軍拡張に異常なほど警戒心を見せているので、日本としてはイギリスの肩を持って、交渉に臨む姿勢を見せている。
欧州情勢が緊迫しつつあるので、イギリスは現状よりも緩い軍縮体制でないと困るのは明白だからだ。そしてイギリスに対しては、アメリカも日本に対するほど強気には出ないし、強引な事は言ってこないと見ていた。
そしてさらに、イギリスに条件の緩和を認めるのだから、日本に認めないと諸外国からも不信を買われてしまうのは、アメリカとなってしまう。
そんな中での日本側の海軍軍縮の主張は、基本的にはイギリスに準じる。ただしイタリアが15インチ砲を搭載する戦艦の新造を開始しているので、戦艦の主砲口径は14インチではなく15インチが妥当という点で変更を加えた。これもイギリスへの配慮だ。
ただし日本海軍には、実は大きな問題があった。
一つは『第四艦隊事件』で、船体設計の不備が見つかった事。未だ調査中らしいけど、色々と強化対策を施さないといけない艦艇が数多く出て、軍縮条約違反の排水量になるのは確実と見られていた。
似たような理由で、近年建造した艦艇は船の大きさに対して武装が多すぎる点も問題視されていた。頭でっかちで、転覆しやすいらしい。
もちろん日本海軍は、表向きは条約守っていますと言い切るし、諸外国も見つけたとしても多少なら黙認する可能性は高い。
二つ目は、見つかったら大問題だった。もはや会議から離脱しないと、軍縮条約を守れない状況に突入するのは確定してる程の事態だった。
それは空母の保有枠の逸脱。
1934年に成立した海軍整備計画では、条約を守っている形になっていた。けど、既存の『赤城』『加賀』の大規模な近代改装をしてしまうと、それだけで保有制限の多くを使ってしまい、新造する事が出来なくなる。
どれだけ言い訳して誤魔化しても、2隻ではなく1隻しか新造は不可能というのが、鳳総研での分析結果だった。
事実、新造艦の2番艦の建造は開始されておらず、1番艦も設計変更などで工事が止まっている。さらに『赤城』の近代改装もまだ行われていない。
だから海軍としては、軍縮会議で空母の保有枠制限の緩和か撤廃を求めようと画策していた。けど、英米特にアメリカは空母を攻撃的な兵器なので、制限を強めるべきだと考えていた。
あと、半ばついでだけど、お兄様と総研などに調べてもらったら、去年の秋ぐらいから海軍内で巨大戦艦の計画が「研究」という事で始まっていた。
軍令部から出ている話だから、艦隊派でなくても海軍はアメリカに対抗するという目的しか持てないらしい。
計画の目標数字を聞いてみると、私がよく知っている『大和』っぽい。構想や研究用で設計するだけなら良いだろうけど、もし建造したら軍縮条約違反だ。
一方で条約違反の自覚はあるらしく、ちゃんと軍縮条約に則った戦艦の研究や設計を、表向きは進めていた。しかもこちらも手抜きせずに。
ロマンとしては気持ちも分からなくはないけど、気持ちが先走りすぎている。それ以前に、海軍はルールを破りすぎている。
この点、独断専行してないこの世界の陸軍より酷い。色々やらかしたのに、「本当に反省してんのか?」と関係のない私までが頭を抱えてしまいそうになる。
そうした状況で軍縮会議が始まったわけだけど、各国の主張は日本海軍にとって会議開催前の予想より厳しいものだった。
各国の主張は以下のようになる。
日本:
ワシントン条約、ロンドン条約の基本的維持
一部、時代に対応して量的制限の変更
質的制限の設定
潜水艦廃止反対。但し、潜水艦の濫用防止の協定の締結
イギリス:
ワシントン条約、ロンドン条約の基本的維持
質的制限に重点をおき、全ての艦種のサイズ、備砲の縮小
潜水艦の全廃。全廃が不可能なら濫用防止の協定の締結
アメリカ:
ワシントン条約、ロンドン条約の維持
現有戦力の二割削減
フランス:
艦型、備砲の大幅縮小
量的制限反対
潜水艦廃止反対
「以上のような情勢となっております」
クリスマスも迫りつつある季節に、鳳総研、鳳ビルの地下の一室で、お馴染みとなった貪狼司令の説明が行われていた。
列席者は、私とお芳ちゃん、それに珍しくお父様な祖父とお兄様がいた。ビジネスの話じゃないのに、時田とセバスチャンもいる。重要な話という事だ。
そして事前説明を終えた貪狼司令が、誰かを目に止める。小さく挙手したお芳ちゃんだ。
「日本政府、海軍の方針は軍縮体制の継続ですよね」
本当にこの条件を日本海軍に認めさせるのか、すごく疑問そうな声。私も同じ気持ちだ。
「近衛首相、山梨海相は、意見の一致を見ております。全権の吉田茂外相も強い熱意を持っております。また近衛首相は、首相就任最初の大仕事なので、何としても英米と歩調を合わせ条約締結したいと考えているようです」
「腰砕けになって、逃げ出さなきゃいいがな」
お父様な祖父が、辛辣なお言葉。近衛文麿を、既にそんな評価をしているという時点で、お父様な祖父の能力を実感させられる。
けどお兄様も小さく苦笑したから、既に知っている人は知っているレベルで、近衛文麿は信頼できないと見られているのかもしれない。
「それで、近衛首相が逃げ出すかもしれない要素の人たちの動きは?」
「海軍内で妙な文書を配った連中は、内々に酷く叱られた様子です。ですが、さらに一部では、会議を潰す動きが見られます」
「どうやって潰す? 海相の首を変えても状況は変わらんぞ」
「まあ、今あげた3人を同時に退かせないと……そういう兆候があるの?」
今回呼ばれたメンツが、なぜこのメンツなのかが見えて来た。お父様な祖父、それに大人達の全員か一部も既に同じ考えなんだろう。
私だけが、まだ楽観していたに過ぎない。
そして私の能天気さを叩き潰す薄い笑みを、貪狼司令が浮かべる。
「三年前に首相暗殺などをやり損ねた馬鹿どもが蠢動しております」
「しかも、陸軍の青年将校達と連携してね」
私のお兄様、龍也叔父様が真剣な表情で付け加える。『二・二六事件』が別の方向から動いていると見て間違い無いだろう。
けど、お父様な祖父が、いつもの昼行灯のまま口を開いた。
「その件は別の機会だ。今は海軍の話を続けるぞ」
「う、うん」。一応は頷いて諸々の感情も飲み込んでから、私も気分を変える。
「それで、お馬鹿さん達はともかく、なんとか話をまとめようって人達の方の作戦は?」
「ハッ。基本は、以前から言われている通り、イギリスの肩を全面的に持つこと。それでイギリスに恩を売り、自分達の要求を通すこと。またフランスが量的制限に反対しているので、その意見を一部支持しております」
「イギリスの動きは? 連中は一番危ない立場だ。日本のワガママもかなり聞いてくれるだろ」
お父様な祖父は、皮肉げな笑みを浮かべている。
「日本とは既に『潜水艦の濫用防止の協定の締結』で意見の一致を見ました。ですので、潜水艦全廃は下げるようです。また日本側が言った、主砲口径の上限を15インチにするという案にも乗るようです。そしてこの二つは、フランスも乗り気です」
「問題は、お前さんの祖国だとよ」
合いの手を入れたお父様な祖父に、ご指名を受けたセバスチャンが一度軽く肩を竦める。
「アメリカは、どれも気に入らないでしょう。ですが、この程度なら、アメリカ以外が味方に付けば通るでしょう。問題は、日本が本当に押し通したい問題では?」
「その件なんだが、海軍の知り合いに聞いたら、どうも近代改装の制限緩和と、改装で増えた分の排水量の保有枠からの除外を目論んでいる。そして既に、イギリスは乗り気だ。新造が難しいなら、数だけは多い旧式戦艦を残らず大改装をしないと、今後ドイツへの対抗が難しくなるからな」
お兄様の言葉に全員が頷く。
「それで日本としては、戦艦を隠れ蓑にして空母の改装制限も撤廃して、何とか今の海軍整備計画の不備を誤魔化したいのね」
「『赤城』と『加賀』は、今のままじゃあ数年先には使い物にならなくなるから切実だろ。だが、新しい計画の空母も大きくするんだろ。そっちはどうする気だ?」
私に続いたお父様な祖父の言葉に、全員が首を傾ける。軍縮体制が維持される以上、普通に考えたらダンマリで制限排水量がオーバーした空母を2隻作る以外に手はない。
だから全員、これと言った意見が言えない。
「それはこれからの交渉次第だろう。それで、交渉相手は何と?」
「アメリカは、日本に制限を設けられたら納得するでしょう。ただアメリカは、それでも不満でしょう」
「そうなのか、セバスチャン?」
「そうですな。アメリカから見て、海軍軍縮は互いの国力差を考えれば日本に非常に有利なのに、なぜ日本が常に反発するのか理解出来ないという意見が強いのは確かです」
「ぐうの音も出ない理屈だな。日本程度の国力だと、イタリアくらいが精一杯だからな」
「ですが突出した海軍力こそが、日本の発言力確保の重要な外交カードとなります。ギリギリまで鍔迫り合いが続くことになるでしょう」
貪狼司令の事実上の締めの言葉で、その後は軽い言葉のやり取りとなってお開きした。
そして私としては、ギリギリまでの間に『二・二六事件』が入り、恐らく『五・一五事件』が不完全燃焼で潰れたのが、今回の話で出てきた事の方が不安要素だった。
『大本事件』:
1935年12月8日に、警官隊が本拠地を急襲。多くの信者が逮捕され、その後多数の拷問による死者を出した。
その後、他の新興宗教に対する取り締まり、弾圧も強まる。
創価教育学会:
創価教育学会は、今の創価学会。1930年創立。戦時中に治安維持法で幹部などが逮捕されている。創価学会に名を改めたのは1946年。
PL教団(扶桑教ひとのみち教会):
この時点では「扶桑教ひとのみち教会」と呼称。
PL教団は、正式名パーフェクト・リバティー教団。
1916年に「御嶽教徳光大教会」として立教。1937年に一度解散。「PL教団」になったのは1974年。
小林多喜二:
プロレタリア文学の代表的な小説家、共産主義者、社会主義者、政治運動家。「蟹工船」が有名。
治安維持法で逮捕され1933年拷問死。
『大和』型戦艦:
1934(昭和9)年10月に建造計画が開始されている。




