435 「第二次エチオピア戦争勃発」
秋。実りの秋。けど、今年の秋も実りは多いとは言えない。
去年の悲惨すぎる状況よりかなりマシだけど、東北では今年も凶作だった。農林一号は東北全域に広まる勢いだけど、凶作を完全に止めるまでの力はない。
当然、今まで同様に様々な対策が実施された。鳳も、今まで同様に低金利融資、雇用の創出、慈善活動としての食糧供給など、政府がするべきところまで踏み込んだ。
なんだか、小作人を別産業の労働者に吸収し過ぎたという報告もあるけど、そんなもん機械化すればいい。農業機械も、色々と研究開発が進んでいる。
そして今年も、原敬は東北を救うべく奔走している。去年も80歳の高齢で無理をしていたけど、もはや寿命ではなく命数を削って奔走しているようにしか見えない。
そろそろ天命、天寿が尽きる時が訪れそうな雰囲気すらあると聞く。
そうした中で、何かないかと探させていたら『小麦農林10号』という小麦の新品種が誕生したという報告を受けた。
収穫量が多く、茎が短いから風雨に耐えて倒れにくいという優れもの。だけど病害に弱いという欠点がある。
そこで政府にも働きかけて、欠点を差し引いてもプラスになる地域での栽培を取り敢えず進めるよう提言しつつ、品種改良の為にお金も積んでおいた。
さらに、鳳商事に世界中の品種を集めさせたりもした。ジャポニカ米だと世界中とはいかないけど、小麦なら日本より海外の方が種類も数多だ。
そのうち、次の芽がでる事もあるだろう。
ただ今の日本は、小麦より米。何よりコメが大事。だから、政府も副次的というか、今ひとつやる気がない。
他方、国内では何やら海軍が騒がしい。
9月の末頃から、影に隠れてコソコソ何かをしている。ただ、秘密主義の海軍だから、情報が全然漏れ伝わってこない。
取り敢えず、政治的なスキャンダルやクーデター騒ぎじゃないので、アンテナを伸ばしつつ情報を待つしかなかった。
けれども、私の転生前の歴女知識によれば、『第四艦隊事件』ってやつが起きた筈だ。鳳としては、造船会社があるから無関係じゃないだろうけど、報告などを待つしかない。
それに鳳グループでは、播磨造船を中心に以前から溶接技術とか関係ありそうな技術への研究と投資を他社以上にしてきているから、これ以上しても仕方なかった。
一方で国際情勢の方は、大きな事件は二つ。
けど片方は、今更感が強いらしく、あまり大きくは取り上げられていなかった。
その事件は、9月15日にドイツが『ニュルンベルク法』を制定した事だ。
ドイツの都市ニュルンベルクでのナチス党大会で、ヒトラーが公表,発布した法律で、ドイツ人とユダヤ人との結婚を禁じ、ユダヤ人から市民権など事実上あらゆる権利、要するに公民権ってやつを剥奪する法律だ。
人種差別も甚だしい、人道に悖る行為だ。
けど、意外に反応は薄い。すでに事実上剥奪されていた権利だったし、ヒトラーはこの法律がユダヤ人の権利剥奪の最後であると明言していたからだ。当のユダヤ人達ですら、これ以上の迫害はないと安心している雰囲気すらあると報告を受けていた。
けど私は知っている。この先、ユダヤ人差別は酷くなる一方だという事を。
だからセバスチャン達には、事前に色々と伝えてある。そして今回の一件で、セーフティーの強化を強める方向に舵を切らせた。
アメリカの王様達にも、鳳総研の分析という形でレポートなどを送ってもいる。
そしてこの件は、今のところそれ以上しても仕方なかった。精々、情報と証拠を集めるだけ集めて、ナチス叩きの材料をストックするくらいだ。
何しろ白人世界では、ユダヤ人に対する反感は強い。決定的な事態にならないと、動くに動けなかった。
もう一つの事件は、イタリア王国がエチオピア侵攻を開始した事。10月3日の事で、確か来年の初夏まで戦争は続く。
そしてこれは、日本にとって問題があった。
この当時、日本とエチオピアとの貿易は盛んで、日本の綿製品はエチオピア市場の大半を占めていた。日本も皮革とコーヒーを輸入していた。
このため外交関係も良好だった。1931年にはエチオピアの使節団が来日して、日本でもかなりのニュースになったものだ。
そして関係が良好なので、エチオピア皇族が日本の華族との結婚を求め、縁談話が持ち上がったりもした。
この話は日本国内で大きな反響を呼び、「国境を越えたロマン」として世間を騒がせた。
ただ、日本の男尊女卑で抑圧された日本女性の間に、一種のムーブメントを起こしたというのが事実だった。
一方では、日本のソーダ産業で、イタリア領東アフリカ(ソマリア)から大量の塩を購入してもいた。
そして、エチオピア皇族との縁談話をご破算に追い込む圧力をかけてきたのが、イタリアだった。
最終的に縁談は破談となったけど、日本側はイタリアへの好感を持つ筈もなく、外務省、商工省、それに関連企業が反発した。
また、アジア主義者の頭山満らがエチオピアもその範囲に含めていたので、主に彼らが激しく反発した。そして政治的に問題なのは、元首相の犬養毅がガチギレ状態だった事だ。
首相官邸から外務省、陸軍省、海軍省などおおよそイタリアと関わりそうなところ全てに、イタリアに強い態度に出ろと言って回った。
ただしイタリアは、国際連盟の常任理事国の一角。日本として、ディスってばかりもいられない。日本政府や外務省も、イタリアがムカつきはするけど、犬養毅の姿勢に対しては犬養毅の個人的意見というスタンスを通していた。
もっとも、日本の今の外務大臣は吉田茂。イタリア大使の時に、ドゥーチェ・ムッソリーニに媚びなかった事で名をあげ、犬養毅も後援している。
だから日本は、イタリアに対しては関係の悪い国という立ち位置になる。
なお、イタリアのエチオピア侵略は、今に始まった話じゃない。イタリアは19世紀末にもエチオピアと戦争をして、一度は侵略に失敗している。
そして20世紀、ドゥーチェがエチオピアを分捕ると具体的に言い始めたのは1932年の確か春の事だった。そして当時は犬養毅政権だったので、イタリアとの関係は最低な状態で推移する。
私的には、ファッショを嫌うという傾向は万々歳だから、かなりの犬養推しをさせてもらった。
自前の皇国新聞でも、ファッショ、全体主義の危険性を訴えさせた。エチオピアへの同情を集める宣伝もさせた。
ただ、今の所イタリアは、英仏とはそれなりに良好な関係を維持している。
特にフランスは、イタリアが勝手な事をしても戦争までしたくないと考えているので態度は腰砕け。イギリスも、地中海で移動以外の軍事行動をしないならと、結局イタリアの行動を容認してしまった。
それでもエチオピア自体が、国際連盟にイタリアの侵略を提訴していたし、イタリアと英仏との間には何度も交渉が持たれた。国際連盟では、日本とイタリアの間でも多少の話し合いも行われたりしている。
けど、エチオピア限定ならオーケーと英仏が妥協したので、イタリアのエチオピア侵略、いや征服は開始された。
「けど、エチオピアを征服したとして、イタリアの利点は何? 全然見えないんだけど?」
「19世紀に行われたエチオピア戦争、いや第一次エチオピア戦争の復讐戦というのが、イタリア国民の間での一般認識のようです」
欧州情勢の話なので、鳳の本邸、本館内にあるセバスチャンの執務室で、部屋の主に聞く。
護衛のリズを連れて乗り込んだわけだけど、部屋にはエドワードもいるので、日本人は私一人という特異空間だ。
「それじゃあ、『ローマ帝国の復興』とか『我らが海』は関係ないの?」
「皆無ではありませんが、イギリスとの衝突を回避する為、今回は『我らが海』は引っ込めております」
「それにエチオピアの王家は、聖書に出てくる人物がルーツになるほど古い伝統を誇ります。『ローマ帝国の復興』も関係ありませんね」
セバスチャンに続いたエドワードだけど、プライベートは中々の恋愛脳だけど、仕事中はいつもの自信家っぷりを見せている。
そして私は、二人の意見に頷く。
「でしょ。スローガンを何一つ達成できないじゃない。それにエチオピアには、有力な地下資源があるって話も聞かないし、農業もギリで自給自足。価値がありそうなのは、……コーヒーくらいじゃない?」
「……お嬢様の夢にも何もないのですか?」
「ないわよ。モカコーヒーだって、イエメン産の方が美味しいし」
エドワードが少し緊張して聞いてきたけど、本当に何もないからサラッと流す。
「余剰人口を移民させるという話はありますね」
「イタリア人がエチオピアに? エチオピアに入植するくらいなら、アメリカに移民するんじゃないの?」
「その可能性が高いでしょうな。実際、イタリアの誇る最新鋭豪華客船は5万トンクラスの船で、1航海で1700から1800名の移民をアメリカに運んでおります」
「そうよね。つまりは復讐戦でしかないのか。ドゥーチェも大変ね。それで、日本政府の動きとか分かる? 総研で聞いた方が良い?」
「そうですな」セバスチャンが、少し考えてから再び口を開く。
「エチオピアが国連に提訴している以上、国連はイタリアを侵略国と認定するでしょう。そうなると日本も、国連が行う制裁に参加するでしょうな」
「日本が満州で食らったかもしれない状況ね。それ以外は?」
「大アジア主義者の犬養毅元首相、玄洋社の頭山満あたりが、「エチオピア問題懇談会」を立ち上げ、イタリアに侵略の停止を求める決議案を送付していますね」
ちょうど資料を見つけたセバスチャンが、それに一瞬だけ目を通してこちらを見る。
次の言葉がないので、これで終わりという事だ。
「ありがと、お邪魔したわね」
「いえ、とんでもありません。それで、この後は総研に?」
「ううん。行っても仕方ないわ。そこまで気にしても仕方ない事だし」
「お嬢様は、今後どうなるかご存知なのでしょうか?」
「……どうしたのエドワード。王様達から成果でも求められている?」
「いえ、そこまでは。ですが、イタリアのエチオピア侵略に関する情報があるなら、欲しがっている様子です」
「あっそ。前も言ったと思うけど、イタリアは英仏との対立が強まって、逆に国際的に孤立しているドイツとの関係が改善して、最終的には国際連盟を離れるわよ。私としては、この冬の第二次ロンドン海軍軍縮会議をイタリアがどうするのか、そっちの方が気になるけどね」
「イタリアの国連脱退よりもですか?」
「そうよ。イタリアはもう新造戦艦の建造を去年決めたけど、この侵略で次の軍縮会議は離脱するんじゃない? 国連脱退より先にね」
「なるほど。国連脱退はまだ先なのですね」
「多分ね。それじゃあね。それにしても、復讐心だけで外交を全部放り捨てるとか、ないわー」
前世の記憶にインプットされていなかった情報だったけど、もう呆れるしか無かった。
小麦農林10号:
戦後アメリカが日本から分捕って、諸々の交配や品種改良の結果、『緑の革命』の原動力となる小麦品種を生み出す。
何やら海軍が騒がしい:
「第四艦隊事件」。1935年9月26日、岩手県沖で台風により艦艇が被った大規模海難事故。
10月くらいから調査が開始され、翌年4月に調査報告がまとまる。
そして海軍は秘密主義なので、外に情報が漏れない。
ニュルンベルク法:
史実でも同じ。ユダヤ人から公民権を奪い取った法律として名高い。
エチオピア皇族との縁談話:
史実でも、黒田広志子爵の娘・雅子が、エチオピア皇族のアラヤ王子との間に縁談話が持ち上がっている。
だがイタリアの強い圧力でご破算となった。
頭山満 (とうやま みつる):
民間での国家主義者、大アジア主義の代表的人物。




