426 「オリンピック招致」
8月5日、西太平洋の南洋諸島を経由したオーストラリア北部の旅行から帰国した。
当初の予定でも多少の余裕をみてはいたけど、1週間ほど予定より早い帰国だ。そして羽田に着くと、一旦鳳の本邸に帰ってお父様な祖父にご報告。
特にトラブルも何も無かったので、簡単に概要を話して既に作ってあった報告書を渡しておしまい。
その間、別荘や保養所の空きを確認してもらい、お盆までの1週間ほどは前半を熱海、後半を湘南の鵠沼海岸で過ごす予定を立てた。
旅に同行した社員などの人にも、お盆休みなどで保養所を優先的に使えるように手配した。
オーストラリアの現地では、詳細な調査が順次開始されているけど、私が直接関わる事はもうないだろう。
あと私がするべきは、アメリカの王様達、今回も世話になったミスタ・スミス、そしてチャーチルにお手紙を出すくらい。
もっとも、急ぐ必要もないから、お盆明けにでも書けば良い程度のものだ。
一方、私達が日本を離れている間に、日本列島に大きな危機は無かった。某バーサーカーの暴走は、私の前世の歴史ならまだ先だし、その兆候もない。
ただ、そのバーサーカーの相沢中佐は、永田鉄山少将ではなく教育総監の真崎甚三郎大将の元を一度訪れている。ただ、何があったのかは、知る事は出来なかった。
とはいえ、間違っても接触したい人じゃないから、現状では永田鉄山に突っかかる理由もないからだろうと思うしかない。
真崎甚三郎は、一部の青年将校からの支持は依然としてそれなりに強いから、応援とか支持表明あたりだろうというのがお兄様の分析だ。
確かに、それ以外は有り得ない筈だ。それに何より、永田鉄山に向かってないのだから、これは良い兆候だと見ても良いだろう。
そうして陸軍はそれなりに安定していたけど、日本国内では残念ムードが少しばかり漂っていた。
というのも、この7月31日に1940年のオリンピック開催地を決めるIOC、国際オリンピック委員会の総会が、ノルウェーの首都オスロであったのだけれど、日本の東京ではなくイタリアのローマでの開催に決定したからだった。
1940年のオリンピック招致自体は、オリンピックのルールに従い1932年に立候補があり、最初は9つの都市の立候補があった。東京もその一つだ。
そして開催都市は、開催5年前の総会で決定するルールがあるので、今年になるまでにイタリアのローマ、フィンランドのヘルシンキ、そして日本の東京に絞られていた。
この1940年開催には、嘉納治五郎を始めとして日本は非常に力を入れていた。政府も「皇紀二千六百年行事」の一つとして、東京万博共々力を入れていた国際イベントだった。
けど、招致に際して日本に不利な要素の方が多かった。
何しろ、当時のオリンピック参加国、つまり独立国は、ヨーロッパと南北アメリカ大陸にしかないに等しい。
アジアの独立国は、日本、中華民国、タイ、モンゴル、それに一部のイスラム教国家程度だ。植民地だけど参加する地域を加えても、インドとフィリピンが増える程度。
そしてオリンピックは、ヨーロッパで開催するものだろうという雰囲気がまだまだ強かった。
それを思えば、私の前世の歴史で1940年の招致を決めたのは、間違いなく偉業だったのだと実感させられる。
ただ前世の歴史と違い、日本とイタリアの関係が思わしくなかった。何しろ、立候補を決めた頃の日本の首相は犬養毅で、イタリアのエチオピアへの干渉を強く非難していた。首相を退いてからも、イタリアのエチオピアに対する動きを非難し続けている。
日本の一部でも、イタリアの日本への態度に反発していた。
一方で、この時期のイタリアは、ドイツの再軍備や膨張外交を警戒していた。というより、ドイツの威を借りたオーストリアが、イタリアが前の世界大戦で得た領土奪還を図ろうとするのではと警戒していた。
イギリスのせいでご破算になったドイツを封じ込めるストレーザー戦線などが、イタリアの対独警戒の現れだ。
それはともかく、イタリアとドイツの関係が基本的に思わしくないから、日本国内のドイツ贔屓な人達ですら、犬養毅らがイタリアを敵視しても気にしていなかった。
ただ、一部の声であっても、元首相の言葉は無視できない。基本的には、日本とイタリアは関係が悪いという事になる。
そして日本とエチオピアの関係が良好な事、関係を深める事に対して、イタリアが事あるごとに文句を言っていた。だから日本側も反発して、犬養毅が首相になってからはイタリアの嫌がるエチオピア外交を取っていた。
そんな日本の動きに対して、イタリアとしては英仏がエチオピア問題では黙認状態に入っているから、ヨーロッパ外交のルールに照らせば日本など「煩い部外者は黙ってろ」でしかない。
そして言われれば、日本だって反発する。
そんな状態だから、イタリアが日本に遠慮する気も譲る気もない。イタリアは、自分の票固めの為にガチで動いた。また、日本が悪口を言ってくるのだからと、影では日本をディスった。日本側も、イタリアのオリンピック外交とでも呼ぶべき行動を政治的だと非難した。
これに対して諸外国は、正直どうでもいい争いでしかないと思っていた。
そうして3つの都市による投票となったけど、1回目ではヘルシンキが落選。2回目でヘルシンキに投票したヨーロッパ票の多くがイタリアへと流れ、日本は落選した。
もっとも私としては、この投票でドイツがイタリアに投じて、アメリカ、イギリスと英連邦の多くが日本に投じてくれた事が何よりも大きい。
アメリカとしては、ロサンゼルスに続いてヨーロッパ以外での開催を支持しただけか、ファシズムが気に入らないだけかもしれないけど、それでも構わなかった。
私は、アメリカの王様達に日本支持を訴えるお手紙を出してはいたけど、この時代のオリンピック委員会は21世紀と違って清廉度合いが高いから、お手紙だけで賄賂やそれに類するものは一切出さなかった。だから私自身の行動が結ばなくても、当然だと思っていた。
イギリスや英連邦の票についても、アメリカと似た動機での日本への投票だろう。けど、オーストラリアは、日本というか鳳との取引が増えた影響とも言われた。損得関係が深まり、ちょっとは話せる相手だと考えるようになっていたからだ。
そんな噂はともかく、私としては後でチャーチルにイギリスが日本に投票したお礼の手紙の一つも書けばおしまいだ。
「お嬢が全然残念がってないのは、その辺りで起きるの?」
「……そうはなって欲しくないけどね」
熱海の温泉に浸かりつつ、日本に帰国してから連れてきたお芳ちゃんが、かなり真剣な眼差しで聞いてくる。
小声気味での会話だけど、ちょうど周りには他の人もいないから、話を振ってきたんだろう。
「なって欲しくないから、この先の事は話さない?」
「うん。どうなるか話したのは、一族の中枢の人達だけ。そもそも話したところで、起きてしまったらどうにもならない事ばっかりだし。お芳ちゃんには、多分雑音にしかならない。おとぎ話と違って、一人の英雄や勇者、はたまた歴史上の軍師が解決出来るわけでもないからね」
「……それもそうだね。でも、日本の一部は五輪落選で意気消沈だよ。万博も、規模とか考え直そうかって話まで出てるし」
「東京万博か。開催できたら良いけどね」
返事や返しがないけど、強目の視線の圧だけ感じる。私のやる気のなさを汲んだものだろう。
「一応言っとくけど、やるなら、もっと派手なインフラ整備もしてくれないと、財閥としてはやる気もあまり起きないだけよ」
「オリンピック落選で、設備投資は減るだろうしね。でも、それだけ?」
見透かしたように、赤い瞳が私を見てくる。
私がオリンピック、エキスポ共に関心が今ひとつなのは、それが1939年9月1日以後の事だから。実際に、私がその日を超えない限り、あまり真剣に考える気になれない。
そして何より、その日を境に世界は未曾有の戦争の奈落へと落ちると、前世の歴史で知っている。しかも今のところ、順調に奈落へと進んでいる。
せめてもの慰めは、色々頑張ったおかげもあってか、日本の道筋は多少明るく思える。日本が道を踏み外していない事に比べれば、オリンピックが開催出来ないのは大した事じゃない。
「何度も言っているけど、私の目的は」
「一族と財閥を破滅させない事。鳳にオリンピック、エキスポは、関係ないんだね」
「まあ、そうなるか。東京自体、関東大震災以後の再開発と開発が完成したところだから、競技会場と会場以外で作るものが少ないから、うちはあんまり関係ないから」
「鳳が日本各地でしている事の方が、余程大規模だしね」
「うん。全部完成するまでとは言わないから、あと3年くらいでいいから、大きな波風は立って欲しくないなあ」
「3年以内に起きる可能性があるんだ」
「夢からはずいぶんと捻じ曲げたから、多分3年は大丈夫。その辺りから、ヨーロッパが奈落に直滑降だろうけど」
「捻じ曲げないの?」
「手が無いし、力が足りないし、何より遠すぎる」
「そりゃそうか。じゃあ、出来る限りの準備をするしかないね」
「うん。マジそれしかない」
「(それを10年もしてきたんだから、お嬢は凄いよ)」
「ん? 何か言った?」
「なんでもない」
ちょうど他の人達が入ってきて音がたち、お芳ちゃんの言葉もごく小さい呟きだったから、ここはわざとらしく聞こえなかったフリをするのが作法というものだろう。
オリンピック招致:
史実では1回で開催地が決まらず、翌年の1936年7月31日に東京に決まっている。
この世界では日本とイタリアの関係が史実と違うので、1回で決まったと想定。
東京万博:
紀元2600年記念日本万国博覧会。
1934年に「日本万国博覧会協会」が設立され、1937年には具体的な準備が進められるようになる。




