414 「1935夏前」
1935年度、早くも1学期が終了しようとしている。
そしてノンビリと女学生をしていられるように、世の中はそれなりに平穏だ。
きな臭い話と言えば、国内では3月の関東軍の謀略の後始末がまだ続いている。
軍法会議も、裁判にかけられる人達が相応の地位の人だから、まだかかるみたいだ。そして相応の地位の人がやらかしたので、陸軍内はまだ揺れている。
また、確か私の前世の歴史では、このぐらいの時期から満州に続いて華北を日本の勢力圏にしようとしていた筈で、それが日中戦争の遠因の一つだったように思う。ただし、その謀略の中心の土肥原賢二は、春の一件で逮捕された。
そもそも満州は臨時政府のままで、これを独立しようという動きはあるけど、関東軍が勢力を広げる工作すら失敗したのが現状だ。
そして華北だけど、張作霖が国家主席の中華民国政府の中核地域で、日本も参加した英米主導による通貨制度で経済の安定が図られつつある。赤化の阻止も、全員が一丸となって華北の浸透を防いでいる。
だから日本としては、中華民国が過剰な関税障壁とかしなければ取り敢えず問題はないし、そもそも張作霖は日本が後ろ盾をしているから、そんな事する筈もなし。
張作霖も、満州臨時政府が独立していないので、取り敢えず文句は言ってこない。それどころか、経済発展を続ける満州から中央政府への納税、という形での正当な収入による、彼らの視線から見ての膨大な賄賂にホクホク顔なのが現状だ。
だからだろう、満州臨時政府に自分の息子の一人を参画させていた。
その満州臨時政府だけど、関東軍の北満油田の一件で立場は少し優位になった。といっても、日本の中での力関係が変化した影響だ。
ただ、首相を勇退した形の犬養毅は、アジア主義の人だけあって満州臨時政府を強く後押ししている。そして元首相の言葉や行動だけに、日本国内の人も無視できない。日本にまだ多少残っているアジア主義の人達も元気になり、日満蒙の連帯とか共栄とか言って満州主導の開発に力を貸している。
ただ、同じアジア主義者の石原莞爾は、永田鉄山に呼ばれた事もあり、この8月からは出世コースである参謀本部の作戦課長が内定していた。
一方世界情勢だけど、イギリスがドイツと秘密裏に『英独海軍協定』を結んだ。得意の二枚舌のつもりだったのかもしれないけど、これで欧州列強の足並みは乱れてしまった。
何しろ、今年の春には北イタリアの保養地ストレーザーで、英仏伊によるドイツに対する非難声明を出していたのに、それをイギリスが反故にした形からだ。
流石はブリカス、と言ったところだろう。
なお『英独海軍協定』だけど、私は前世の歴女知識でドイツのリッベントロップに悪い印象しかないから、チャーチルには手紙で目一杯告げ口しておいた。
こいつの尊大な言葉と態度には、外交常識の裏とか隠し球はないから、その点十分に気をつけろ。外交の『素人』で、『玄人』だと思ったら騙される、と。ただのゴロツキだ、と。
それにしても、アーサー王の墓の前で出会ってから、不思議とチャーチルとの手紙の交流は続いている。年数回のやり取りだけど、手紙でやり取りする分には面白いオッサンだ。伊達に文筆活動もしているわけじゃないと、結構感心する事が多い。
そんなチャーチルからの返事にも、『誰もが、尊大で目立ちたがりなだけのあいつは嫌っている。能力も評価していない。大丈夫だろう』と書かれていたから、多少は安心したけど、ダメだった。
チャーチルは、ボールドウィン内閣の対独融和政策も批判していたけど、ダメだった。
あのペテン師が日本に接近してきたら、徹底抗戦しないとダメだと決意を新たにしてしまったほどだ。
取り敢えず、鳳総研にはドイツ外交の研究を徹底させ、吉田茂にも色々と書いたり、話したりして強く注意を促した。宇垣内相にも、お父様な祖父を通じて色々と言ってもらっている。
それ以外にも、私がコネのある政界のお爺ちゃん達に、色々と告げ口しておいた。
ドイツとの関係強化は地獄の一丁目だから、やりすぎていけないという事はない。
一方で、『英独海軍協定』を喜んだ人達が一部にいた。
日本海軍だ。これでイギリスは、ワシントン、ロンドン体制をますます維持しないとダメになり、第二次ロンドン会議でアメリカが言っていた制限量を縮小しようという向きが吹き飛んだと考えたからだ。
しかも本会議はこの12月からの予定だから、この喜びは大きかった。
軍事費の無駄遣いはまだやめて欲しいけど、大きな軍艦は作るには時間がかかるから、必要経費と割り切るしかないんだろう。
世の中そんな状態だけど、それでもこの夏に気になる事はまだある。
けど、その大半は私の前世の歴史上の出来事ながら、必要となるフラグが成立していない場合が多い。
日本の政党政治は続いているから、「天皇機関説」が問題視されていない。美濃部達吉は政治の槍玉にされたりしていないし、歴史上の人物として浮上してもいない。
連動して、国体がどうとかナショナリズムな事が喚きたてられてもいない。
どれも、政党政治、議会政治がそれなりに機能し、主に陸軍がとりあえずではあるけど横暴に振舞ってもいないお陰だ。
そしてそれは、春の関東軍の事件でむしろ補強されたと見て良い筈だった。
そしてこれら一連の状態は、景気低下を可能な限り抑え込んで、世の中の不平不満をほんの少しでも減らしたお陰だとも思いたい。
そんな中、この夏に国内で唯一気になるとすれば、個人が起こしたテロ事件にあたる『相沢事件』。正確な日時は記憶に無かったけど、この年のお盆くらいに統制派のリーダー格の永田鉄山が白昼殺されてしまう、『二・二六事件』へのフラグの一つだ。
けどこの世界では、確か事件名にもなった犯人の相沢中佐が凶行に走ったフラグは、私の記憶している限りは立っていない筈だった。
そもそも、皇道派という言葉が世の中に出てきていない。天皇親政を求める動きは皆無じゃないけど、勢いはない。現実を見ない勢力、精神論者などと言われている程度だ。
それに私の前世の歴史上で神輿とされた荒木貞夫大将は、外相となった宇垣一成に歯が立たず、失望されて第一線を既に去っている。
『二・二六事件』でも担がれた真崎甚三郎は、陛下から叱責され信を失っている事、閑院宮載仁親王のご不興を買った事が世に出て、天皇親政を唱える精神論者たちから、こちらも失望され支持を落としている。
また『二・二六事件』メンバーの一部は、満州で機甲部隊に配属されて頑張らされていると聞いている。それに確か『二・二六事件』の大きなフラグになる士官学校を巡る謀略事件というものを、私は耳にしていない。
ついでに言えば、青年将校の市井でのリーダー格の一人だった西田税は、陸軍将校を続けている上に、お兄様の舎弟状態だ。私も定期的に顔を見ている気がする。
なんだかあの顔を見るのも、すっかり慣れてしまった。
そして肝心の相沢中佐だけど、お兄様と西田に注意してもらっている。そして『二・二六事件』メンバーの一部との接触は見られるけど、特に目立った動きはないらしい。
お兄様も西田も、直に相沢中佐に会って色々と話したらしいけど、性格が真面目過ぎるくらいな他は、どこにでもいる将校という評価だった。
ついでに言うと、皇太子時代の陛下をお助けしたお兄様が親しく話しかけた事に、いたく感動されたそうだ。
尊皇キメすぎな人にも困りものだ。
けどまあ、お兄様とあの西田が大丈夫と言っているから、永田さんがどうにかなる事はないだろう。
「うん、夏休みに長旅に出ても大丈夫よね」
「何か言われましたか?」
「世の中、まあそれなりに平和だなあって」
「それなりという言葉には引っかかるものがありますが、全てが平穏といかないのも世の常ではありませんか?」
なんだか久しぶりに、シズとそんなやり取りをする。
場所は私の部屋。この部屋に入って来られるのは、シズ達一部のメイドと私の側近の女子達だけ。
結婚後はこの部屋もどうなるか分からないけど、あと2年ほどはそれ程変わらない生活が続く筈だ。
「お説ごもっとも。けど、この夏はオーストラリア行きを心置き無くできそうでしょ」
「そうですね。国内は好景気ですし、大陸情勢も安定して御座いますね」
「世界情勢もそれなりにね。それじゃあ、この夏も日本の景気をさらに良くしに行くわよ!」
「はい。ですがその前に、明日の終業式に備えて、今日はそろそろお休み下さい」
「はーい」
こうしたやり取りも、結婚までなのだろうかと思いつつもシズの声に素直に答えた。
ドイツに対する非難声明:
ストレーザー戦線。
この声明は、ドイツがヴェルサイユ条約を破棄した事への抗議、オーストリアの独立を支持した声明。
この時期のイタリアは、ナチスドイツを恐れ、ほぼ敵対関係にあった。
リッベントロップ:
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ。ナチス政権の外務大臣を1938年から務めた。
言いたい事は色々あるけど、この時代の世界情勢を悪い方向に加速させてしまった一人。
天皇機関説 (てんのうきかんせつ):
大日本帝国憲法上の天皇の地位に関する学説。
大正期には学界の通説で、議会政治が続いている限り問題視しにくい。
国体 (こくたい):
国家の状態、くにがらのこと。書き出すとキリがないので、気になる方はそれぞれ調べて下さい。
軍国主義の時代に利用された。
士官学校を巡る謀略事件:
陸軍士官学校事件。
1934年に日本陸軍の陸軍士官学校を舞台として発生したクーデター未遂事件。
『二・二六事件』の中心メンバーの磯部浅一、村中孝次が軍を追われた。
対立する統制派による、皇道派青年将校に対する謀略とも言われる。
辻政信も統制派側でこの謀略に参加している。この世界では、フラグ未成立なので辻はソ連に旅だった。
『相沢事件』:
相沢三郎中佐が、白昼陸軍省にいた永田鉄山少将を惨殺した事件。皇道派と統制派の対立の一幕とされる。




