362 「次期総理の相談」
7月初旬のある日の放課後、私は鳳のホテルにお父様な祖父から呼び出された。
鳳ホテルは冷房完備だから、夏に過ごすのはもってこいだけど、この夏は冷房はまだ不要な暑さ、というか気温しかない。
梅雨で雨の日というのもあるだろうけど、この秋の不安が嫌が上でも掻き立てられる。
そして、だからこそ、日本は選挙の季節に突入しつつあった。
けど、まっとうな衆議院総選挙が行われるのは、基本的に良い事だ。そして基本的という点を取り除くべく、呼び出された事は事前に知っていた。
(事前に知っていたとしても、あんまり会いたい人じゃないなあ。お父様は、相変わらず私に容赦ない)
相変わらずなお父様な祖父へ、私は内心の片隅で悪態をつく。何しろ会うべき人物は、犬養政権の外務大臣を務めている元陸軍大将の宇垣一成だ。
ただし、呼ばれたのは私だけじゃなかった。私の秘書としてではなく、鳳の人間としてマイさんも呼ばれていた。
私が、マイさんが「何となく」話した案をお父様な祖父に言ったら、似たような事は何人かが考えていたらしく、本人に接触してどう考えているか聞いてみようという事らしい。当然というか、お芳ちゃんも引っ張って来た。
「何とも、今日は華やかで良いな。そちらのお嬢さんは、見間違いでなければどこかで見た気がするのだが、私との面識は?」
「御座いません、宇垣様。私は鳳舞と申します。もし私の顔にご記憶があるのでしたら、鳳グループの何かの宣伝でご覧になられたのだと存じます」
「ああっ、確かに。何かのポスターで見た顔だ。だが、鳳一族だったんだね。麒一郎君とは?」
「私の父が麒一郎様の弟に当たります」
「そうか。鳳は人材豊富だな。それで、そちらのお嬢さんは?」
「皇至道芳子と申します、宇垣様。鳳家に書生としてお世話になっています」
「そうか。さしずめ、玲子さんの懐刀と言ったところかな」
宇垣一成が、挨拶がてら如才なく寸評していく。こうしていると、確かに外務大臣しているんだと、実感させられる。
もともと組織人で人当たりも悪くはない人だけど、交渉術としても中々のものだ。それにお芳ちゃんの見た目に、一言もないし変な目で見る事もない。ある意味試したのだけど、この点はさすがは大人物だ。
そしてその後も、少しの間雑談が続く。お互いの距離感を図る為でもある。そしてそれも終わったので、お父様な祖父へと視線を向ける。
「話は玲子達からしてくれ。俺は政治は苦手だ」
「ハハハッ、鳳は相変わらず逃げるのか?」
「ええ。日露の頃から、逃げ足には自信があります」
「違いない。それでは、逃げ損ねたお嬢さん方、私への有益な話をお聞かせ願えるかな」
視線も雰囲気もあくまで和やか。女子が多いからか、お芳ちゃんが見た目子どもだからか。それとも、お父様な祖父から話を聞いているのか。
まあ何にせよ、私が話すしかないと肚を括る。
「では、この夏に行われる選挙に関する、ちょっとした話をさせていただきます」
「うん。良いな。むさ苦しい男どもから聞くより、ずっと良い。私も女子の秘書を置こうか」
「軟弱と取られるかもしれませんよ?」
「かもしれんが、そんな視野の狭い輩など、害がないのなら無視しておけば良い。それに女子に働き場を与えるというのは悪くない」
意外に開明的な考えに、内心少し驚かされる。
流石一時代を作った人物だけの事はある。
「お伺いしても?」
「今の私は政治家だ。軍人ではない。軍人には、質実剛健とかむさ苦しいものも必要だが、政治家は強いだけじゃいかん。柔らかさもないとな。それに参政権を持つのは男だが、投票する旦那を家の中で尻に敷いている奥方も少なくない」
そう言って、最後にニヤリと笑みを浮かべる。
何を話すのかを聞いていたか、既に同じような回答に至っていたという事だ。やはり流石と言える。
けどこれで、長話を最初から端折る事ができる。それも見越しての今のやり取りだろう。
(やっぱり、やり辛い。永田さんですら扱いに困るってだけはあるなあ)
「どうかしたかね?」
「いえ、どこから話せばと。宇垣様へのお話は、短く済みそうですので」
「なに、長話でも一向に構わんよ。今も言ったが、むさ苦しい男どもからの長話なら短く済ませるが、可憐な婦女子からなら、いくらでも話を聞けようというものだ」
そう結んでカラカラと笑う。
表面上で機嫌の良さを装っている可能性もあるけど、もしそうでも罵声は飛んでこないと安心できる。
「では遠慮なく、長話をさせて頂きます」
「うむ。良い話を頼むよ」
と、そこからは、政友会の話、今回の選挙の話を、解散が決まった頃に話し始めた床屋談義をまとめた形の話を手短にしていった。
ただせっかく3人いるから、一応事前に話し合っていた通り、順番に状況を話していった。
宇垣さんが政友会総裁になれば、本来の次期総裁候補の床次竹二郎、鈴木喜三郎が強い不満を持つ。
最悪、党を分裂させて、民政党と連立政権を組む可能性がある。可能性は高いと分析されている。
避けるには、どちらかを総裁にしないといけない。そして好敵手の代議士が総裁になるなら、もう片方も次を考えて馬鹿な真似はしない可能性が高まる。
そして政友会が割れてしまえば、宇垣さんに総理の可能性が無くなる。
割れた方に鞍替えも無理だろうし、政友会を見限るにしても民政党も嫌がる可能性が高い。
かなり短くした話しがひと段落したところで、宇垣さんが大きく頷いた。
「そこまでは良いだろう。それで私は? 政治から身を引けと?」
言葉は厳しめだけど、口調が面白がっている。それに会話前の雑談の延長から、既に答えを知っている事も分かっているからこちらも話しやすい。
「宇垣様には、政友会の表看板を担って頂きたく存じます。そのお代として、政友会は今回も有力な大臣の椅子を用意する。鳳も全面的に支援、支持致します」
「私の利点はそれだけかね?」
「交渉の際、次の総理の椅子が交換条件。また、宇垣様が議員となった上で次の総理に名乗りを上げられば、西園寺公の心象も随分と違ってくるのではないでしょうか」
「なるほど、一理ある。だが、そこまでは私も考えた。それで済むかね? 床次か鈴木の、あぶれた方はどうなる? やはり恨み妬んで、政友会を割ってくるんじゃないか? 政治家は嫉妬深いぞ」
「平沼騏一郎様を利用します」
「なっ!? これは意外。俺の天敵だぞ」
宇垣さんが破顔した。一人称が陸軍将校特有の俺に戻っているし、意外に楽しげな顔だ。
だからというわけじゃないけど、こっちは少し悪い笑みをサービスしておく。
「だからこそです。宇垣様が一歩引き、一度政友会の議員をされてまで次の総理の座を求められるのなら、平沼様も文句は言いにくいかと」
「確かにな。あのジジイの悔しげな顔が目に浮かぶ。それで?」
「平沼様とは内々でお話をして、次の次、くらいの口約束を交わします。そしてそれを」
「弟分の鈴木のやつに教えるのか。それでは鈴木は動けんな。これは面白い!」
「ただ問題は」
「床次を総裁にする件だな。それは私がしよう。話し合いで少しゴネた後に、今回が床次なら我慢するとでも長老どもに訴えかけるとしよう」
「そう簡単にいきますでしょうか」
「もちろん、鳳も長老どもを動かしてくれ。また法外な献金をするんだろ。それなら、原さんは確実に鳳の味方だ。高橋の爺さんも。犬養さんはイタリア嫌いだから、ドイツもイタリアもファッショだから鈴木はダメと言えば、それでこっちに付く。なるほど、勝ち筋が見えたな」
「はい。それに床次様は、犬養様の擁立で総裁を待たされた経緯もございます。鈴木様より相応しいかと」
「うん。その理屈も通るな。それに鈴木は好かん。その後ろにいる鳩山もな。床次なら、まあ馬鹿なことは言ってこんだろう」
予想外にアッサリと話が通ってしまった。
(という事は、話の後半も分かってたんじゃないかな? まっ、別に良いけど)
「それで、お嬢さん方の次の内閣の布陣予測は、どんな感じだ?」
ご機嫌なまま、宇垣さんが勝手に床屋談義的な話へと突入してしまった。
参考にしたいとかじゃあ絶対にないだろう。だからこちらも気軽に返す。
「まず総理は床次様。陸軍大臣、海軍大臣はそのまま林銑十郎様、山梨勝之進。これは動かないでしょう」
「そうだな。他は? 蔵相は高橋の爺さんか?」
「ご年齢を考えなければ高橋様が一番ですが」
「もう80だしな。犬養さんも勇退するなら、揃って引退だろ。まあ、どっちも元気なじいさんだから、90まで生きそうだがな」
二人との関係は良好なんだろう。そう言って陽気に笑う。
「宇垣様ご自身のご希望は?」
「外務大臣はもうなしだな。やりたい事もやった。それに次は軍縮会議もあるだろうし、露助より英米重視の大臣を入れた方が良い。鳳の希望はあるか? 私が推そう」
「だそうですよ、お父様」
「ん? 玲子がお伝えしろ。俺からはない」
「だそうだ、玲子さん。誰かいるかね?」
「そうですね」と少し考えるそぶりと一応入れつつ、ここは甘えた方が良いと判断する。
「外務省の広田弘毅様か吉田茂様」
「犬養さんが芳澤謙吉を推してきそうだが、では吉田を推そう」
「即決なのですね」
「鳳のことは多少は知っている。それに吉田は、確か犬養さんが気に入っていた男だ。あと広田は、少し前にモスクワにいただろ。露助通なら、私一人で十分だ」
「ではお言葉に甘えて、吉田茂様を外相に。となると、大きな椅子は内務大臣となりますが」
「まあ、無難な線だな。警官どもも従えるが、昔は元軍人も何人かなっている。問題はないだろ。それに内務省は、代議士や内務省出身の政治家のおもちゃにされすぎている。多少は、何とかしたいと思っていたところだ。それと土木の方は、鳳に期待させてもらう」
そこで一旦言葉を切ったので、こちらも強く頷き返す。
内務大臣は、副総理格の要職だから次の総理の順番を待つ席としては相応しいだろう。
ただ、もう一つこの場で話しておきたいポストがあった。
「あの、話を戻して大蔵大臣なのですけど」
「高橋の爺さん以外に誰かいるか? やはり三土か?」
「そうですね。三土忠造様あたりでしょうか」
「ん? 歯切れが悪いな。やはり高橋のじいさんが良いか?」
「いえ、この話はよしましょう。余計な事を申しました」
「いや、構わんよ。だがあの爺さんは、そろそろ休ませてやらんとな。見てるこっちが気の毒になる」
「はい。おっしゃる通りです」
「うん。では、仕事の話は終わりだ。このホテルの名物の、すいーつとやらを頂こうじゃないか」
言うや早いか、それまで手付かずだった目の前の皿の攻略を始めた。
皿の上にはレアチーズケーキ。鳳ホテル、鳳喫茶の新メニューだ。私が前世で作った淡い記憶を元に、パテシエ達が辿り着いたスイーツ。
私も頭の糖分が随分減った気がするから、ゆっくりと補給するとしよう。
芳澤謙吉:
犬養毅の娘婿。外交官出身の政治家。一族も外交一家。
孫の一人に、緒方貞子がいる。
三土忠造:
戦前の政界の重鎮の一人。財政通。高橋是清が後見していた政治家。
単体での政治力が弱いので、高橋是清の後見が必要。
それと土木の方は:
内務省は、21世紀だと様々に分割されている省庁も一つになっている巨大省庁。
戦後は、警察庁、建設省(国土交通省)、厚生省、労働省(厚生労働省)、神社本庁、公安調査庁が分離している事になる。
レアチーズケーキ:
日本発祥で、戦後すぐのものと言われる。
第一次世界大戦で捕虜になったドイツ人が開いた店で生み出された。
スフレチーズケーキも日本独特だけど、こちらは戦前からあった。
しかし広まるのは、戦後かなり経ってから。




