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悪役令嬢の十五年戦争  ~転生先は戦前の日本?! このままじゃあ破滅フラグを回避しても駄目じゃない!!~  作者: 扶桑かつみ
物語本編

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357 「海の英雄の旅立ち」

 1934年・昭和9年5月30日、東郷平八郎元帥が高みへと旅だった。膀胱ガンなど多くの病いを患った上での旅立ちとはいえ、この時代で満86歳なら十分に大往生だろう。


『東郷元帥薨去/三十日朝七時

 日本の誇りとして全世界の尊敬の的となって居た元帥東郷平八郎侯は病疾の喉頭癌と膀胱結石、神経痛及び気管支炎の悪化により、二十九日午後三時以来危篤に陥り、三十日午前七時薨去した旨午前七時五分海軍省から公表された。』


 日本一の発行部数を誇る新聞の一面の見出しと概要には、こう書かれていた。



 当然国葬で、国葬は6月5日、盛大に日比谷公園で行われた。

 また、世界中から弔電も寄越された。世界中が、日本海海戦の偉業を成し遂げた指揮官の死を悼んだ。

 そして国葬に際しては、世界中の各国海軍が儀礼艦を急ぎ日本に寄越した。

 死去から6日の葬儀なので、アジア各地にいた一番立派な船が現地の一番偉い提督を乗せてやってきた。

 そして横浜港では、日本海軍は並べられるだけの艦隊を並べ、駆けつけた各国の艦艇と共に半旗を掲げ、弔砲を発射した。


 葬儀には、鳳伯爵家として麒一郎が、鳳グループ総帥として善吉が参列した。他にも、鳳グループからは鳳石油の出光さんや、播磨造船の人など海軍と関係する人達が参列している。

 私は、新聞と総研での情報で諸々を知っただけ。

 会場となる日比谷公園は、鳳の本邸がある六本木から歩いて行けなくもない距離だけど、そもそも私は安易に人だかりに近寄る事を許されていない。それ以前に、世界的な英雄の葬儀に子供が参列するようなものじゃない。

 だから情報として知って、それでおしまい。


 同じ時代を10年ばかり共に生きた事になるけど、私は海軍との接点が少ないし、東郷元帥と言われてもロンドン会議の時にその名前を聞いたくらいでしかない。

 誰でも知っている国民的英雄だけど、一国民として東郷元帥という情報を知っているだけだ。


 私の前世の記憶が確かなら、海軍のゴタゴタで晩節を汚した筈だけど、そう言う話はついに聞かなかったから、私の知らない所で何かが変化したと思うしかない。恐らくは、ロンドン会議辺りで政治利用されたんだろう。

 それだけ、政治的影響力の大き過ぎる人だった。そしてその人が海軍から遂にいなくなった。


 東郷元帥に次ぐ権威の持ち主だと、以前は伏見宮博恭王殿下がいらした。けど、海軍大粛清で海軍を去り、今は長老皇族のお一人として、時折宮城に参じて陛下とお話になるくらいだと聞いている。

 周囲の目もあるから、海軍には一切関わらなくなった。海軍の誰かと密会しているという噂もない。


 そして東郷元帥の死去により、海軍は大きな権威を持った人物はいなくなった。艦隊派の大物達は、海軍大粛清で海軍どころか日本の政治、軍事から排除されてしまった。合わせて、海軍に残った軍縮に不満を持つ者は、海軍の主流からほぼ全員が外された。

 そして事件からもう4年、残された少し若い軍人達も役職に相応しい年齢になり、安定も強まっていると言う。



「『東洋のネルソン』に『東洋のテルピッツ』か。やっぱり、凄い人だったのね」


「玲子、流石に失礼じゃないか?」


「うん。でも、実感なさすぎて」


「それは分からんでもないな。葬儀に参列してもそうだったからな」


 東郷元帥の国葬のあった夕方、戻ったお父様な祖父らを居間で出迎えての会話だ。

 部屋には善吉大叔父さんら、鳳の本邸に住む一族の殆どの者が話を聞こうと集まっている。


 国葬のあった日は平日だったけど、半ば休日状態。子供は学校に行ったけど、女学校ですらこの1週間ほど東郷元帥の話で持ちきりだった。そして国葬のある今日と、明日がそのフィナーレとなるのだろう。だから、何かを聞かれた場合に備えて、新聞などにないネタを得ようと言う魂胆だった。

 けれども、葬儀に参列したお父様な祖父、善吉大叔父さんからは、これと言ったネタはなさそう。

 そこで次点となる、お兄様へと顔ごと向ける。


 お兄様はこの春に少佐に昇進して、陸軍省勤務になっている。なんでも、3月にお兄様を可愛がっている永田鉄山少将が、陸軍省軍務局長になったから、少佐昇進と合わせて呼び寄せたのだそうだ。

 陸軍省軍務局長は、陸軍省内で陸軍大臣、陸軍次官に次いで政治折衝の中心的な立ち位置にある。陸軍省と言う陸軍内の官僚機構の実務職の中では、一番大きな力を持つポストになる。


 さらに加えると、宇垣外相に手も足も出なかった陸軍大臣の荒木貞夫大将は、今年1月に病気で陸軍大臣を辞任した。

 ただ病気は半ば言い訳で、一夕会、それに『皇道派』予備軍の右寄りな人達からの期待を完全に裏切り、失望されたからだった。ある意味荒木大将は、宇垣一成と一夕会の対立の犠牲者と言えるだろう。

 ただ荒木大将が消えると、一夕会の手駒は参謀次長だった真崎甚三郎か、陸軍三長官のひとつ教育総監兼軍事参議官の林銑十郎となる。


 どちらも、荒木大将共々、一夕会が陸軍を勝手に動かしたくてポストに据えた操り人形だ。

 けど、陸軍参謀長は、皇族の閑院宮載仁親王殿下。そして殿下は、真崎次官が勝手な事ばかりするから、真崎を嫌っていた。加えて陸軍次官時代に、陛下からの評価も最低で、叱責されていた。


 そしてその噂がいつの間にか広まって、陛下の信を得ず、殿下を蔑ろにしたと言う事で、精神論が大好きな人達の多くからも失望された。

 だから次の大臣に真崎の目はなし。

 それに真崎は荒木の腹心だったから、荒木が失望されるのと合わせてさらに人気も落ちていた。荒木を補佐出来る役職じゃないのに、補佐しなかったとも見られた。


 一方で陸軍内では、外交的成果で大陸利権を日本有利でものにした、宇垣一成への期待と人気が高まっている。しかも宇垣は外相なのに、陸軍予算獲得でも陸軍に味方するような動きを見せているから、尚一層、一般の陸軍将校からの受けがいい。


 そんな感じで、一夕会が維持されて『皇道派』が存在しないのに、次から次へと右寄りな人達の神輿が舞台から消えつつある事になる。

 ついでに言えば、殿下は真崎も嫌いだけど真崎を裏で操っている一夕会もあまり気に入らない。当然、林も気に入っていない。皇族だから、表立って文句を言うことが少ないだけだ。


 そして文句も言われないから、林銑十郎が新たな陸軍大臣となり、真崎甚三郎は『予備』として、また、陛下や殿下の件はともかくと言う見方をする一部の熱烈な支持者がいる事もあって教育総監となった。

 これに批判もあったけど、年齢や席次の点で見ればそこまで酷い人事でもない。それに教育総監なら、害も少ないと言う見方もあった。


 もっとも、陸軍の主流はソ連に対抗出来る総力戦体制構築だから、基本的には統制派の考えが主流だ。

 物質より精神を重視する、より極端に言えば天皇陛下を中心とする『皇道派』な考えの者は少数派で、一部の若手将校以外の大半は日和見もあって離れつつあった。


 そして陸軍省の中枢に入ったお兄様だけど、お兄様は永田鉄山に可愛がられていて、永田らの『国家総力戦』の担い手の一人。さらに言えば、その先すら行く理論面での先駆者になっている。

 ただお兄様の理論は、より長い目から見た国力拡充、軍事力の整備、それに政治体制の整備だ。5年先ではなく、最低でも10年先を見ている。政治面では、四半世紀かそれ以上先すら見ている。


 だから一夕会と永田鉄山らとの関係を活かすことで、自分の理論実現に向けて動いていると言って良かった。

 そしてお兄様は、同期の33期かそれより下の将校達の多くに信奉されていた。お兄様の方も、面倒見が良いのもあって、漸進的な総力戦体制の構築を根気強く説いている。


 けど今は、服部卓四郎が今年6月からフランス駐在中。代わりにと言うべきか、西田税が陸軍省に勤務している。こないだも西田は、お兄様の家に遊びに来ていた。そして本館にも足を運び、お父様な祖父とも何やら話していたみたいだ。他だと、今や西田より私の心の奥底での天敵である辻政信は、参謀本部勤務。


 ただし西田は、一年ほど中央勤務したら欧州のどこかの駐在武官に、辻はもっと早くこの秋にはモスクワ駐在武官と噂されている。一夕会が人事を握っている以上、ほぼ確定だろう。実に良いことだ。


 また一方では、お兄様の進む道は地道な積み重ねが必要だ。だから若い人ほど、「まどろっこしい」とか「甘い」、「手緩い」とか一見格好いいこと言って離れていく。いつぞやのパーティーで見かけた『二・二六』メンバーの一部も、その類いらしい。

 そういう輩は、壊すより作る方がはるかに難しいと分かっていない。私から見れば、度し難い連中だ。

 『二・二六』メンバーの逸話とか嫌いじゃないんだけど。


 ともかく、海軍は東郷元帥の死という分かりやすい事件で節目となったけど、陸軍の方も時代が変わりつつあるみたいだ。


東郷 平八郎 (とうごう へいはちろう):

幕末の戊辰戦争から戦い続けた海の男。

日露戦争での日本海海戦で、日本艦隊を率いた提督として世界的にも有名。存命の頃は、生きた伝説状態だった。

半ば周りに政治利用され、晩節を汚したのが悔やまれる。

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― 新着の感想 ―
[一言] 真崎が大臣になれなかった不平不満をを文書にして皇道派青年将校に配布したり、 それを相澤三郎が読んだりしていませんように
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