356 「秋への備え」
5月17日、アメリカ政府がようやくソ連を承認した。左寄りが多いルーズベルト政権は、本当はもっと早くしたかったみたいだけど、国内の共産主義に対する強い反発から国内の説得に時間を取られた結果だった。
その二日後の5月19日、アメリカ政府は金輸出禁止令を出した。これにより、ドルと金の兌換が禁止となる。合わせて、アメリカ国内での金貨などの退蔵も禁止された。
そしてこれは、フェニックス・ファンドが1929年までに金地金か金貨に変えてアメリカ国内各所に貯金した状態の金に影響した。
基本的にフェニックス・ファンドの金は、アメリカの銀行、財閥、そしてアメリカの王様達への人質に近い。けど、アメリカ政府への同種のものじゃあない。
一方で、アメリカに置き続けるものだから、アメリカ国外に出せなくても気にはならない。そういう類のものだ。
けれども、ただ置いていても芸がないし、お金には仕事をさせてあげるものだ。だから金を担保にドルなどを借りたり、主にアメリカで運用したりしている。
そして銀行に預けてあるから、退蔵、要するにタンス預金している訳じゃあない。
ただ、フェニックス・ファンドの重大事は、時田かセバスチャンにしか任せられない。けどセバスチャンは、商事の仕事が忙しい。そこで、時田が久しぶりに渡米する事になった。
けど、そこまで激務じゃなくて、半分は休暇配置だ。
何しろ、北太平洋航路だけで往復1ヶ月。現地に行くまでの仕事を取り上げておけば、最低でも行きはのんびり過ごさざるを得ないだろう。そしてのんびりさせる為に、奥さんで鳳の本邸の女中頭である麻里にも、時田の世話役という事で同行させた。
まあ、半年くらいは、のんびりと仕事をしつつ休暇を楽しんで欲しい。
なお、以前のレートでの1億ドルは、1オンス=35ドルとなって、勝手に7割増しになってしまった。
以前同じだけアメリカ国外に持ち出し、今もスイスには以前の分と合わせて1億ドル、日本に2000万ドル分以上がある。これも勝手に7割増しだ。
さらに円に換算すると、総額でざっと11億円分。うちアメリカ以外の分だけだと、5億6、7000万円分。
けどアメリカも、一旦外に持ち出した分まで文句は言ってない。アメリカ国内にある金に関してだけだ。しかもフェニックスは、別に退蔵してない。ただ、少しくらい心象を良くして置いた方が良いので、一部をドルに換金してあげた。
そしてそのドルは、日本政府と調整して2年ほどかけて日本にやって来る。締めて2000万ドル分で、円だと5600万から5700万円分ほど。
1931年冬に、日本の財閥、銀行とアメリカの銀行がドル投機した時に動いた額に比べれば、実に可愛いものだ。しかも今の日本は未曾有の好景気に突入しているから、むしろウェルカムな状態。
ついでなので、アメリカ株で儲けた一部も現金化して、日本に運び込んだ。合わせると1億円分くらいになる。
そしてアメリカからの一部資金の移動に併行する形で、行う事があった。
「予想通りというか、予想した以上に今年は涼しそうね」
「5月でこれだからね。仮に、夏、梅雨明けに盛り返しても、もう一部はダメなんじゃない?」
「じゃあ動くの?」
季節の会話のようでそうじゃない。私の仕事部屋で、お芳ちゃん、マイさんと仕事の合間の軽いブレーン・ストーミング。今日の昼間の警備当番は輝男くんなので、輝男くんを加えても良いけど、聞かないと答えないのが輝男くんだ。
だから、扉の側に座って待機している輝男くんからは、静かな視線が一瞬だけ私達に向けられるだけ。
「うん。予定通り。その前に政府に働きかけしないとだけど」
「選挙の季節に入りそうだよね」
「でも政友会は、この好景気中の選挙で勝つ気よね」
「けど、今年の気候が不作そうだって、気づく人は気づいているでしょ。不作が決定的になる夏前に選挙があるかもって、こないだ貪狼司令も言ってたのよね」
「お嬢の『夢』は、全然違うんだよね」
「『夢』だと、どうなるんですか?」
「32年5月に犬養さんが暗殺された後は、今の時期の内閣自体は海軍の斎藤実が総理。他の閣僚は、一部が犬養内閣からの留任。その斎藤内閣は、疑獄の疑いで総辞職」
「その疑獄の原因が、1927年に崩壊する鈴木商店絡みだけど、お嬢が大元から捻じ曲げちゃったから疑惑すら起きる筈もなし」
「細かく話すと色々あるけど、だいたいそんな感じ。一度、私の『夢』をひとつながりで話した方がいいかな?」
「いや、あれは聞かない方が良いと思うよ。聞いた方が、普通はしばらく悪い夢を見るから」
マイさんが答える前に、既に聞いているお芳ちゃんの即突っ込み。
「自分は喜んで聞いたくせに」
「うん。私は不幸が大好きだから別に良いんだよ。でも、普通の感覚を持っている人は、極力聞かない方がいい。お嬢も、マイさんを側に置くのはそういう意図があるんでしょ」
「そうだったわね。じゃあ、私は聞かない事にするわ。その時、必要な事だけ聞かせてちょうだい」
「ハーイ。まあ、そんな感じなんで、普通の選挙になると思うのよ」
「他に何か事件になるような『夢』もないのね」
「うん。今年のこの辺りだと……来月に例のアヒルさんがデビューした筈」
「「ハ?」」
二人にハモられた。少し向こうでは、輝男くんも頭に疑問符を浮かべている。
マイさんも、言葉が素に戻っていた。
「アヒルがどうかしたの?」
「お嬢のそういう妙な話って、だいたいあれだよね」
「ああ、ウォルト・ディズニーか」
ぼそりと呟いた輝男くんの声に、マイさんが文字通り手を打つ。
「ああっ、映画か。アニメーションよね」
「はい。確か短編アニメです。今回も内輪でなら見られますよ」
「楽しみ。でも、日本で上映はやっぱり難しいの?」
「配給のお代が、アメリカと日本じゃあ違いすぎて。だから、日本でもアニメーションが作れないかって、色々計画は動いてもらっているんですよ」
「そうなんだ。私が知らないということは、私が来る前から?」
「はい。1930年には始動させています。機材も買うか作るかして、今は簡単な作品を作りつつ人材や組織自体の育成中ですね。小学校向けとかで、上映もしていますよ。けど、何をするにしても、人材育成が一番大変。今年か来年くらいには、多少は形になると思います」
「そういう計画だと、夢もあるし心も踊るのにね」
そう言って小さく苦笑する。
そう、話題はそんな明るい話題じゃない。
「それで、心踊らない方の対策は?」
「もう準備はしているでしょう。だから今は根回し中。お父様と善吉大叔父様が動いているわ」
「そういえば、お嬢にお呼びがかからないね」
「前に出過ぎるなって、釘刺されてる」
「なるほど、そりゃ当然か。根回しの相手は、犬養毅総理、高橋是清蔵相、政友会の原敬、あとは吉田様だったっけ?」
「吉田様? 外務省の吉田茂様ですか?」
「うん」マイさんの質問に頷きつつ、どう話すか少し考える。
「吉田茂は、小松製作所の創業者の血縁だから、うちと懇意なのは知っていますよね。それに牧野伸顕が岳父で、田中義一内閣時代に外務次官で、犬養毅総理に個人的に気に入られてもいるから次の外務大臣狙っていて、うちも後押ししているんです」
「そうなのね。じゃあ、内大臣の牧野様にも?」
「宮中は、紅龍先生に伝言役だけ頼んでいます」
「紅龍さんに? その、陛下に、いいの?」
「うん。だから陛下には絶対に言わない。宮城に行けば宮中の大臣の誰かには必ず会うから、そこで軽く触れるだけ。もしくはうちから伝言を託すだけ。宮城なら、周りに邪魔もいないしね」
「紅龍さんも大変ね」
「陛下のご進講に比べれば、大臣相手は大したことないって。最近開き直っているみたい」
「そういえば、紅龍さんとはたまに会っているんだっけ?」
「うん。屋敷も学園の側だから、たまに遊びにも。こないだなんて、女学校で呼ばれた。何事かって行ってみたら、ご進講のネタをくれって。相変わらず、マイペースな人なのよねえ」
「アハハ。でも、凄く良い方よね」
「結婚してからは、丸くなったかな。それに口ではご進講は大変って言ってたけど、陛下と楽しそうにしているみたいだし、実は大物なのかもって疑いそう」
「いやいや、大物でしょう。ノーベル賞に2回も選ばれたのよ。もう世界的な偉人じゃない」
「そうなんだけど、直に紅龍先生と話していると、ねえ」
そう思いつつ無精髭ヅラを思い出す。
そうすると、私が微妙な表情だったんだろう、マイさんが苦笑している。
「そういうところも含めて人徳よ」
「人徳かあ。うちの国への奉仕は多分今回限りだから、あとは叩かれるんだろうなあ」
30年の春の献金、豊作、凶作時の様々な支援と援助、それに地方での事業、33年の献金と色々してきた。今年は総決算状態で色々とする。そしてあぶく銭とはいえ、随分と散財した。
それでもうちは財閥で華族。それだけで叩かれる。人徳とかそれまでの貢献とかを向こうはガン無視するのは、今までの事例から間違いない。
その上鳳は、何かをするために政治家も動かした。叩きたい人達、限られた視野しか持たない人たちにとっては、叩く理由としては申し分ないだろう。
みんなそれを分かっているから、私の愚痴に無責任な慰めとかはない。
「突破口はないの?」
「あるにはある」
「是非聞きたいね。私は分からなかった」
マイさんの心配げな声に対して、お芳ちゃんは冗談以上の感心声。と言っても、胸を張って言えるほどの事はない。
「多少強引でも、このまま好景気を続けられるだけ続けて、資本主義の奔流で一切合切押し流す」
「相変わらずの力技だなあ」
「『衣食足りて礼節を知る』ね。お腹いっぱいだと文句言う人も減るし、支持がなければお馬鹿さんも減るって事か」
「うん。もう、それしかない」
「凄く前向きな考えで、ちょっとホッとした」
「うちは商人だから、全体主義も統制経済も糞食らえだしね」
「違いないわね。じゃあその為にも、もう一踏ん張りしましょうか」
アメリカのソ連承認:
史実は、この世界より半年早い1933年11月17日。
5月19日:
史実では1934年4月19日。
例のアヒルさん:
ドナルド・ダックと言っていると思って下さい。
1934年6月9日、短編アニメ「かしこいメンドリ」に初登場。




