あのお話の続き
「父は、私がそこにいることを知って大層驚きになったようでした。それでも大声をお上げになったり、私を叱ったりなさることはありませんでした。
ただ、
『火が消えているね』
と仰って、常夜灯の役を与えられていた小さな卓上灯を取り上げると、お持ちになってイラした菜種の油を、油壺に注ぎ足されたのです。
父は、最初からそのおつもりで……つまり、切れかかっていた油を補給するつもりで、この夜夜中になって古い屋敷に見えたのです。私がそこに忍び込んでいるなどとはちっともお考えにならずに」
「お殿様が、油を?」
イーヴァン少年の声音の裏には、驚きと疑念があった。彼には「一国一城の主」がそのような雑用をするということが信じられなかった。
エル=クレールは少しばかり気恥ずかしげに、
「君の亡き父上や、あるいは姉上……ヨハンナヨハンナ・グラーヴ殿であれば、このようなことは決してなさらないでしょうね。
しかし、我が家は家格はそこそこ高いというのに、とてもとても、恐ろしく貧乏だったのです。
お恥ずかしい話ですけれども、従者たちを雇うにも十分な禄を与えるだけの余裕がありませんでした。
はっきり言えば、全ての者たちには夜勤の手当てを出せなかったのですよ。
よって、領主であろうと、その子供であろうと、自分の手の届く範囲のことは、自分で行うのが当然になっていました。
灯明の油が切れかかっているのに気付いたら、気付いたその者が――それが例え領主であっても、率先して補充するのが当たり前だったのです」
エル=クレールが少々憚るように言うと、ブライトが、
「もっとも、さすがに『やんごとなき若い奥方様』には、そんなこたぁさせなかったろうな」
後頭部を掻きながら呟くいた。
エル=クレールは小さい頷きを返した。
彼女の口元には笑みが浮かんでいたが、眼の色は少しばかり淋しげに曇っている。
「そういうわけですから、父は手慣れた手つきで油を注ぎました。油がゆっくりと流れ落ちるのを、父は楽しげに……本当に楽しそうに見ておられました」
「油を差すのが楽しい、ですか? 若先生には申し訳ありませんが、若先生のお父君は変わった御方ですね」
イーヴァンが言い終わるらぬうちに、彼の脳天がゴツリと大きな音を立てた。
『黙れ』
という言葉は、口から出すよりも拳に言わせた方が早くて確実だ、と考えるのが、ブライトの思考の基本的な傾向だ。
効果は覿面だった。
イーヴァン少年は黙り込んだ。目に涙を滲ませている。
エル=クレールはブライトの乱暴さを咎め抗議する眼差しを彼に送った。
だがそれは彼が「話を続けろ」と指図するために突き出された顎で跳ね返された。
指図に逆らうことは許されていないし、逆らうつもりはない。
エル=クレールは小さな笑みを頬に浮かべた。
「卓上灯の明かりは小さなものでしたが、狭い部屋を隅々まで照らすにはそれで充分でした。父は部屋を見回して、机や椅子が元の場所より少しばかり動いているのを確認すると、
『さて、お前は何処をぶつけたのだね? さぞかし痛かったであろうよ』
少し意地悪に仰せになりました。
私は意地を張って、
『背中を打ちました。ですが少しも痛くなどありません』
少し正直に、少し嘘を吐いて応えました。
本当は背中ばかりか頭の後ろあたりまでの広い範囲がひりひりと痛んだのですが、それを言うのが恥ずかしかったのです。
父が、
『左様か』
と、穏やかに笑ってくれたので、私は内心ほっとしたものです。
何分にも、まだ『叱られるやも知れない』という不安が残っていましたから」
エル=クレールはちらりとブライトの顔色を窺った。語るのを止めろと言われたら、すぐにそうするつもりで居た。
彼は目を軽く、口を硬く閉じていた。
エル=クレールは言葉を続けた。
「それから父は、机を……それほど大きくはない、天板が殆ど真四角な食卓したが……それが元の位置からずれていたのを戻して、
『椅子を四辺に各々一つずつ』
と私に命じました」
「……椅子は四脚だったのか?」
ブライトは目を閉じたまま訊いてきた。
だからエル=クレールが、
「四脚です。質素な肘掛け付きの椅子が一つ、座面に柔らかい布が敷かれたものが一つ、残り二つは少し小振りなものでした」
と言ったときの顔つきを彼は視ていない筈だ。
その回答が、彼が待っていた物と同じであったことに、
「やはり、な……」
独り合点して頷くのを見た時のエル=クレールの表情も、当然目にしていない。
「で?」
ブライトがまた顎で「先を続けろ」と指示を出す。エル=クレールは一つ大きな息を吐いた。
「それから父は、床の上に落ちてしまった貴婦人と二人の少年の肖像画を……」
「つまり、お前さんの親父の前の女房と、お前さんが生まれずっと前に死ンじまった兄貴二人の描かれた?」
エル=クレールは頷いた。彼がそう言うだろうことは予測できていた。
自分の身の上話を他人の物のように語った「嘘」をあっさりと見破った彼のことだから、それぐらい秘密など秘密のうちに入らないだろうと解っていたのだ。
しかしイーヴァンは驚いていた。目を見開き、しかし口は閉ざしたまま堪えた。
『それで二人の少年が「お殿様」に似ていた』
という得心の言葉を呑み込まずに声に出せば、また「大先生」に殴られるに違いなかった。
目玉をそっと動かして、ちらりとブライトの顔を見る。
彼はまだ瞑目していた。




