094 プロローグ
黄金色の稲穂が太陽の光を精一杯に浴びて光っている。螺の冷たく硬い風で揺れて小気味いい音をならす。北大荒では百年に一度だってお目にかかれなかった光景だ。
豊かな田園を駆けている少年と少女。
どちらも無邪気に笑っている。
少年の方はまだ幼気でありながらもその顔には凶相のような影がある。しかし少女の方は清廉なみずみずしい美しいものだった。
2人は正反対に見えた。
少年の服はまるでボロのようだったが、少女の服は長袍といわれる貴婦人が着用する上質なものだった。
少年は裸足だが少女は可愛らしい靴を履いている。
――俺は大きな鏡を見ていた。
「もうやめよう、兄弟」
俺の隣に立つ男がつらそうに目を閉じて言う。
「これはお前の思い出なんだろ?」
「思い出したくないことくらいある、この俺様にだって」
鏡の中で少年と少女が楽しそうに遊んでいる。なにがそんなに幸せなのだろうか、少年時代というものはいつだってそうだった。毎日が楽しかった。
隣にいるこの男にしたってそのはずだ。
いまではこの大地を統べるにもう一歩となり、万人に英雄と認められ、それと引き換えにおびただしい数の人間を殺めてきただろうこの男だとしても。
子供の頃はこんなにも優しげに笑っていたのだ。
「見たくないんならやめようぜ。俺だって他人様の思い出を見たところで面白くもなんともない」
そう言って俺は鏡の置いてある神殿を出ようとする。
だが、その瞬間だ。
鏡の中に映し出された光景が変化した。
『待てよ!』
少年が叫んだ。
『その娘をどこにやるつもりだよ、連れてくな! 連れてくなって!』
先程まで一緒に遊んでいた少女が馬車に乗せられる。
周りには兵隊だろう、鎧を着込んだ大人たちがいる。
それに対して少年は必死にあらがい、なんとか少女を連れ戻そうとする。しかしその場に組み伏せられてしまった。
「やめよう――」
と、かつては少年であった男が言った。
「でよう」
と、俺も言う。
これは俺が見るべきものではない。
あきらかにこれは男のトラウマだ。こんなものを他人が見るべきではないのだ。
『やめてくれ、連れて行かないでくれ! そいつだけなんだ! 鈴上だけは連れて行かないでくれ、俺にはそいつしかいないんだ!』
隣にいる男が大型のモーゼル拳銃を取り出す。
「おい、落ち着け! やめろ、やめろ!」
俺は慌てて男を止める。
「うるせえ! こんなもん見せられて、ふざけんじゃねえぞ!」
男は俺の制止を振り払い、かつての自分に対してモーゼルを向けた。
だが、その手が止まる。
馬車に乗り込もうとする少女が振り返り、まるでこちらで見ている俺たちに言うかのように言葉を発した。
『大丈夫、私は平気だから。天白も私のことなんて忘れて。それに私、幸せなんだよ。こんな奇麗な服も着せてもらえて、パアパアやマアマアにもお金がいくでしょ。だからね、だから幸せなの』
男はモーゼル拳銃を下ろした。
撃てなかったのだ、その少女が映る鏡を撃てなかったのだ。
そしてその場に突っ伏した。
「クソがあっ!」
全力で床を叩く。
その目からは涙がこぼれていた。
敵から鬼や悪魔とまで言われる男――東満省の支配者である張作良がその目から涙をこぼしていたのだ。
やはり見るべきではなかった、こんなものは。
俺だったら耐えられないだろう。
こんな鏡は粉々にしていただろう。
しかしティンバイはそれをしなかった。この鏡を壊すことは民のためにはならないと知っているのだ。
この鏡を見て死んだ子を思い出す親を、生き別れた兄弟を思い出す者を、先にいった伴侶を思い出す老人を、それら全ての思いを知っていたのだ。
だから彼は寸前でとどまった。
それでこそ英雄、張作良だ。民草のために立った男は激昂しても自らよりも民のことを優先してみせた。
「でるぞ、兄弟。もう十分だ」
「そうだな」
俺はティンバイの肩に手を置く。
ティンバイはその大きな手で俺の手を振り払う。なめるなよ、とそういう態度だ。たしかにな、と
俺は苦笑いを浮かべてしまう。
神殿の入り口から誰かが覗いていた。シャネルだ。
「どう、鑑賞会は終わった?」
「終わったよ、もう出る」
「どうだった?」
「あんまり」
「あんたの言う通りだったよ」と、ティンバイは忌々しげに言う。「こんなもん、見るべきじゃなかった」
「でしょうね」と、シャネルは冷たく答えた。
いつだってシャネルは俺以外の男に冷たい。
「シャネルは見ないのか?」
「ふん、過去になんて興味ないわよ私」
シャネルはそういうと俺に投げキッスを一つした。
「なんだよ」
「シンクたち殿方は違うかもしれないけどね、女は過去よりも未来なのよ」
そういうもんか、と俺とティンバイは顔を見合わせた。
――そういうもんか?
――さあ?
鏡はもうなにも写していなかった。
今日から第3章
舞台は今までのエセヨーロッパからエセ中国へ
長くなるかもしれませんが気長に読んでもらえれば嬉しいです




