090 不完全な人形
夕方になってシャネルがやってきて、俺は安心して思わず彼女に抱きつきそうになった。
って言ってもエッチな意味じゃないよ。ただこの空気に耐えられなかっただけなのだ。
「いらっしゃいませ、シャネル・カブリオレ様」
「あら、名乗ったかしら私」
「榎本シンク様に聞きました」
とにかく会話がなくて、俺はさっき自分とシャネルの名前を言ったのを覚えている。『えーっと、俺が榎本シンクで、一緒にいたのがシャネル・カブリオレ』『そうですか』しかし会話は一瞬で終わった。
相手が人形なら話がしやすいと思ったかい? ところがどっこい、相手が人形であると思った途端にどんな話をすればいいのかまったく分からなくなったのだ。
それに加えてメイドさんの方も俺との会話を楽しむつもりなんてまったくないようで。そうなるといよいよもって会話などなくなった。
長い、長い沈黙の中で俺はいまかいまかとシャネルが来るのを待っていたのだ。
ミナヅキのやつもさっさと帰っちまったしよ。
なんにせよ俺はやっぱりコミュ障のダメ人間なのだ。シャネルがいないと間をもたせることもできない。
「どうぞ、お座りください。なにか飲まれますか?」
「シンクそれ、なに飲んでるの?」
「お茶」
このお茶もいったい何杯飲んだろうか。もうお腹たぷたぷだ。
「良さそうね、私もそれもらえるかしら?」
「かしこまりました」
シャネルは俺の隣に座った。
なんでも良いけどこの家はヨツヤ老人とこのメイドさん人形の二人暮らしなのに、椅子は4脚あるんだよな。まあ来客用なのだろうが。
「それでシンク、どうだったの?」
メイドさんがお茶を淹れてくれている。
「なにが?」
「一人で大丈夫だった?」
「ぜんぜん」
でしょうね、というふうにシャネルは笑った。
「最初のうちは良かったんだけどな。たまたま知り合いが来てさ、ほら覚えてるか。この前の治療院のさ、ミナヅキっていうんだけど」
「ああ、あの男の人ね」
「そそ、あいつがいたおかげでちょっとは良かったんだけどな。帰ってからはさんざん。たぶんほとんど会話してない」
「ちょっと疑問なのだけど、シンクとあの男の人ってどこで知り合ったの?」
「え? あ、いや。あはは」
誤魔化し笑い。
いやね、俺もそろそろシャネルには本当のことを話すべきだと思うんですよ、異世界から来たんだって。でもなんだかそのきっかけが掴めなくて。
少なくともいまじゃないことだけは確かだ。
「ま、言いたくないなら良いのだけどね。でも隠し事って良いことじゃないわよ」
「じゃあさ、シャネルは俺になにも隠してないのかよ」
「そりゃあ隠し事くらいあるわよ」
こいつ、秒で矛盾しやがった。
いるよね、自分のことは棚にあげるやつ。
「あるのかい」
「そりゃあそうよ。女は隠し事で美しくなるって、よく言うでしょ?」
「聞いたことない」
「じゃあ覚えておくのね」
……シャネルの隠し事か。いったいなんだろう。気にならないといったら嘘になる。
「どうぞ、お茶です」
「あら、いい香りね。ありがとう」
シャネルはティーカップに入ったお茶を一口飲む。その口元がほころんだ。
「お口にあいますでしょうか?」
「ええ、とっても美味しいわ」
シャネルは優雅にカップを置く。
うーん、それにしてもシャネルってちょっと高飛車な性格――俺には甘いけど――なんだよな。そういうのって優雅とか高貴っていえば聞こえはいいけど、下手すりゃ生意気ってもんだよ。俺には甘いから――以下略。
「それよりシャネル、ちょっと」
「なあに?」
じつはこれ、話したくてうずうずしてたんだ。
「あのな、驚かないで聞いてくれ」
「まあ、驚いたこと」
「茶化すなよ」
「先に驚いておいたのよ。それでなあに?」
俺はちらっとメイドさんの方を見る。
彼女はかたくなに自分は座ろうとしない。まあ人形なのだから疲れもしないだろうけど。
「じつはあのメイドさん、人間じゃないんだ」
「うん?」
シャネルは分からないというふうに小首をかしげた。
「この依頼をだしたヨツヤと話したんだ。それで教えてもらった。あれは人形らしい」
「それは……さすがに驚くわね」
ヨツヤ老人は現在、また寝ている。さきほどまで咳をしていたがそれもいまでは聞こえない。
「だろう? なんでもヨツヤが完璧な人形を作ろうとして、幻創種と取引をしたらしいんだ」
「その結果できたのが、そのメイドさん?」
「らしい」
シャネルはメイドさんを手招きする。
「ちょっと良いかしら?」
「はい、なんでしょうか」
メイドさんが近よってくる。
「貴女が人形って本当?」
さすがシャネル、しっかりと直球で聞いてくれる。じつはこれを狙っていたのだ。
メイドさんはコクリと頷いた。
「はい、私はご主人様の作った人形です」
「驚いたわ。どうして動けるの?」
「それは私にもよくわかりません。ただ生まれたその時から私はこうでした」
「ちょっと触ってみても良い?」
「どうぞ」
メイドさんが手を差し出す。その手をシャネルがペタペタと触る。
「うーん、普通だわ。シンクも触ってみる?」
「え、あ……うん」
いきなり言われてドキドキしながらメイドさんの手を触ってみる。いや、この前いっかい握ったんだけどね、そのときも違和感なんてなかったし。
「分からないわ、本当に人形なの?」
「はい。そうです」
シャネルが肩をすくめてみせた。
「この世界には不思議なことがいっぱいあるものね」
その通りだと思った。
「食事とかはとるの?」
ミーハーなシャネルは興味津々らしい。
「ノン」
と、メイドさんは洒落て答えた。
「ということは排泄もないわけね」
「下品だぞ、シャネル」
「あら、失礼しました。おほほ」
「ちなみに感情もありませんので、もしかしたら失礼なことをしてしまうかもしれません。あしから
ず」
だろうね、と俺は心のどこかで思った。そう考えればこの人はやはり人形なのだろう。
しかしそれを本当に完璧な人形といえるものだろうか。不完全、とは言いたくないが。
「人形ねえ……」
シャネルはまじまじとメイドさんを見つめた。その目はどこか自分と同族のものを見るかのように
思えた。
――そして結局、この日もやってきた男には一度も攻撃をあてられることなど、できなかったのだった。




