750 星の近い夜
夢を見ていた。
ティンバイは驚いていた。
あんな古い夢を見たことに対してではない、リンシャンのことはいまでもよく思い出すし、ずっと自分の心の中に彼女は存在すると思っている。
それよりも、自分が眠ってしまったことに驚いたのだ。
「気が抜けてやがるぜ」
それとも疲れがたまっていたのだろうか。
なんにせよ久しぶりのしっかりとした睡眠で、ティンバイはかなりの英気を養うことができた。いまなら千里だって駆け抜けられそうだ。
とはいえ、寝過ごしたわけではない。
まだ外は暗く、おそらく眠っていたのは3、4時間程度だろう。
「おい、シャオシー」
ティンバイは猫のように丸まっている少年を揺り起こす。
「んっ……」
「目を覚ましな、行くぞ」
シャオシーは飛び起きて、あたりを見回す。
「ヅォさん、ああ良かった!」
何事か、ホッとしたように胸を撫で下ろした。
「どうかしたか?」
「オイラが起きたときに、いてくれて。もしかしたら目を覚ましたときにはいなくなってるかと思って」
「俺様がそんな不義理なことをするかよ。ほら、さっさと行くぞ。それとも何か準備が必要か?」
「そんなものないさ! さあ、行こう、ヅォさん!」
元気だ。
これから人を殺しに行こうとする子供とは思えない。
自分がリンシャンを助けに行くときはどうだったか? もっと深刻そうな顔をして、必死の思いで歩いて気もするが。
とはいえ、あのときは1人だった。しかしシャオシーには自分がついている。自分で言うのもなんだが、これほど心強い味方はあるまい。
この広いルオの大地で、張天白と対等に渡り合える者などどこにもいないのだから。
外に出て、真っ白い毛並みの愛馬に飛び乗る。馬上からシャオシーに手を差し伸べた。
「さあ、乗りな」
「オイラも乗って良いのかい?」
「当たり前だろうが。歩いて行くつもりか?」
おずおずとシャオシーは手をとった。ティンバイはその軽い体をひょいと持ち上げて、自分の前にシャオシーを抱き込むようにして乗せた。
「わあっ!」と、シャオシーは歓喜の声を上げた。
「なんだなんだ?」
「すっごいや、星があんなに近くに!」
ティンバイは笑ってしまう。
「星が近いって?」
そんなこと、いままで考えたこともなかった。
たしかに馬に乗れば天空に浮かぶ星にほんの少しでも近づくだろう。けれどまだまだ遠い。どれだけ伸ばしても手が届かぬほどに。
それでもこの子は星が近いとそう言ったのだ。
そうかもしれないな、とティンバイは思った。
幼い頃はどれだけ遠い星でも伸ばせば手が届くとそう信じていたような、そんな気がする。ティンバイだってそう思ってリンシャンを探していたのだから。
「すっごいなぁ。星があんなに輝いてる。姉ちゃんにも見せてやりたいよ」
「ああ、見せてやればいいさ。そのために助けに行くんだからよ」
「うん!」
馬が走り出した。
ティンバイはシャオシーの姉が連れ去られた場所がどこか、分からない。だからシャオシーに案内を頼むこととなる。
シャオシーは子供でありながらも、ここら一体の地理に詳しいようだった。
「よく分かるな」
「ああ、他の村まで糞を集めに行くこともあるんだから」
「ほう、そりゃあすごい」
「たいして稼ぎにもならないし、大変なだけだけどさ。それでも村の中だけじゃあ餓え死にしちまうから……」
「ああ、そうだな」
きっとこんな子供はこの国にたくさんいる。ティンバイはまだまだこの国を豊かにする必要があると思った。
首都ばかりが富んでも仕方ない。
とにかく地方からこの国を立て直していくべきなのだ。
もっとも、そんな難しいことはティンバイの仕事ではない。ティンバイはあくまで暴力装置であって、この国の政治を担うのはもっと頭のいい人間たちだ。
――俺様は俺様のできることをするだけさ。
孫家の屋敷がある村が見えてきた。
荒野に突然、家が立ち並び出す光景というのはなかなかに不気味なものである。ポツリ、とポツリと家が増えるならばまだ良いが、いきなり見えない壁でもあるように家ができてくるのだ。
屋敷は村の中にあるようで、だからこそシャオシーもその場所がどこか分かっていたのだろう。
村人たちは全員が眠っているのだろうか。
「ふむ」
中に入ることは簡単だった。村の入り口には誰もいなのだ。もっとも、どこからが荒野でどこからが村なのかは不明瞭だが。
馬がゆっくりと歩を進めていく。
「このまま、まっすぐに行けば孫家の屋敷があるよ」
「ああ」
石門が見えた。
村の中にいきなりそんなものがあるものだから、ティンバイは驚いてしまう。
「あれかい?」
「うん」と、シャオシー。
「ふむ、石の壁、か……」
その壁の中からは、ところどころ木々が覗いている。あの中は森にでもなっているのだろう。
「でけえ屋敷だぜ」
その規模はかつてティンバイの村を支配した金持ちのものとは桁違いだった。ということは、中にいる馬賊の数も段違いなのだろう。
「オイラが見たことのある家じゃあ、一番の大きさだよ」
「ふーん」
ティンバイは馬から降りた。
「お前はここで待ってな」
どこかにつながずとも、逃げるようなことはしない。この馬は聡明である。ティンバイが帰ってくるまでずっと待っているだろう。
「ほら、シャオシー。お前には約束通り、このモーゼルを貸してやる」
それは龍の柄がついた、ティンバイの愛銃だった。
つまるところ、これはティンバイの父親の形見である。そんな大事なものをシャオシーに預けたティンバイは、こう思っていた。
――モーゼルが、この子をきっと守ってくれる。
「ありがとう」
「さて、それじゃあ行くぞ」
ティンバイはゆっくりと歩いていく。孫の屋敷は嫌味なくらいに大きく、そして広いようだった。
「ちょっと待ってよ、ヅォさん」
「どうかしたか?」
「どこから入るつもりさ?」
ティンバイはニヤリと笑った。
それはまるっきり獰猛な獣の笑い方だった。
「もちろん、門からさ」
と、当然のように答える。
その意味を、シャオシーは理解していないようだった。




