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736 女神の死


 地面に縫い付けられたディアタナは、まるで作るのに失敗した昆虫標本のようだった。


 頭と胴体、そして左腕だけがあって。他の部分は全て欠損している。長い髪がまるでマットレスのようにその胴体の下敷きになっているが、それは乱れに乱れていた。


「終わりだよ、ディアタナ。あんたの負けだ」


 ディアタナはもう体を治す魔力も残っていないのだろう。どこか諦めたような目で、俺を眺めている。


「私を殺して……何になるというの」


 その質問に答えるのは、俺ではない。


「満足しますわ」


 俺の背後で、胸に七支刀を刺したアイラルンが答えた。


「アイラルン、治すわ」


「いいのです、シャネルさん。いま無駄に魔力を使えば、この場所から帰れなくなります」


 そう言って、アイラルンは自分の胸に刺さっていた七支刀を無理やり抜いた。そしてその剣を、ディアタナの胸に突き刺す。自分が刺されていた場所と、寸分違わず同じ場所だった。


「ぎゃぁっ!」


 おおよそ女神とは思えないほどの汚い声を出すディアタナ。


 それに対してアイラルンは、やってやったという表情を浮かべていた。


「ディアタナ。貴下の敗因は理解していますか」


「……そっちのバグよ」


「いいえ、違います。貴下はシャネルさんにだけ負けたのではありません。ここにいる朋輩の、人間の力に負けたのですわ」


 そんなはずがない、とディアタナは首を横に振る。


「人間ごときが、私を倒すだなんて」


「そう思っているから、ダメだったんですよ。ねえ、ディアタナ。そろそろ人間にこの世界を明け渡す時ではありませんか?」


「それで、貴女の作った世界のように取り返しのつかない失敗をすれば良いと言うのですか!」


「そうは言っていません。ただ、もう少し、人間というものを信じてあげましょうよ」


 アイラルンは噛んで含めるようにディアタナに言う。


 しかしディアタナは目を見開いて、口汚くアイラルンを罵るばかりだ。


「この、邪神が! 人の世界を無茶苦茶にして!」


「いいえ、違います。貴下の世界の作り方は不健全なのです。全てを女神が管理して、そんなことは許されません」


「どうして!」


「どうしても、です。人が人たる所以ゆえんとは、その自由意志によって未来を決定していくことにあります。言い換えれば、彼らは彼らの力で未来を切り開いていくのです。それを貴下は否定して、食い止めてきた」


「それが彼らの幸せです!」


「そうかもしれません。けれど、そうではないかもしれません。ねえ、ディアタナ。貴下にだって、先のことは分からないでしょう? 確かにわたくしは失敗しました」


「それを見て、私は失敗しないように――」


「けれどね、人々は失敗したわけではありません。彼らなりに最善を尽くそうとして、その結果として世界が滅びたのでしたら、わたくしは甘んじて受け入れます」


「じゃあ、どうして私の世界を壊す!」


「それはね、貴下が私を踏み台にして、同じ轍を踏まないようにとこの世界をがんじがらめにしたからですよ。そんなことは許されません」


「誰に――」


「生きとし生ける物、全てにです」


 自分で言うのもなんだが、俺はバカだった。


 アイラルンたちの言っていることの半分もたぶん分かっていないだろう。


 だけど、なんとなく分かったのは。アイラルンが俺たち人間に対して信頼と慈愛の心を持っている、ということだ。


 因業。


 宿命的に不幸なこと。


 そしてもうひとつ、意味がある。


 それは、頑固なことだ。


 きっとアイラルンはその持ち前の頑固さで、人間のことを信じ続けていたのだろう。そしてまだ、信じようとしてくれている。


 他人からの信頼に答えたいというのは、誰にだってある心持ちだ。


「ディアタナ、これでおしまいです」


「あ、貴女も死にますよ!」


「ええ。そうですわね。でもそれはしょうがないことですわ」


 朋輩、とアイラルンは俺の肩を持つ。そしてシャネルを手招きして、俺を預けた。


 シャネルが優しく俺を抱きしめてくれる。


「アイラルン……貴女」


「わたくし、もう魔力だって残っていませんわ。すっからかん、そこのディアタナと同じです」


「帰るのでしょう、私たちと一緒に?」


「いいえ。それは無理でしょう」


「……そう、寂しくなるわね」


 いつも、寂しさなど微塵も見せないシャネルが、今回は本当に寂しそうだった。


「でも大丈夫ですわ、わたくしはいつだって皆様の心の中にいますわ」


「不法在留ね」


「強制送還されますわね!」


 冗談みたいにアイラルンは笑って、ディアタナの手に刺さっていた刀を抜く。俺はそれを受け取りたかったが、手に力が入らなかった。


 アイラルンはまるで他人のネクタイを締めてやるように、俺の腰にさされた鞘の中に、刀を入れてくれた。


「朋輩、これまでありがとうございました」


「待てよ、アイラルン……」


「いいえ、待てません。すでにこの場所は崩壊を始めています」


 見れば、遠くの空がしらんでいる。


 そして、その空へと色とりどりの何かが登っていっている。


 あれは……花だ。


 花が重力に逆らうように、ふわふわ、ふわふわと天に登っているのだ。


「アイラルン。お前、本当に死ぬのか?」


 さっき、時が停まっているときにディアタナがそんなことを言っていた。


 けれどそれはブラフのようなものだと思っていた。


 女神が死ぬだなんて、そんなふうには思えなかったのだ。


「厳密には死ぬわけではありません、ただ消えるだけです」


「それを死ぬっていうんだろ?」


「いいえ、違いますよ。心の中にいますからね」


 その例えというか、文言が気に入ったのか。アイラルンはケラケラと笑っている。


 心の中にいる。


 たしかにそうだろうが……。


 俺はまだ何か言おうとしたが、アイラルンに手で止められた。


「シャネルさん、そろそろ戻る準備を」


「ええ、そうね」


「帰り方は分かりますわよね? 五行魔法でまた世界に扉を開けるのです」


「できるかしら、魔力が心もとないわ」


「できますわ、貴女なら。この女神アイラルンが保証します」


「気休めでも嬉しいわ、ありがとう」


 待ってくれ、と言いたかった。


 まだアイラルンと話がしたかった。


 何を話したいのか、自分でも分からないが。これでお別れだなんてあんまりだと思った。


 なぜか、俺の目から涙が出る。


 いままでのアイラルンとの思い出が、色鮮やかに思い返される。


 俺の部屋で酒を飲んでいたアイラルン。


 飲みすぎて船からゲロを吐いていたアイラルン。


 前後不覚におちいって、廊下で寝ていたアイラルン。


 ……ろくな思い出がない。


 けれど、そんな女神だとしても俺にとっては大切な朋輩で。


「アイラルン!」


「朋輩、ありがとう。貴方のおかげでわたくしの復讐は達せられました」


「俺も、俺もありがとう!」


 やっと、いうべき言葉が見つかった。


「……朋輩」


「あんたのおかげで俺は前に進めた。この異世界で、復讐も果たせた。シャネルにだって会えた。あんたは俺の命の恩人だ! 女神アイラルン、あんたは最高だ!」


 俺はとぼしい語彙力で、なんとかアイラルンに感謝をしめす。


 アイラルンは涙ぐんで、頷いてくれた。


「ええ、朋輩。貴方も最高でしたわ」


 世界は、端からどんどん崩壊しているようだった。


 それはディアタナの寿命と連動しているのだろう。ディアタナはすでに何も喋らず、何もかも諦めきったうつろな目をしている。


 そんなディアタナをアイラルンは膝をついて抱きかかえた。


「さあ、ディアタナ。これで終わりですよ」


「……そうですね」


「貴下とは良い友人関係が築けると思っていたんですがね」


 ディアタナは何も答えない。かと思ったら、小さな声で、


「ごめんね」


 と、謝った。


「いまさらもう遅いですわ。わたくしを利用するだけ利用して、ボロ雑巾のように捨てた時点で、この未来は決まっていたようなものです。わたくしは因業の女神ですからね」


「……ええ、そうですね」


「ふふっ。でもわたくし、満足ですよ」


「なにがですか」


「貴下も、最後の最後に人間の可能性というものが見られたでしょう?」


 シャネルが魔法で世界をつなげる扉を作り出す。


「シンク、行くわよ」


 その扉の先は、ブラックホールのように茫洋としている。


「ああ」


「最後の挨拶をなさい」と、シャネルはまるで母親のように俺に言った。


「アイラルン――」


「はい、朋輩」


「さようなら」


「ええ、さようなら」


 また会いましょう、とは言えなかった。


 だってこれは今生の別れなのだから。


 もう、俺はアイラルンに会うことはないだろう。


 長かった旅もこれで終わりだ。


 シャネルが俺をいざなうように、足を一歩踏み出す。


 俺も力を合わせて、前に出た。


 ゆらっ、と体が揺れた。


 それでも構わず前に進む。


 扉に入る。


 その瞬間、俺は最後に振り返った。


 アイラルンは笑っていた。俺を見て、俺たちを見て。


 その笑顔は、いままで見た中でもとびっきりのもので。可愛らしくて、しかも、美人だった。


 その笑顔の意味するところは唯一つだ。


 ――幸せになってくださいね。


 アイラルンは、そう俺たちに願いをたくしていた。


 かの女神は俺たち人間のことを、信じているのだ。ならば俺たち人間もそれに応えようではないか。


 幸せになる。


 それが俺にとって、前に進むということなのだから――。


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