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729 シンクのいない世界なんて


「……ごめんなさいね」


 シャネルはこちらを見た。


 その表情はじつに微妙なものだった。申し訳無さそうにしているようにも見えるし、べつだん何も気にしていないようにも見える。


 声にはなんの抑揚よくようもなく、体の動作にもこれといって特別なところはない。しいていうならばマバタキをしないくらいだ。


「大丈夫だったかしら?」


「無傷」と、俺は答えた。


「死ぬところでしたわ!」と、アイラルン。


 シャネルは小さく微笑んだ。その微笑みはまるで、シンクさえ大丈夫ならそれで良いのよとでもいうようなものだった。


「どこから来るか分からなかったから、全部を焼いたの。けっこう上手くいったと思うのだけど」


「良い作戦だった」


「わたくしが怪我することを除けばですがね!」


「アイラルンのことは、まあ良いよ」


「ムキー!」


「うふふ。まあ、終わりよければ、って言うでしょう?」


 そう、終わりよければすべて良いのだ。


 終わっていれば、な。


 ディアタナの体はすでに消え去っている。しかし俺の中に、なんとも言えない嫌な予感がまだ残っているのだ。


「あれでもダメなの?」


「残念ですが、通常のやり方ではディアタナを消すことはできません」


「そう。でも、もういないわよ?」


 シャネルの言う通り。ディアタナの姿はない。


 けれど、いきなり腕を掴まれたとき俺はそれが甘い認識だったことを知った。


「なっ――」


 瞬間移動。


 なのかどうかは分からないが、一瞬前までいなかったディアタナが目の前にいる。それは恐怖でしかない。


 ディアタナの馬鹿力で俺は腕をとられ、無理やりその場に引き倒される。そして背中から地面に押し付けられて、首元に七支刀の切っ先を突きつけられた。


「やって……くれますね」


 ディアタナは馬乗りになって俺の関節をきめている。


 こうされては動くに動けない。


「まさかあの男を見捨てて攻撃してくるとは思いませんでしたよ」


「見捨てた。誰が? 誰を?」


「シャネル・カブリオレさん、貴方は榎本シンクが危険になるようなことはしないと思っていましたよ」


 そうか、先程の炎の雨はディアタナからしても意外だったのか。


 たしかに俺としても驚いたが、あれが有効な手段だったことは事実だ。


「私はね、シンクを信じているのよ。私の魔法で傷つくようなことは絶対にないわ」


 ……そう言われたら嬉しいのだけど。


 ただね、ちょっと怖かったよ。


「ああ言えばこう言う。本当に人間というのは度し難い存在です」


「実際、シンクは傷ついていないわ。そして貴女は致命的なダメージを受けた。違うかしら?」


「この私が、痛みというものを感じる日がくるとは思いませんでしたよ。……腹がたつ!」


 ディアタナが俺の首元に、じりじりと剣を突きつけてくる。血が流れ出す。鈍い痛みを感じる。もう少しで動脈に刺さる、というところで手が止められた。


「シンクから離れなさい」


 シャネルが杖を向ける。


「それを決めるのは私です。まずはその杖を捨てなさい」


「断るわ」


「なっ――この男がどうなっても良いのですか!」


「やってみせなさいよ」


「なんですって!」


「もし貴女がシンクを殺せるのなら、どうぞご自由に。けれど本当にできるかしら」


「分かりましたよ、さては高をくくっているのでしょう? この男には『5銭の力』のスキルがあるから、殺されることなんてないと。なめるなよ、私は女神です! その気になればこんなスキル程度――」


「誰もそんなこと言ってないわ。私が言っているのはね、貴女がもしシンクを殺すなら私は貴女を許さないってこと。全身全霊――私の命の全てをかけて私は貴女を痛めつけるわ」


「なっ――」


「さっき貴女、すごい声だしてたわよね。痛かったんじゃないの? もう一回あんな思いをしたい?」


「め、女神を脅すつもりですか……」


「貴女がそう思うのでしたら、そうでしょうね。いいよわ、殺してごらんなさい。そうなったとき、貴女は地獄の業火に焼かれることになるわ」


 ディアタナの手が震えている。


 女神が恐れているのだ、シャネルのことを。


「もっとも、そうなれば私の方もただじゃ済まないでしょうね。魔力を無くして死ぬことになるでしょうね。でも良いの。シンクのいない世界なんて私が生きる意味もないんだから」


「この、バグが!」


「さあ、さっさと殺しなさい。人質をとったのでしょう、女神様? ならその人質を有効利用しないと損よ? さあ、さあっ!」


 シャネルに急かされた瞬間、ディアタナの体が一瞬無防備になった。


 おそらく迷ったのだ。


 どうすれば良いのか分からず、頭がパンクして集中が途切れた。


 俺はその隙きを逃さない。


 めいいっぱい腕に力を入れて、俺に馬乗りになるディアタナごと体を持ち上げる。そのまま横倒しにして、体を入れ替える。ディアタナは自分が失敗したことに気づいたのだろう、すぐさま俺に反撃するために七支刀を向けるが――。


「ふんっ!」


 俺はそれをあえて自分の首元で受けた。


 普通ならば首が落ちている。つまりは致命傷。


 魔法陣が出現して、ディアタナの七支刀は消え去る。


 ここに来てディアタナは不利を悟ったのだろう。その姿が煙のように消えた。


「シンク、大丈夫!」


 シャネルが慌てた様子で駆けてくる。


「なんとか」


「そう、なら良かったわ」


 俺はシャネルの顔を覗き込む。なあに? と、まっすぐ視線を返されたので目を背けた。


「本気で俺を見捨てるつもりだったのか?」


「見捨てるだなんてとんでもない! ちゃんと一緒に死ぬつもりだったわ!」


 なんて女だ。


 と、いまさら言ってもな。シャネルと俺の感性は違うのだ。これがシャネルの愛の形です、と言われたら俺は納得するしかない。


「分かった、俺はお前を信じるよ」


「ええ、そうして。それにしても面倒なことになったわね。さすが女神だわ。あれ、殺せるの?」


「方法はある」


「へえ、そうなの」


 そのためにはとにかくディアタナを足止めする必要がある。


 また瞬間移動で逃げられては面倒だ。


「とにかく、あいつを捕らえることができれば良いんだ」


「そんな甘いこと言ってる間にこっちが殺されかねないわよ」


 それが問題である。


「シャネル、なんか案はないかな?」


「そうねえ……あそこの女神様を頼ってみたら?」


「ん?」


 シャネルが指差したのはアイラルンだ。


 アイラルンは自分が戦いに参加できないことを理解して、少し離れた場所で身をかがめている。なんというか……役に立たない。


「できるわよね、アイラルン」


「えっと、頑張ってみますわ」


 アイラルンは立ち上がり、こちらに歩いてきた。


「いや、でもアイラルンじゃあ――」


「大丈夫よ。シンクだっていままで何度もこの女神様にいちおう。まあ、いちおうだけどね。助けてもらってきたでしょう?」


 シャネルは『いちおう』の部分をやけに強調する。


「そりゃあ……まあ」


「最後なんでしょう? なら3人でやりましょうよ。大丈夫、力を合わせればできないことなんてないわよ」


 本気か?


 それともシャネル、アイラルンをただ囮にするだけのつもりか。


 その真意は分からない。


 ただ――。


「やってやりますわよぉ! 朋輩、わたくしも手伝いますからね!」


 アイラルンはやる気みたいだし。


 これで行くしかない。


 アイラルンに聞いた最後の作戦は単純だった。必殺の『グローリィ・スラッシュ』を使って、ディアタナの存在そのものを消し去ってしまう。


 死なない相手でも、消し去ることはできるのだという。


 チャンスは多くないはずだ。たぶん、1回だけ。


 2回目の『グローリィ・スラッシュ』を使うことはできない。


 緊張している。


 俺たちは3人で固まって、ディアタナがまた出てくるのを待つ。


 その時間は、永遠にも思えるほどに長かった――。


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