718 ディアタナの一般論
扉を開けたそこにある風景に、俺は息を呑んだ。
花畑だ。
それも一面の。
色とりどりの花が咲き誇っている。その花が清澄な風で揺れている。ほのかに香る甘い匂いが俺の鼻孔をくすぐる。
この場所にいるだけで優しい気持ちになれそうだった。
けれど俺の隣にいたアイラルンはそんな花を踏みしだいて前に進む。その目は美しい花などまったく見ていない。ただ一点を凝視していた。
「ディアタナ!」
アイラルンが叫ぶ。
花畑の中心にはディアタナが立っていた。長い金の髪は地面にまでたれている。
不覚にも俺はその姿を見て、美しいと思ってしまった。
「くっ!」
唇を噛んでその感情を制御する。
いまから殺すとする相手に見とれてどうするんだ。
ディアタナの周りにある花たちはまるで女神にたいして頭をたれるように茎を曲げている。そんな花に囲まれて、ディアタナはこちらを見ていた。だが、その目は俺たちのことなどとらえておらず、もっと他の何かを見ているようだった。
ディアタナはしゃがむと、花を一輪手折った。
「ここで会ったが百年目ですわ! 覚悟なさい!」
アイラルンの言葉にもどこ吹く風だ。
ディアタナは俺たちに背を向けた。
まるで俺たちなどこの場にいないかのように。けれどそれはただ俺たちを無視しているだけで、本当のところディアタナも俺たちの存在には気づいていた。
「はあ……まさかここまでやってくるとは」
背中を向けたまま、ディアタナは言う。
「ええ、来ましたわ!」
「愚かですね。愚かすぎて驚きますよ。愚かという言葉はアイラルン、貴女のために存在するようなものですね」
「だとしたら貴下に贈る言葉は『卑劣』ですわ!」
「卑劣、この私が?」
ディアタナは振り返る。その手には一輪の花が握られている。その花がなんなのかは分からないが、綺麗な赤色の花だった。
「自らの利益のためだけに、わたくしを騙した! これを卑劣と言わずになんと言うのです!」
「言いがかり、というのではないかしら? 私は貴女を騙したつもりなんてないわよ」
「だとしても――わたくしの世界を実験台のように扱って、それで失敗すると分かれば自分の世界は発展を止めさせる! これではわたくしが道化ですわ!」
「実際そうでしょう? 貴女は、貴女の世界を自らダメにした。そういうの、私には関係のないことですよ。それを逆恨みして、私の世界にまで迷惑をかけて。恥ずかしくないの?」
「わたくしは、ただ人が人たる生き方をするべきだとそう主張しているのですわ! 唯一の神である貴下だけを信仰して、あとは何も考えない。そんな生き方をする人々が可哀想です!」
話にならない、とディアタナは首を横にふった。
「可哀想? 私の世界に住む人たちはみんな幸せそうですよ。もっとも、個人の不幸までは知りませんが。ただ総体で見れば幸せ、良いことよ?」
「そんな与えられた幸せ――」
「幸せも与えられなかった貴女が何を言うの?」
「それはディアタナ、貴下のせいよ!」
「人のせいにしないでくださる?」
話は平行線だった。
それはアイラルンも分かっているのだろう。何かしら、ディアタナの平気そうな顔を歪めるような暴言を吐きたいようだが、何も思いつかないらしい。
怒りで口をパクパクとさせて、顔を真っ赤にしている。
「ねえ、そこの人間。ええっと、なんて名前だったかしら――」
俺は名前を問われても名乗るつもりはなかった。
「――ああ、そうそう。榎本シンクね。思い出したわ」
本当に忘れていたのか、それすらも分からない。
ただ俺たちを煽っているだけではないだろうか?
「貴方はどう思うの? そこの邪神のことを」
「わたくしは邪神ではありませんわ!」
「けれどこの世界では邪神よ。それを分かっていて勝手に入ってきたのでしょう? 不法侵入。破廉恥だわ」
「な、なんですって!」
「私はいま、そこの人間と話をしているの。少し黙ってなさいよ。ねえ、榎本シンクさん。貴方はどう思うわけ。その女のせいで、貴方は不幸になったのよ。宿命的な不幸――つまりは因業に」
「さあ、考えたこともないな。そんなことは。俺の不幸ってなんだ?」
少なくとも、俺はこの世界に来てからそれなりに幸せだった。
そりゃあ生きているんだ、辛いこともあった。けれど辛いときでも隣にはいつもシャネルが居てくれて、俺を支えてくれた。
辛いって文字だってそうだろう?
もし一本でも支えてくれる棒があれば、それは『幸せ』になるってなもんだ。
「能天気な男ですね。それとも察しが悪いのかしら?」
「あんたが何を言いたいのかはだいたい分かってるよ」
それに、アイラルンのことも。
「あら、そうなんですか?」
ディアタナはその美しい顔を少し歪めて、驚いた表情を見せる。その表情はいかにも作り物めいていて、俺たちのことをバカにしているようだ。
「俺の不幸――それは俺が元いた世界で誰にも頼ることができずに1人で引きこもっていたことだ」
「分かっていたんですね、自分の憐れさを。けれどその憐れさを作り出したのは――」
「アイラルンだろう? ここまで言われたらいい加減分かるさ。この世界はあんたのもの。それで、俺たちが元いた世界は、アイラルンのものだった」
「朋輩……」
「そこまで分かれば話が早いですよ。ねえ、榎本シンク。貴方はアイラルンにそそのかされているんです。その邪神が考えるのは自分の復讐だけ。そんなことに手を貸して、いったい何になるんですか?」
「さあ?」
「良いですか、一度しか言いませんよ。復讐はなにも生みません。ただ虚しいだけです」
「一般論だな」
「そう、みんな知っていること。だからね、榎本シンク。復讐なんてやめて――帰りなさい」
俺はため息をついて、刀に手をやった。
「言いたいことはそれだけか?」
「……はい?」
「そうか、それだけか。くだらない御高説をありがとう、あんたから賜った言葉は一生忘れません。けれど、俺には関係ない話だ」
「……愚か!」
ディアタナは手に持っていた赤い花を握りつぶした。
手のひらから、まるで血のように花の液体が流れ出る。それはポタポタと下に落ちて、色とりどりの花弁たちを染めた。
「アイラルン、行くぞ。最終決戦なんだろ? ここまで来たんだ、作戦の一つくらいあるんだろうな!」
「も、もちろんですわ朋輩!」
ならたとえ神が相手でも無様をさらすということはないだろう。
抜刀。
さてはて、どうなることやら。
本当に勝てるのか?
というか傷の一つでもつけられるのか?
分からない。
けれど、できないと思いこめば、できることだってできなくなるってなもんだ。




