703 自己とはなにか
俺は走っている。
いいや、違う。
俺が走っている!
そうだ、俺が走っているのだ。俺という自己がどこにあるかは知らないが、全てがある場所へと向かって、声にいざなわれて走っている。
「ふむ……そういえばキミ。榎本シンクくん。俺はキミのことをなんと呼べばいいかな?」
「勝手に好きなように呼んでくれ!」
「ならキミがここに来るまでに考えておこう」
「俺はあんたをなんて呼べばいい!」
「ここに来れば分かることさ」
「あんた、そんな周りくどい話しかたして、友達いたか?」
「多かったな、みんなにはこの話し方が好評だったぞ」
「俺には不評だ!」
「はっはっは!」
顔の見えない男だが、この笑い方には好感が持てた。
「くそ、笑ってばっかりいてよ! そっち行ったら覚悟しておけよ!」
しかし俺も素直じゃない。思わず憎まれ口を叩いてしまう。
「そうだな、待っている。ところで榎本シンク――キミは自己とはどこにあるモノだと思う?」
自己?
いや、まあさっきからずっとそんな話をしているのだけど。
「自己ってのはモノじゃないだろ!」
「そういう揚げ足取りは好きじゃないな」
「揚げ足鳥……ちょっと待って。揚げ足鳥ってどんな鳥だ?」
「いやいや、ちょっと待て。キミはなにか勘違いしているぞ。揚げ足取りの『とる』は、ものを取るの取るだ、鳥の方じゃない」
「ものを……とる? とるってどの? 写真とかとは……」
「違うな。足が止まっているぞ」
「あ、すまん」
俺はトボトボ歩きながら考えた。
――この男は日本人か?
日本語についての会話で盛り上がれる。
いや、しかしこの異世界に来て俺は言葉についてよく考えたが、どのような言葉で話をしているのか、いまいちよく分からなかった。
俺の言葉は自動的に翻訳されている――ということらしいが。
「考えるのと走るの、一緒にできないのか?」
男の呆れたような声が聴こえる。
「走るの疲れたんだけど」
「疲れた! すごいな、もうそんな認識まであるのか。空腹はどうだ?」
「お腹? 言われてみれば減ったかも……」
「それはマズいな、空腹はなくしたほうが良いぞ。ここでものを食べても虚しいだけだ、腹も膨れないしな」
「じゃあお腹のすき具合なんて確認しないでくれ」
そのせいで認識しちゃったんだから。
「すまんな。ところで、キミは自己というものがどこにあると思っている?」
「はいはい、その話をしたいのね」
「いや、べつにしたいわけじゃないが。こっちに来るまでの暇つぶしだ。キミが考えることで、キミという存在は確立されているわけだからな」
「考えていなければ、自分が自分じゃなくなるか。怖い場所だよ」
「適当に考えろ、走ることが先決だ」
「分かってるけど。自己のある場所――脳みそじゃないのか?」
考えるってのはつまり脳がやっていることだろ?
だから俺という存在は、この脳みそにある。
うん、そうだと思う。
「しかしキミの脳というものはいま、この空間にはないぞ」
「難しいこと言いやがる。たしかにまあ、俺の脳なんてないんだよな……」
「キミはキミとして認識したから、この場所に肉体を持った。もっともその肉体だって仮りそめのものだがな」
「ちょっと待ってくれよ。じゃあ最初にあった俺はなんなんだ? 俺はディアタナに神社の中に押し込まれてこの場所に来たんだ。そこまでは覚えてるんだ」
「ああ、見ていたよ」
「見てた!? じゃあ助けてくれよ!」
「どうして俺が? いや、そもそも俺にはキミを助けることなんてできないさ。それは分かってくれたまえ」
「……まあ、いいんだけどさ」
それにしても本当になにもない。
俺は自分を見てみる。
走っている俺。走っているのだからとうぜん足がある。そして振っている手もある。服も着ている。けれど武器はない。
武器……かぁ。
出たりするのかなと試してみる。
出た!
いやあ、意外とできるもんだね!
俺の腰にはいつもの日本刀がある。
「何を遊んでいる?」
「いや、武器がないと落ち着かなくて」
「ふむ……キミはここで誰かと戦うつもりか?」
「そういうわけでもないけど」
「その刀、格好いいね。こっち来たらよく見せてくれよ」
「え、いいけど……」
なんか食いついてきたな。
それにしてもこのひと、何なんだ?
誰かも分からないし。
変なことばっかり言うし。いや、これは考えてもしょうがないことか。
それよりもいま考えるべきことは、自己がどこにあるのかという質問のはずだ。
「話を戻すけど、脳にないなら、どこにあるとあんたは思うんだ?」
「それを考えてみよう、ということだよ」
「え、結論とかないの?」
「いやあ、俺もここ500年ほど考えてみたが、よく分からないんだ。自己、他者、どうだろうな。たとえばキミは自己と他者をどうやって見分けている?」
「俺は俺、それ以外は他人!」
「なるほどな。しかし他人にもいろいろあるだろう。これはたとえ話だが――もし他人が自分のことを全て理解していたとしよう」
「全てってのは?」
「本当に全てだ。自分の人生から、思考まで。そうだな、その他人は自分と同じ存在と言い換えても良いだろう」
「クローン人間みたいな?」
「ぜんぜん違う。全てが同じ、もう1人の自分と考えてくれ」
ガ○ダムでいうところのニュータイプとも違う?
コピー人間とでもいうべきか。
「そういう人がいるとするわけだ」と、俺。
「いるんだ。足が遅くなってるぞ」
「難しこと言うから歩くのが後回しになる」
「あまり深く考えるな、適当に考えろ」
「それなら得意だけど」
「そういう自分のことが何から何まで分かってくれる人間がいたとして、さて、それは他人か?」
「えっ……?」
俺は少し考える。そしてすぐに答えを出した。
「他人でしょ? だってあんたも他人って言ってるじゃないか」
「だが自分の全てが分かるんだぞ。それが本当に他人か?」
自分の全て……。
それってどういうことだろうか。
俺の全てを分かってくれる人。そんな人が存在するとは思えないけど。だって、俺は俺なのだから。シャネルは俺のことを理解してくれるだろうが、全てではないはずだ。
ああ、ただこれは仮定の話なのか。いるかいないじゃなく、いるとするわけだ。
「うーん、自分の全部か。それってもはや俺、ってこと?」
「だからそう言っているじゃないか、はじめから」
「俺……俺がもう1人」
「たとえばキミが食卓で少し離れた位置にある醤油がほしいと思う。するとその他人はそれを取ってくれるわけだ。なにせキミの考えていることも全て分かるのだからな」
「例え話が庶民的すぎないか! いや、まあ、それは便利だけど!」
「だろう?」
「ああ……でもやっぱり他人だな」
「なぜ?」
「だってその他人が俺のことを理解していたとしても、俺はその人を理解してないんだもの。それなのに全部知ってるよ、ってされたらむしろ怖いだけだ」
「なるほどな、まったくもって同感だよ」
「だから他人だ、自分がもう1人いてもね。むしろ同族嫌悪みたいなのが生まれちゃうかも」
同族嫌悪、か。
そういえばシワスは死んだのだな。
俺が殺した。
あいつは死んだから、もういない。
では俺は?
俺はいま、生きているのか、死んでいるのか?
「ならばさらに考えてみよう、自己とは何かを――」
「まだ続くのか?」
「もう少しだけ付き合ってくれ。この話が終わる頃には俺のいる場所に来られるさ」
ならば、と俺は頷いた。
「今度はその他人の全てをキミも知っているとしよう。つまり他人が考えていることも全て分かるわけだ」
「うんうん」
「さて、ここで問題が生まれる。それは本当に他人と言えるのか? 相互理解の究極、互いが互いのことを全て分かっている。いいや、同じだ。
もしその2人にこれまでの人生があるとすれば、それはまったく同じもの。いま考えていることも全て分かって、そして過去に考えていたことも全て分かる」
「本当にまるっきり同じなんだな」
まるで細胞分裂しているように。
「そうだ。さて、榎本シンク。これは他人か?」
俺は考える、しかしすぐに答えはでなかった。




