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 なにもない空間。


 上下左右はもちろんのこと、時間だってない。


 そして俺という存在すらも。


 自己という意識はここにある。ここ――というものがどこであるかは不明だが、自分がいるという認識はしっかりとあるのだ。


 しかし五感から何かを感じられるわけではない。


 意識。そうだ、意識だ、それだけはあるのだ。


 意識、すなわちそれが自己であるというのがどうか、俺はそんな難しいことは分からない。ただ自分がいるのだ、このなにもない空間に。


 いや、そもそもここは空間なのか?


 空間などではない。


 なぜなら何もないから。


 じゃあここはどこ? 私は誰?


 いや、私は誰? はおかしい。


 俺は俺だ、榎本シンクだ。


 それは分かるのだが。


 しかし不思議な感じだ。なにもないのに、俺だけがある。


 俺だけがある?


 バカ言うなよ。


 なんだ俺って、誰だ? いや、俺だ。


 俺って誰だ? 俺だ。


 ……これ飽きたな。


 もう少し楽しいこと考えよう。そうだ、シャネルのことでも。


 シャネル……シャネル。シャネル・カブリオレ。これはフルネームだ。特徴としては胸がでかい。いや、それ特徴で良いの? 良いか。


 髪の毛が銀色で、目がサファイアみたいにキレイな蒼色で、優しい声をしていて。身長は女の人にしては大きい方かも。俺よりは小さいけどね。


 あとはそう、俺のことが好きで。


 本当かなぁ? なんて思うのだけど。だってあんな美人が、10人がいれば10人振り返るような美人が俺のことを好きってそんなことありえないでしょ。それがありえるんだから異世界って素晴らしいね!


 異世界だからシャネルは俺のことを好きになってくれたの?


 もしシャネルがあちらの世界にいて、俺と出会っていたら、俺のことなんて見向きもしなかったのかな。どうだろうか、分からない。


 分からないことは考えない性分だったが、この場所――場所、という言い方が正しいのかは分からない――では時間はたっぷりある。そして考えることくらいしかやることがない。


 なので俺は考えた。


 きっとシャネルは俺のことを好きになってくれるはずだ。どこで出会っていたとしても。そう思うことにした。そうでなければ、やってられない。


 あと、シャネルについては……あ、そうそう。あんまり良くないなと思ってることが1つだけあった。あの服装の趣味だ。


 とにかくフリフリなのだ。


 もう本当に装飾が華美!


 お耽美たんびですわ!


 俺はあんまり好みじゃないんだけど、シャネルは大好きで。いつも部屋にはお洋服だらけ。きっとあの子は俺の元いた世界にいたとしても、ああいう服を着てるんだろうな。


 さて、どれくらいの時間がたっただろうか。


 分からない。


 そもそもこの場所には、時間すらないのだから。


 そうか、これが永遠か。


 永遠ってのは恐ろしいものだな。これは人間の耐えられるものではないだろう。


 俺はきっとそのうち、考えることをやめてしまう。


 いまだって……もう。


 眠たい?


 いいや、これは違うな。どうでもよくなっている。


 このまま俺は死ぬわけではないが、何者でもないナニカへとなっていくのだろう。考えることをやめた俺はすでに自己を持つわけではない。


 それはなんでもない。


 あるいはそうなれば存在が消えたということになるのだろうか?


 この空間ですらない、なにもない無に取り込まれてしまうのだろうか。


 それは、怖かった。


「おおぃ。おいってば」


 ふと、声が聞こえた。


 けれどそれはおかしいとすぐに思う。だってこの場所で声などするはずがない。


 それに俺にはいま、耳もないのだ。もし声がしたとしても聞こえはしない。


「なんだ、無視してるのか。それとも、狂ったのか。どっちにしろ見捨てるわけにはいかないよな。おい、おいってば! 聞こえているなら返事をしろ! っていうのも、無茶か」


 なんだ?


 何がおこっている?


 なぜ声が聞こえるんだ!


「いいか、認識しろ。お前はそこにいるはずだ、理解しろとは言わないが、分かれ!」


 無茶苦茶なことを言われている。


 どういう意味なのかよく分からないんだ。


「お前はそこにいる、そうだろう?」


 そう言われた瞬間、俺は自分の手を見た。


 俺はここにいる?


 あ、いるじゃないか!


 手を見ただってさ、手があるぞ。それに目も。俺の体がある!


「よし、よし、いい調子だ。お前は誰だ?」


「俺は……榎本シンク。あんたは?」


 声の主は姿を見せない。


 俺の目は俺の体だけを認識して、他は何もない。


「俺か? そいつは会ってみたら分かるさ。さあ、こっちにこい」


「こっちってどっちだ!」


「声のする方だ、歩けるか?」


「歩く……いや、歩いてみるけど」


 足を動かす。そういう行為はできる。しかしそれが歩いているのか分からない。なぜなら景色というものがないからだ。俺はただ足を動かしていて、前に進んでいるのか、後ろに下がっているのかも分からないのだ。


「大丈夫だ、それで良い。こっちへ向かってこい」


「向かっているのか、俺は! どこへ!」


「選ばせてやる。未来、希望、栄光。さあ、どれが良い?」


「あんたはそういう場所にいるっていうのか!」


「いいや、ここには何もないさ。ただ全てがある」


「意味がわからないぞ!」


 俺は知らずしらずのうちに大声を張り上げていた。


 そのことが声の主――おそらくは男だ――は、楽しいらしく、声の語尾がスキップするように上がっている。


 仲の良い友だちに久しぶりに会って喜んでいるようにも思える。


「そういう感情の高まりは大切なことだ。いいか、自分を見失うな」


「あんたに言われなくても――」


「その調子だ、榎本シンク。俺はお前を待っていた」


 気味の悪いことを言いやがる。


 これでせめて女の子だったら嬉しく声の方に行ってやったものを。


 きっとこの声の先にいるのはむさ苦しい男なんだろうな。そういうの分かっちゃう。ただ、敵ではなさそうだ。


 さっさと行って、その顔を確かめてやる!


「ほう、驚いた。走れるのか」


「走れちゃ悪いか!」


「いいや。ただ、キミは凄まじいな。俺の助言があるとはいえ、この場所に来てすぐにそれか。俺がキミのように自己を固められたのは、100年くらいしてからだったかな」


「100年?」


「おい、足が止まってるぞ」


「止まってない!」


 いや、止まってたか?


 おかしい場所だ、少し気を抜いたら自分というものがバラバラになってしまいそうだ。俺の体はちゃんとあるか? それをずっと認識続けていなければ肉体を維持できないのだ。


「いいか、自分を考えろ」


「自分を考える、変な言葉だ」


「それが大切だ」


「まるで禅問答だな」


「そりゃあ良い、自分を考えるのは禅問答か? 自分というものが何なのか理解できれば悟りが開けると言うか?」


「そんな難しい意味で言った訳じゃない! ただ、あんたの言ってることは分からないってだけだ!」


「こっちに来たら分かるかもしれないぞ」


「詐欺っぽい言い方だ!」


「かもしれないな。榎本シンク、頑張れ。まだ道は長いぞ」


「まだ長いのか!」


「いいや、もう少しかもしれないな」


 イライラしてくる。


 なにを言っているのか分からないにも程がある。


 しかも、男の声は俺を励まそうとしているというのが伝わってくるのだ。ならばもっと分かりやすく言ってくれてもいいのに!


 頑張れ、頑張れ、俺ちゃん頑張れ!


 誰も応援してくれないので、自分で自分を応援してみる。


 むなしい!


「キミは面白い男だな、榎本シンク……」


「なにがだよ!」


「見ていて楽しいよ、あの子……シャネルも気に入るわけだ」


「あんた、シャネルのことを知っているのか?」


「ああ、もちろんさ」


 俄然興味が湧いた。


 俺の足は少しだけ早くなった。――と、自分では思った。


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