700 この世をば
鳥居の前にいる女神は、慈悲深い表情をしている。
しかし俺が刀に手をやった瞬間、その目の片方だけがすがめられた。
「なんのつもりでしょうか?」
「俺はシャネルのところへ帰る」
「それは許しません」
「あんたに許してもらうことじゃない。それでも俺を引き止めると言うのならば、押しのけてでも通るまでだ」
「愚かな……女神である私に武器を向けるとは。言っておきますが、私はアイラルンとは違いますよ。貴方に容赦をする必要はありません」
「容赦? そんなことは望んでいない」
見たところディアタナは武器を持っていない。
ならばこちらが有利かと言えば、そうではないだろう。
なにせ相手は女神だ、いったい何をしてくるつもりなのかまったく分からない。
「刀を収めなさい」
「……まだ抜いてないだろ」
「貴方ならそこから一瞬で刀を抜いて距離をつめることも、なんならあの必殺技を私に撃つこともできるでしょう? もっとも、そんなことには何の意味もありませんが」
「試してみるか?」
「疲れるだけですよ、それでもお望みならばどうぞ」
はったりとは思えなかった。
俺の勘が告げている、この女神に刀を向けたところで仕方がない。
「そうそう、刀をおろして。それでついてきなさい」
ディアタナは俺に背中を向けて、歩き始めた。
背中を向けて、だ!
なめられている。しかしそれに怒りは感じない。相手は女神だ、それこそ人間の尺度ではかるべきではないのだろう。
ディアタナについて鳥居をくぐる。
すると、次の瞬間には鳥居の前に戻されていた。
これは強制的に場所を移動させられているよりも、時間が戻されている? 俺はなんとなくそう思った。
「やり直し」
「何がだ!」
「貴方のような不浄な人間を入れてやるだけでありがたいと思いなさい。そのときに一礼するのは当然でしょう?」
「なんだそれ、新手のマナーか?」
「育ちの悪い人、親の顔が見てみたいものです」
一瞬、怒りが湧いた。
そのことに俺自身が疑問を持った。
いまさら親のことをバカにされて怒る? 俺が? あんな人たちのこと、こっちに来てから考えたことすらほとんどなかったのに。
「どうかしましたか、礼をしなさい」
「こだわるな」
べつにここで意地をはる必要はない。俺は軽く一礼してから鳥居をくぐった。
「頭をたれる人間を見るというのは気持ちが良いですね」
「あんた、ずいぶんと世俗的なことを言う女神なんだな」
「アイラルンよりはマシですよ」
「どうだかな」
神社の境内に入ると、そこには威圧感ともいえる厳かな雰囲気があった。
無人の小さな神社、短い参道の先には本殿だけがある。手水場もあったが、どうやら水は来ていないようだと俺は思った。
空には朝日が昇り始めていた。
ディアタナは昇る朝日を見つめて、手をかざす。すると、その朝日がするすると落ちて、いき、代わりに空は暗くなり、世界は闇に包まれた。
その世界の中で、月の光だけが俺たち2人をスポットライトのように照らした。
「時間の操作も自由自在か、アイラルンもそういうのやってくれないかな?」
「あの女神にはできませんよ、この世界は私のものです」
「この世をばわがよとぞ思う望月の、ってか?」
「かけたることもなしと思えば――良い歌ですね」
「品がないだけさ」
「まあ、人間が歌えばそうでしょうがね」
ディアタナは神社の前にある賽銭箱に座った。
「罰当たりが」
「自分のものに座っても文句はないでしょう。榎本シンク、貴方も座ったらどう? その地面の上にでも」
「いや、断るよ」
高い位置にある賽銭箱、そこに座るディアタナは俺を見下している。
「まあ、良いですけどね。それにしても貴方が勝つとは思いませんでしたよ。あの魔王といい、私の送った刺客といい、貴方はそれを見事に退けてみせた」
「シワスだ」と、俺は言う。
「はい?」
「お前の送り出した刺客はシワスという名前だった。知っていたか?」
「ああ、たしかにそういう名前でしたね」
やっぱりか、と俺は思った。
シワスのことなどほとんど興味を持っていないのだ、この女神は。俺は少しだけシワスが可哀想になった。
「貴方は私の計画をことごとく潰していく。こんなことは久しぶりですよ、あの男――英雄ガングーに飲まされた煮え湯を、まさか貴方のような凡人にも飲まされるとはね」
「ガングーか、シャネルの先祖だな。そんな人と同格に言われたら、俺も鼻が高いよ」
嘘だ。
べつに嬉しくない。
むしろこの女神が何を言っているのか、分からない。
「私はこの世界を進歩させたくないのです」
「それはアイラルンに聞いたよ」
俺はいつでも刀を抜けるように警戒する。
「そのためにずっと、人類というものを管理してきました。あのアイラルンと同じ轍を踏まないためにも、それが何よりも有効な手段だったから――」
「あんた、なんの話をしてるんだ」
「私はいま、榎本シンク。貴方に文句を言っています」
その瞬間、俺の体は動かなくなった。
「なっ!」
金縛りだ。
指先すら動かない。
「さっきからチラチラ、チラチラとその殺気を向けるのをやめていただけますか? 鬱陶しいことこの上ない。言っておきますが、女神であるこの私には傷などつけられませんよ」
「そうかよ」
「そもそもこの世界は私のものです、ならばこの世界の武器でこの私に傷などつけられるわけがないでしょう?」
「なら素手で殴ってやろうか?」
「野蛮人」
「その野蛮人を集めて戦わせたのはあんただろ」
「戦わせた?」
「けしかけた、とでも言うか? シワスに俺を殺させようとしたんだろ」
「それくらいしか、この世界の時間を停滞させる方法はありませんでした。いいえ、時間はなんとか停滞させてみせましょう、この女神ディアタナが。ただ貴方の存在は邪魔なのですよ」
「俺が何をした」
「貴方と、アイラルンが、しでかしたことは大きいですよ。この世界をグチャグチャにかき回して。ええ、ええ、そこに関しては読み負けました。それは認めましょう」
「なんの話だ?」
「あの魔王ですよ! 私はてっきりあの魔王こそがアイラルンの狙いかと思っていましたが、それをまんまと、裏をかかれました!」
それはこの前も言っていた気がすることだ。
しかし俺が魔王を――金山を殺したのがそんなに都合が悪いのか。
「そのせいで私は泥縄であんな男を用意して――」
あんな、男、シワスのことだろうか。
「結果的に、この国の時間すらも進めてしまった。開国、革命、そして列強に並び立とうとするその向上心による、戦争。やってくるのは争いの時代です。その結果として、アイラルンの世界はどうなりましたか!」
「何を言っているんだ」
分からない。
だが、ディアタナが声を荒げている。
怒っている。
「貴方を殺すことは、できません」と、ディアタナ。
「ほう」
「しかし貴方を消すことは、できます」
そう言ってディアタナは賽銭箱からおりて、神社の扉を開けた。
その先には、ブラックホールのような闇の渦巻く空間が広がっていた。




